631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

『ダンマパダ』第四〇七詩に同じ。 芥子粒が……――ジャイナ教でも同様にいう。「磨かれた金のように汚れや悪を払い落し、愛著と嫌悪と恐怖とを離れた人、――かれをわれらは真のバラモンと呼ぶ」(Utt.ⅩⅩⅤ,21) cf.MBh.Ⅲ,206,33. またこの第六三一ā詩に数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれに近い。ジャイナ教では煩悩として rāga,dosa(dvesa),moha,annāṇa(=ajñāna)を挙げている(Utt.ⅩⅩⅤⅢ,20)。 隠し立て――makkha 註(Pj.)によると,他人の美徳を隠すこと(paraguṇamakkhaṇa)。パーリ文註解にも(ad Dhp.407)にも他人の美徳を隠すことと解している(paraguṇamakkhaṇalakkhaṇo makkho) (paraguṇamakkhaṇa.Pj.ad Sn.631)。 しかし仏教一般では自分のあやまちを隠蔽することをいう。漢訳では「覆」という。Skrt.mraksa(『倶舎』論四巻七丁右、Abhidhatmakosa Ⅱ,27)(『倶舎論』二一巻四丁左、Abhidhatmakosa V,49). 以上註記より引用した。
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もちろんスッタニパータはまだまだ続きますが、少しお休みを頂いております。
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さて、本詩は永平寺ご開山の大悟の提唱である「身心脱落」という解脱の瞬間を想起いたします。
身心脱落という一言に無数のさとりが込められております。
これは修行の完成であると同時に結論中の結論でありまして、もう「身心脱落」の言葉の前には何も申し上げることがありませんし、できません。
もうしばらく本詩を味わい尽くしてみたいと思っております。