スッタニパータ623

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

623 罪がないの罵られ、なぐられ、拘されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第三九九詩に同じ。

罪がないのに――aduṭṭho. パーリ文註解に akuddhamānaso とあり、また註解文の前後の文脈から見てナーラダ長老は「怒ることなく」と訳している。

拘禁――akkosaṃ vadhabandhañ ca. これは古代東部インド語の対格複数形であるかもしれない(Luders:Beobachtungen,§216,S.150)。

 以上註記より引用した。

釈尊十大弟子の一人で説法第一とされる富桜那ふるな尊者(サンスクリットでプールナ、パーリでプンナ)には次のような逸話があります。

ある時、富桜那尊者は釈尊のもとを訪れ布教の旅に出たいと申し出ました。
釈尊が「何処に説法に行くのか」と尋ねますと、尊者は「西の彼方のスナーパランタ国」だと申しました。

スナーパランタ国の人々は気性が荒いと聞いていた釈尊は、そこで尊者にその覚悟を問いました。

「罵られ、辱しめを受けるかも知れない。」
「殴らないのだから善い人だと思います。」

「殴られたらどうするのか。」
「棒で叩かれないのだから善い人だと思います。」

「棒で叩かれたらどうするのか。」
「刃物で切られないのだから善い人だと思います。」

「刃物で殺されてしまったらどうするのか。」
「世の中には自ら死を選ぶ人もいます。苦しみから殺してくれと願っている人もいるでしょう。その時には私を悩みから救ってくれた善い人だと思うことでしょう。」

釈尊はこの覚悟を聞いて富桜那尊者を送り出し、尊者は見事に西の彼方での布教を成功させたといいます。

怒らないこと

この富楼那尊者の話は、仏教徒が一度は耳にする話です。私たちの大乗菩薩戒でも「不瞋恚戒ふしんにかい」と申して、どのようなことがあっても、怒りを鎮めることと教えられています。お坊さんで怒る者は、まずこの戒を破ることになるわけです。ところがこれがなかなかよく保てないのです。何故でしょうか。ここが教えを実行しているかどうかの判断基準になります。

逆に申し上げます。ブッダが本詩で説かれているように、どのような仕打ちを受けても、ただ耐え忍ぶことが出来る勇者は、さとった人であるということです。真のバラモンと賞賛されるのです。怒りや悲しみを大いなる慈しみで抱きしめることが出来れば人間としての完成であります。

スッタニパータ622

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

622 ひも革帯かわおびを、手綱たづなもども断ち切り、
門をとざす障礙しょうげ)を滅して、目ざめた(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
紐――nandhi;v.l.,nandi.結ぶ性質があるので、怒り(kodha)を紐にたとえていう(パーリ文註解 ad Dhp.398)。

革帯――varatta.縛る性質があるので、愛執(taṇhā)を革帯にたとえていう(パーリ文註解 ad Dhp.398)。

綱――sandāna.六十二の誤った見解(dvāsaṭṭhidiṭṭhi 六十二邪見)を綱に譬えていう。

手綱――anukkama.ひそんでいる煩悩(anusaya)を手綱にたとえていう。

門をとざす閂――paligha=Skrt.parigha(cross-bar,Torbalken).rがlとなっているのも、古代東部インド語の痕跡である(Luders:Beobachtungen,§130)。無明(avijjā)のことをいう(パーリ文註解)。
目ざめた人――buddha.パーリ文註解 (ad Dhp.398)には四諦の理をさとった人と解しているから、崇拝対象としての仏ではなくて、真理をさとった人というほどの意味で、用法としてはジャイナ教など他の諸宗教と共通である。また後代の仏教教学によると、四諦の理をさとるのは小乗の声聞の道であるにすぎないとされていたのに、ここのパーリ文注釈には、四諦の理をさとることによってブッダとなり得ると説いているから、初期の仏教思想がまだ注釈のうちにも保存されていたのだと解し得るであろう。

以上註記より引用した。

(なお、四諦の理については、『遺教経』などに明確に釈尊の言葉として出てきますから、大乗仏教においても最も重要な教えとされていることに変わりありません。)

スッタニパータ621

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

621 すべての束縛そくばくち切り、おそれることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

 

スッタニパータ620

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

620 われは、(バラモン女の)はらから生ま(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは〈きみよ、といって呼びかける〉といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれてい。無一であって執著しゅうじゃくのない人、──かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第三九六詩に同じ。cf.Sn.1063.

われは、(バラモン女の)胎から生まれ……――ここの二十八の詩句は『ダンマパダ』第三九六―四二三詩に同じ。最初期のジャイナ教聖典でも理想の修行者をバラモン(baṃbhaṇa)と呼んでいる(Utt.XXV,vv.19-29,33,34)。また開祖マハーヴィーラをバラモン(māhaṇa=brāhmaṇa)と呼んでいる(Suy.I,2,1,v.15)。

きみよ、といって呼びかける者――バラモンのこと。バラモンは互いに他人に向って、「きみよ」(bho)という語を以て呼びかけるからである。さらに原始仏典を見ると、バラモンはゴータマ・ブッダに向って「きみよ!」(bho)といって呼びかけている。ゴータマ・ブッダに対して特別の尊厳を払っていないのである。
かれは何か所有物の思いにとらわれている――sakiṃcana.情欲(rāga)などを所有していることであるとパーリ文註解(ad Dhp.396)は解するが、しかし原義は、自分が財産や名声など何ものかを所有していると思いなすことを言うのであろう。

無一物――akiṃcana.何物をも所有しないこと。本書では特に強調されている。第一七六四五五四九〇五〇一、六四五、一〇五九、一〇九一、一〇九四詩参照。パーリ文註解(ad Dhp.397)には情欲(rāga)などを所有しないことと解するが、語釈としては適切でない。
以上註記より引用した。

スッタニパータ619

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

619 人間のうちで村や国を領有する者あれば、
かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
人間のうちで村や国を領有する者が……――叙事詩でも同様にいう
(MBh.Ⅲ,207,26f.)。

以上註記より引用した。

スッタニパータ618

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

618 人間のうちで司祭しさいの職によって生活する者あれば、かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
人間のうちで司祭の職によって生活する者が……――叙事詩でも同様にいう
(MBh.Ⅲ,207,24)。

以上註記より引用した。

スッタニパータ616

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

616 人間のうちで盗みをして生活するがあれば、かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
盗みをして生活する者――adinnaṃ upajivati.直訳すると、「人から与えられない物で生活する者」。
古代インドでは、盗賊が一種の職業と見なされていた。そうして盗賊と国王とは並べて挙げられている。どちらも良民から暴力を以て何ものかをゆすり取るからである。

以上註記より引用した。

 

 

スッタニパータ615

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、かれは傭人やといにんであって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

お知らせ

昨日、大慈観音堂の建設予定地を師匠老師が視察されました。

その足で、

地元の曹洞宗常榮寺様へ師匠と理事長と共にご挨拶に参りました。

また地元区長様宅へご挨拶に上がりました。

もう、後には戻れません。

起工式の日取りも8月17日と決まりました。

忙しくなります。

スッタニパータ614

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

614 人間のうちで売買をして生活する人あれば、かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
人間のうちで売買をして生活する人が……――叙事詩でも同様にいう(MBh.Ⅲ,207,24)。

以上註記より引用した。

勘違いしてならないのは、バラモンが優れていて商人が劣っているということを言っているのではないことです。昨日までの農夫や職人、これからも同様であります。

商人とは、売買をして生活する人のことだと言っているのです。名称、肩書、地位、職業など人々を区別表示するのは、ただ名称によるのみであるということを延々と説明します。なぜ類似の事例を列挙するのかといえば、例外はないということを間接的に示しているのであります。