スーパー坐禅

スーパー坐禅
Super Zazen

Super Meditation

スーパー坐禅とは

 

何も考えない。

これだけです。

はっきり言います。

宗教・学派・宗派によらない。

学問・文化・習俗にも偏らない。

仏教にさえ、こだわらない。

スタイル関係なし。

場所限定なし。

椅子に座っていても、床の上でも

それこそ寝ていても構わない。

何も考えない。

ただそれだけ。

明るい時はまぶたを閉じて、

暗ければまぶたを明けて、

黙って真理を実行する。

マインドフルネスなどと難しいことを考えない。

禅や瞑想など忘れてしまう。

坐らなければ、とも思わない。

どこにいようが、どのような状況でも

何も考えない。

頭には、何かが浮かんでくるが、

頭脳は確かに生きているが、

何にもとらわれない。

考えないということも、考えない。

何も思わないなどとも、思わない。

何も考えない。

スーパー坐禅」と名付けただけです。

この言葉にもこだわらない。

世界の争いは考え方や宗教の争いです。

社会や家庭の中での争いも

すべての争いは考え方に原因があります。

自分の見解さえも超えること。

すべて捨てること。

とにかく、

何も考えない。

そういう時間をもつこと。

一日のうちに

たとえ、5分でも10分でも

できれば20分以上

40分間が理想です。

何も考えない。

そのときの姿勢は、

できるだけ背筋を伸ばして

できるだけで良いので

手の平を上に向けて重ねる。

ただそれだけですが、

おそらく、誰もやらない。

だからこそ、やればわかります。

これは、全てを超えるための

大昔からの修行の方法です。

あえてスーパーと付けるのは、

あまりにも坐禅のスタイルに拘りすぎているからです。

「坐禅」という言葉にもこだわらない。

「坐禅」を超えた「坐禅」なのですが、

「◯◯◯」とでも書いておけばいいのですが、

これでは訳が分からないので「超坐禅」

これも今一つなので「スーパー坐禅」。

何も考えない。

すべてを乗り越えること。

それは全てを捨てること。

時間の概念さえ捨てて、

今、現在にもこだわらない。

あらゆる概念を捨てること。

これがスーパー坐禅の心です。

スーパー坐禅は、実行・実践の姿です。

もちろんそれにも拘らない。囚われない。

何も考えない。

ただそれだけです。

やまだしょうどう
山田正道

スーパー坐禅だ。

目次

最初の一歩

    1. 閉じない開かない、眼。
    2. 姿勢が一番、直。
    3. 何も考えない、無。
    4. 一対一の教え、面。
    5. 一人で坐る、独。
    6. 続けられるかどうか、貫。
    7. 妄想と執着、空。
    8. 解脱とは何か、真。
    9. 呼吸は自由自在、友。
    10. 普段のおこない、行。

ふたたび最初の一歩から


最初の一歩

 正月に近くの温泉にいって陶器でできた湯舟「壺湯」に浸かりながら冷え切った身体を温めました。ジーンと芯から温まっていくのが分かります。ああ、極楽気分だなあと、そのときふと目の前のモミジの小枝の先が燃えるように光っているのに気づきました。それは一瞬でしたが、たしかに燃えているように見えたのです。何でもないことですが、枯れ枝の先が燃えている錯覚を楽しみました。これだから人間やめられません。

還暦を過ぎた頃から、さまざまな体の器官が衰えてきています。それは検査でも確認できたことですが、少し走ったり坂道を上るときにも息切れしますし、好きだった高温サウナも自重しています。肺気腫と狭心症。タバコは絶対に止めて下さいと云われて、狭心症の処方された薬を飲んでいると頭痛や吐き気がして、夜中の三時ごろになるとは狭心症の発作が起きていました。薬は毒。そう考えてあっさり薬を止め、タバコを再開。すると頭痛も吐き気も発作とて起こりません。あれから八ヶ月経っていますが、体調は良好です。

おかげで僧侶の仕事もブログも無理なく続けられておりますが、会社は辞めました。年金の一部とお布施や謝宜という謝礼で食いつないでおります。一人暮らしですから生活には困りませんが、このままでは終りたくないと思って、何かしなければと奮起しまして、つたない文章ですが、今一番伝えたい事をまとめてみました。

それは一言で申し上げれば「スーパー坐禅だ」と。夜中に眼が覚め跳ね起きて、それまで見ていた夢の続きを思い出そうと必死になったのですが、「夢は正常な人間の異常な心理」とかで、何のこっちゃさっぱり思い出せませんでした。「スーパー」を付ければいいものではありませんが、坐禅という形式ばったスタイルに対する問題意識や、瞑想という行き過ぎた流行に辟易しており、さらにマインドフルネスが健康法としてメジャーになってしまっている現状に、どうにも黙っておれない虫が騒ぎ出していたからでしょう。潜在意識に毎日のように刻まれた恨みは「怨念」のようなもので、「それは違う、そうではない」という感情となって現われます。怖いものです。

真理というものは、だれにでも理解できるものでなくてはならない。一部の研究者や宗教者あるいは好事家によって弄ばれるものでは決してない。研究・研鑽対象であったり学問的な趣味で終わらせてしまってはいけない。かんたんな事を小難しくして、狭い範囲に閉じ込めておくのは勿体無い。言葉は悪いですが、だれでも真理を実行できる術というものがある、と宗教・思想をこえた「SUPER ZAZEN」を提唱する次第であります。

「真理を実行する」という言葉は永平寺の前貫主であられた故宮崎亦保禅師の「黙って真理を実行する」という言葉からの引用ですが、曹洞宗とか禅宗といった枠組みを超えて、膨大な仏教学にとらわれることなく、原始仏教、上座部、大乗仏教にもこだわらずに、もっと大きく言えば超宗教のスタンスで述べてまいりたいと思います。

とにかく読んでみてください。巻末にお寺の電話番号を記載してあります。この電話は24時間わたしの携帯電話に即時に転送されます。電話に出れないときには申し訳ありませんが、後ほどこちらから電話させていただきます。お問合わせやご相談はお気軽に。と書いてもほとんどの方は電話されません。それはよくわかっておりますが、どうかこのテキストをうまく利用してください。せっかくのご縁です。何が幸いするかわかりません。ご賢明な読者であれば、私が何を言いたいのかご理解いただけると信じております。一つだけヒントを差し上げるとするならば、これは発明ではなく利用であるということです。苦行することなく解脱(げだつ)できる方法を

平成二十九年正月 禅龍寺書院にて 山田しょうどう


1.閉じない開かない、眼。

瞑想は眼を閉じる。坐禅は半眼だと云われています。まずこれが「こだわり」です。普通に明るいところでは眼を閉じます。暗いところでは眼を開ける。これでいい。眼は閉じるでも開くでもないわけです。薄暗いところで眼を瞑ると眠くなります。明るいところで眼を開けていると気が散ります。目蓋というものが付いているのですから、これを自然に使わない手はないわけです。

わたしは電車の中でも、食事のあとのわずかな時間でも、一人でいるときに坐禅します。坐禅を静かなところでしなければならないというのが第一の「こだわり」です。たしかに静かなところで坐禅するのは理想ですが、そうそう理想的な時間や場所が得られるわけではありません。電車の中の騒音、家族の声が飛び交う中でも坐禅ができることは重要なことではないでしょうか。「おいっ、静かにしろ、坐禅できんやないか」などとは誰もいわないでしょうが、自分が黙ればいいのです。その時にその場所でその眼を真っ直ぐ前に向けます。そして自然に目線が下に落ちていく。目蓋を閉じている場合でも眼球を正面に向けて、それからゆっくりと床に向ける。

それが結果的に約一メートル前に視線を落とすということであって、それ以上でも以下でもないところに、ちゃんと落ち着くのです。すべて自然なわけです。それを目は半眼、視線は三尺前に向けてなどとやるものですから、スタイルにどんどんこだわっていくことになります。ただし背筋、正確には首筋ですが、これは真っ直ぐ垂直に立てるように気をつけます。この真っ直ぐということは次に詳しく述べますが、ここでは、目すなわち眼球と目蓋という器官と、眼という、ものを見る眼に着目してください。

眼は口程にものをいう。黙っていません。あちこちキョロキョロ右顧左眄。定まらないのが通常の眼です。あれもこれもと右往左往するのは目移りばかりしているからです。あるときには色目を使い、あるときには眩しく感じ、そういう日常を送らざるを得ないのですが、一日に無数の目移りを続けている、つまり余計なことを考え、思い、悩み、あるいはボーっとしていると大変に疲れるわけです。ほとんどの疲れは眼からです。眼から入ってくる情報は膨大な量になることは科学的にも明らかです。耳や口鼻から入ってくる情報とは比べものになりません。

身体を首から上と下とに分けて、上に乗っている頭のなかで正面に一番上についている眼は、なにも眼球ばかりではありません。眼球以外の眼があることは、誰でも知っています。それはものごとを観る眼です。見解といってもいいでしょう。観念というものは恐ろしく頑固です。固定観念はもとよりあらゆる観念はそのほとんどが妄想です。もちろん日常生活に必要な知識や貞操観念などは大事でありますが、どうでもよい観念にとらわれて盲目になっていることはよくあることです。困ったことに本人が気付いていないことが多い。主観客観にかかわらず、この観念や見解の眼も休めてあげる必要があります。これは睡眠では取れない疲れです。薬やサプリを飲んでも眼精疲労はなかなか取れません。観念の眼をリセットしなければ、どんどんゴミのようなものが脳に蓄えられていきます。坐禅の効果のひとつは、パソコンのクリーンアップのようなもので、頭のなかの掃除です。ゴミやほこりが溜まったら、目にごみが入っていたら、それを取り除けばよろしい。それが眼を閉じない開かないで行う掃除です。良いとか悪いとか、好きとか嫌いであるとか、必要不必要に関わらない時間をもつこと。それが坐禅のひとときです。「眼を開ける」と「眼を開く」では似て非なりであります。心の眼を開けるために、たしかな鍵があります。それが坐禅であることを学んでいただきたい。眼いっぱい。それが眼前にあります。


2.姿勢が一番、直。

つぎに何と言っても姿勢です。態度ともいいます。とにかく有無をいわずに坐って下さい。椅子にでも床の上にでも場所を選ばずに坐ります。座(坐る場所)にこだわって時を失うことなかれ。坐りたいと思ったときが吉日ならぬ吉時です。素直に坐って下さい。酔っ払っていようが素面でいようが関係ありません。疲れているときこそ一時坐れば一時の佛。佛というものはいつでもどこでも佛です。佛に素直になれないで、なにが佛ぞ。佛というのは人間の沸騰した状態でありますから、ここぞというときに、佛になればいいのです。構えている場合ではありません。佛を特別扱いしないことです。自らの中に佛がなければ、世界中どこを探しても佛を見つけることはできない。そうした正直なことを誰も言わないから、佛なんか自分に全く関係ないと思っている。関係ないどころか、人間には例外なく仏性という佛の血が流れておるのです。信じる信じないにかかわらず、人間の世界とは全く違う永遠の命というものがあるということです。それは、腐ったこの世と縁を切ることで完全になりますが、人間は自ら望んでこの世と縁を切りません。ですから好むと好まざるとにかかわらず、輪廻という循環の輪の中に身を置いているのです。ここではこれぐらいにしておきます。今は理屈をこねないで、ただ坐ってみてください。姿勢を正すだけでよろしい。首筋の耳の後ろあたりをぐっと後ろに引きます。顎を引くのがコツです。少し痛いですが、気持ちいいでしょう。すると自然に背筋が伸びてきます。腰が入ります。わかりますか?。身体を真っ直ぐにすることを身体で覚えるのです。理屈は後からついてきます。こんな簡単なこともできないで、坐禅などと高尚なことを抜かすから、鼻っから何もつかめないのです。まずは真っ直ぐということを体験してみて下さい。理屈抜き、実行あるのみです。

最初は姿勢に徹底して拘ってください。型というものがあります。剣道でも柔道でもその他の武道はもちろんあらゆるスポーツに基本の型というものがあります。基本的な型を早急に身に付けて下さい。これは一週間もすれば身につきます。できれば一対一で教えてもらうことを勧めます。自分の姿を観てもらうだけでいいのです。坐相といいますが、とにかくその人がその人らしく真っ直ぐな姿勢、態度を取れるようになるまで観察してもらうとよいと思います。

自分では真っ直ぐに坐っているつもりでも、一般にどちらかに傾いています。前であったり、後ろであったり、右や左と偏っているものです。その人の癖なのですが、体型的なことではなく、脳が覚えている形状記憶のパターンですから、意識して戻す。鏡で見てもいいのですが、その鏡をみている自分が傾いている場合がありますから、これは信頼できる正常な人に客観的に観てもらうのが手っ取り早いと思います。

真っ直ぐということは坐禅の心棒です。直心と書いて(じきしん)と読みますが、そういうことは脇において真っ直ぐ、率直に申し上げれば、ずばり体と心はリンクしておるのです。同期しているというか、身体がまっすぐになれば心もまっすぐになります。曲げようがないのです。邪まなことは頭に浮かばない。ちなみに身体を真っ直ぐにして、助平なことを思い浮かべてみて下さい。どうですか、さっぱり離れてしまうでしょ。それが人間の本質なのです。邪まなことを思うときには決まって背筋が曲がっています。顔が前に出ている。あごを突き出しているのです。これは獣のときの癖です。四足のときの態度なのです。人間にしかできない直立歩行。そうした善なる姿勢、態度を保つ。それは直立不動です。立つときにも坐るときにも背筋を伸ばす。顎を引く。これがコツです。骨ということです。それこそ最初は骨が折れますが、慣れればこれが一番楽チンです。心を真っ直ぐにしましょうと言っても心は真っ直ぐにはなりません。ところが、身体を真っ直ぐにすれば心も真っ直ぐになる。真っ直ぐの法則です。やればたちまち分かる具体的な方法です。ぜひ実行してみてください。

直言しています。読者にへつらうことを知りません。いいでしょうか、あなたは曲がっています。気に食わなければ直ちにこのテキストを破棄してもらって結構です。ほとんどの人の顔が歪んでいるように左右対称の人などこの世に存在しません。必ずといっていいほど偏っています。それを自分で真っ直ぐにする。努力。それをするかしないかです。自分は間違っていないとほぼ全員が思っています。自分が全て正しい。そこが大問題。自らの姿勢を正すことに努力しない人が、偉そうに自分を過信しているのです。もう一度くどいようですが申し上げます。あなたは曲がっています。

曲がっていようが俺は俺、私は私。そういう観念に多くの人間がとらわれています。もう知りませんが、あえて申し上げます。今ならまだ間に合います。今からでも、ただちにその固定観念を捨てて下さい。自分の姿勢を正そうとしない人が、何も成し遂げられないばかりか、好ましくない道に落ちていきます。これは警告です。脅しではありません。四六時中とは申しませんが、一日のうちでも、折りに触れ姿勢を正すことを試みて下さい。毎日、時と所によらずに、姿勢を真っ直ぐにする習慣。これ以外ないのです。首筋を立てるだけです。それだけで全てが変わります。怒りが収まります。愚かさに気づきます。貪欲にブレーキがかかります。

真っ直ぐということ。これがスーパー坐禅です。時や場所さらには状況を選びません。たとえば暴言を吐かれた時に、とっさに身を正すことができるかどうかです。わずかな意思で首筋を立てられるかどうかです。これを勇気といいます。誰彼がこう言った、あの人がこう言った。たったそんなことで、見事に心が凹みます。そんなときに毎日の習慣は強いものです。とくに身体に染み付いた習慣は絶大な力を発揮します。毎日坐禅している人の強みは、何事にも動じません。不動。動かないのです。ほとんどの人が醜く反応しますが、坐禅の人は動じません。それがどうした、小さな些細なことだと動じないのです。和して同ぜず。喧嘩になりませんし、おもねることなく、静かに堂々と対応できます。なんとか言えよと匙を向けられたとしても、是非に及ばず、無言を貫けます。これほど強いものはありません。何を云われても何も答える必要はないのです。ただ堂々と坐禅していてください。それは身を真っ直ぐにするだけです。習慣になれば何も難しいことはありません。首筋を立てるだけでよいのですから。

坐禅は坐禅堂(僧堂)という整備された空間で坐るだけが坐禅ではありません。畳の上や座蒲を用いなければならないということもないのです。どこでも背筋を真っ直ぐにできるところであれば、場所に限定なく、いつでもどこでも出来ます。そもそも坐禅というのは特別な姿勢ではないのです。およそ人間にとって一番安定した姿勢でありますから、普通に語るときも普通に人の話を聞くときも、食事の時も、それこそ大小便のときにも坐禅なのです。

パソコンに向うときも掃除や洗濯、料理のときもおよそ姿勢を正しながら黙々と向かいます。その姿勢、態度というものが坐禅であるとするものです。こう申し上げると決まって違和感をもたれます。やむをえないのですが、それが坐禅という言葉からきているのかもしれません。食事のときも瞑想しているとは言えませんので、食事のときも坐禅していると言います。寝ているときも坐禅、真っ直ぐになるという意味です。四六時中坐禅を意識する。そうやっていると立っていても歩いていても横になっても全て坐禅といえるのです。首筋を真っ直ぐにして行うことは全て坐禅と定義しておきます。そういう意味でもスーパー坐禅と言わざるを得ません。

心を意識しないということです。心というのは脳の働きではありません。まったく実態がないものです。思考あるいは気持ちや感情が心でもありません。心という捉えどころのないものに固執することをやめることが始まりであり全てです。それをどうやって実現するかというのが、身体の姿勢に注意することなのです。そのキーワードが「直」です。まっすぐというのは曲がっているのを直すことでもあります。理由はともかく真っ直ぐにする。目の前のものを真っ直ぐに揃える。スリッパが曲がっていたらそれを真っ直ぐにきちんと直す。机が曲がっていたらまっすぐに直す。整理整頓をすれば真っ直ぐになる。それが心を真っ直ぐにする方法です。

姿勢と環境をまっすぐにする他にないのだということを知ってください。人の心も自分の心も直接にはまっすぐに出来ないが、姿勢をまっすぐにしたり、ものを真っ直ぐにすることによって、心が真っ直ぐになります。やってみればわかりますが、やらなければ永久にわかりません。「額縁の傾きに見る社風かな」という川柳がありますが、黙って直せばいいのです。なにも難しいことはありませんが、やることが大変むずかしい。真理というのは深遠で壮大なものですが、真理を実行するというのは、とてもシンプルなことです。真理を発見することなど到底不可能ですが、真理をそのまま実行することは容易です。地球であっても地軸という真っ直ぐな芯を中心に廻っています。時計がきちんと時を刻まなければ時計ではないように、人間も真っ直ぐに生きていかなければ人間ではありません。その生きていく中心に据えるのが、姿勢であり態度であると申し上げておきます。


3.何も考えない、無

「何も考えない」ということは、このスーパー坐禅の肝の部分です。じつはこれだけでもいいのですが、この「何も」という部分と「考えない」の部分を分けて説明いたします。なぜなら何も思わないではなくて何も考えないということだからです。人間の思考には思うと考えるがあります。また脳の働きとして「感じる」という機能もあります。当り前ですが、あえてこの三つに分類したときに、感じるのはやむを得ません。五感というものは五官すなわち五つの感覚器官によって自然に入っていきますから、そういうものまで排除しようというのではありません。暑いと感じるのは熱さや熱のせいです。同様に全ての感覚は、それ自体で完結しています。ところが、そこから何かを思ったときに、これはもう余計なことです。先程の例でいえば、「暑さ」を感じることは自然です。「暑いな」と思ったとたんに思考に入ります。そして「嫌だな、エアコンを入れよう」と一気に進みます。すると次から次へとまるで猿が木から木へ飛び移るように思考のジャングルの奥深くに入っていきます。これをモンキーシンキングあるいはモンキーマインドといいますが、これに対しては一発消去しかありません。何を言ってもだめです。理論的に考えようとする癖がしっかり身についていますから、どんなにあがいても理屈にしかなりません。すべて妄想だとはいいませんが、ほとんど妄想ですから、すぐに火の粉を払うように消してしまいましょう。

この時に効果的な鉄砲玉があります。それが「無」という言語です。この無を説明していると何時間あっても足りませんから、とにかく何かを考えだしたら、すぐさま、この「無」という文字を頭に描いて下さい。口に出して言うように頭のなかで「無」と一蹴するのです。これは訓練すれば直ぐに身につきます。「無、無、無」と機関銃のように玉を打つ必要はありません。一発で仕留めます。「無」で十分です。無の意味を考えないで下さい。無は無ですから、鉄砲玉と同じです。玉自体に深い意味など必要が無いのです。瞬殺です。

私たちは、なにごとにも意味づけすることがクセになっています。よく「意味ね~し」などと言うでしょう。「訳わかんねー」とか、どうでもいいのですが、これが体質になっているのです。この理由追求の体質がモンキーマインドの元凶です。いつまでたっても埒があかない本質です。理由なんて不必要です。とにかく何も考えないコツは、感じたら即「無」とやる。これは思考停止という感じではなくて、思考削除、思考抹消、思考消去どれでもいいですが、何しろ感覚として「一発消去」が一番近いと思います。

冷暖自知といいますが、冷たい水に手を入れてみなければその感覚はつかめません。寒ければ暖かくすればいい。体験する。実際に自分でやってみなければわかりません。やればわかります。人間は言語で思ったり考えたりしますから、毒をもって毒を制す。言葉で言葉をコントロールする方が速いのです。よく、ラベリングといって思った感じた瞬間に、そのことを言葉にする方法を教えられたことがあるかもしれません。観行といいますが、ヴィパッサナー瞑想では「暑さ」を感じたときには「熱」、うるさいと感じたときは「音」などと一々ラベルを貼るようにして客観的にものごとをとらえる。ありのままをありのままにとらえる訓練をするといったものですが、これは正直に申し上げて、瞑想であって坐禅ではありません。文字を一心に思い浮かべる「念」や「想」あるいは「観」というのは意識を中心に行う修行方法であって、瞬間瞬間には間に合わないのです。刹那消滅といいますが、一刻も猶予がないのが時であります。一々ラベルを貼っていたのでは間に合いません。こういうと、決まって誰かが文句を言い出しそうなのでこれ以上は申し上げませんが、申しわけないのですが、坐禅はそういうレベルではありません。

これは伝統的な修行ですから、一々反論を聞くまでもありません。調べればわかることですし、やってみればもっとよくわかります。無念無想というのは、念佛でも冥想でもないということ。何も考えない練習でもありません。言ってみれば何も考えない真剣勝負、ぶっちぎりの本番です。どだい人生に練習なんてことはありません。毎日が本番であり試合そのものです。日常生活のどの部分を切り取っても人生の一時であることは言うまでもないことです。

そうした瞬間瞬間を生きている。日常生活の一つ一つに気をつけることは大事なことですが、坐禅のときには、何も考えない精一杯の努力が必要です。こうした努力が日常生活に反映します。首筋を真っ直ぐ上に持ち上げるようにする。すると横隔膜がひょいと持ち上がって自然に呼吸が楽になります。肺活量が増える仕組みです。このことはまた後の方で詳しく述べますが、今は姿勢に気をつけて、ただ姿勢を気にすることに集中しましょう。余計なことが頭に浮かんだら即「無」と「一発消去」しながら、瞬間瞬間を大事に過ごして下さい。坐禅の力を信じて下さい。それは今直ちにできます。やることです。実行だけです。今すぐに。五分間だけ。


4.一対一の教え、面。

大事な話は「一対一」であります。このテキストを読んでおられるあなたと私は、今、一対一で教え合っています。私があなた様に教えているようですが、じつは私が教えられている一時でもあるわけです。当たり前です。このシンプルな関係こそが「一対一の法則」です。師資相承ししそうじょうといいますが、師から弟子へと教えが受け継がれていくスタイルを取っていますが、本当のところは「師から師へ」と受け継がれていくのです。この関係性は血脈けちみゃくと申しまして、釈尊からの伝燈歴代の仏祖の血が自分にも流れていること、そしてこの血はまた釈尊にまた巡っていくことを表しています。紙や布に書いた血脈書が血脈ではありません。それは単なる図解であって法(ブッダ釈尊の教え)が紙に書き出せるものではありません。

こういう話をすると仏教を押し付けるようなのであまり述べたくないのですが、そもそも仏教という概念あるいは観念が人によって千差万別マチマチですから、どうかこだわらずに聞いて下さい。このスーパー坐禅というものを説明しようとすると、いわゆるスピリチュアルな部分はなるべく切り離しておきたいと思います。なぜなら神秘的なことはその人の感性に依るところ大だからです。この感性という曲者は、感受性に過ぎないのですが、過大に捉えられてしまいがちなのです。

さて話を戻しますと、面と面を突き合わせて話をすることが一対一です。面接というものです。就職活動の面接を想い出してください。一対一の真剣勝負ですよね。面接の相手が複数であっても、話をされる方の方を向くでしょう。その時々に面と面を向かわせているのです。面と向って真剣勝負。ケンカではありません。勝負なのです。気迫です。このテキストを読む時にも真剣勝負として読んでください。勝ち負けではありません。大事なことを伝えようとしているのですから。

長らく三章までしかアップしなかったのは、三章までが話の中身全体の九割だからです。あとは省略して置こうと。本当に実行している人にしかわからないからです。実行ということ。教えというものは知っているというだけでは、それは言葉の上辺をなぞっているだけです。その証拠に、ほとんどの方が実践しない。それは解っています。教えというものは実行してナンボだとくどいように申し上げても、実行していない。これはどうしようもないのです。

実行していると必ず疑問が生じます。質問したくなるのです。ところが、自分の観念が強い人は、自分で好きなように解釈して通り過ぎていってしまいます。縁なき衆生は度し難し。これはもうどうしようもありません。そんな人に限ってモノの見事に何かの思想や宗教に勧誘されてしまうのであります。そこでお金を使わされる。わたしはそういう人をたくさん見てきました。刺激が欲しいんでしょうね。だから悪質な思想や宗教に溺れてしまうのです。

大昔から教えを求めるというのは、修行するというのは「師」を探し求めることでもありました。知っている人に尋ねるのが一番速いし確実なわけです。仏教で言えば仏教的な知識はそれこそ本やネットで十分すぎるぐらい手に入ります。しかし実感として掴めない、本当のところを知りたい、解りたい、これが大海の中にダイヤモンドを探すようなものでありまして、完全に無理です。途方もないとはこのことです。ちなみにインターネットの中で師に出会えましたか?

ここはキモの部分です。間違っても私がその師であると考えないでください。願い下げです。ここは大事です。言葉で真理は伝わりません。文字面で真理は表現できないのです。たとえば「自灯明、法灯明」という言葉をご存知でしょうか。己を拠り所としなさい。教えを拠り所としなさい。そういう意味ですが、これを知っていただけでは単なる知識に過ぎませんし、知った直後に観念になってしまうのです。

実際に師に出会いましょう。足で探すのです。実行してみるのであります。地球の裏側まで行っても師に出会うことは無いかもしれません。それでも足で探すのです。あなたが欲しいダイヤモンドは見つからないかもしれませんが、あなたが思っても考えてもいなかった出会いがきっとあります。

獄中にいても世界中を廻ることはできます。本やネットを取り上げられても、たとえ椅子に縛りつけられていようとも、師に出会うことは可能です。それが教えであります。坐禅はどのような環境であっても出来るのです。黙って真理を実行していれば、必ず自身の中にブッダを見るでしょう。完全な自由を手に入れることが出来るのです。周囲から観れば不自由極まりない「牢獄の囚人」であっても、「牢獄の看守」よりずっとずっと自由でいられるのであります。

何も考えない。これは「考えようとしない」ことではありません。身体全身に漲る精神統一であり、ボーっとしている暇はありません。瞬間瞬間の一息一息です。寝ている暇はありません。覚醒しながら完全にリラックスしている。身体の中心が地球のど真ん中を貫いている。そんなことを体感しながら「何も考えない」完全に自由な状態を目指すのです。余分なことは瞬殺する、余計なことは思わないでいれる、そういう時間が坐禅です。

眼の前に壁があります。面壁めんぺきといいますが、実際の壁でなくても壁に面と向って坐る。寝ていても天井を壁と思ったらいいのです。場所や空間は関係ないのであります。一対一で向かうのは誰と誰でしょうか。そうです。自己と面と向かうのです。自分の中にしか師はいません。神仏というのは自分の中にしか存在しない。当たり前です。このことを忘れたら元も子もないのであります。教えはもう既に十分すぎるぐらい入っております。情報過多どころか情報の海に溺れてしまっているのです。教えはただ一つ。ただ坐るだけです。

 


5.一人で坐る、独。

この一人で坐ることを「独坐どくざ」といいますが、これが本来は基本です。皆と一緒に坐るのは、修行方法を教えてもらうときだけです。これは誰かと一緒であると修行しやすいからです。一人でも座れるようになることが最初の目標なのです。なぜなら修行の場すなわち道場などをイメージしていただけば分かりやすいと思います。何か特別に厳しいとか大変そうだとか思われるかもしれませんが、反って楽なのです。自分だけが修行しているのではない、辛いのは自分だけじゃない。廻りを見渡せば皆んなヒーヒー言っている。皆んな辛そうだ、自分だけじゃないんだ。だからこそ頑張れるし意外と楽なのであります。

これは重要なポイントです。修行仲間は何よりも宝です。サンガといいますが、辛さを共有していることは、実は大変重要であり、サンガが佛・法と並んで三宝と呼ばれているぐらいです。得難く、会い難く、一生かけても友を得ることほどの幸運はないのです。真の友を得たならば修行の完成と申し上げても過言ではないのであります。ではありますが、残念ながらそうした真の友は誠に得難いとしか言いようがありません。これは現実であり、仏縁などと軽々しく話すことなどおこがましいのであります。ほとんど真の友と会えないと断言しても宜しいかと存じます。

では何故に「一人で坐る」のかを少しだけ説明いたします。修行道場で皆んなと一緒に坐っていても、道場を出て国元へ帰ってから、ちゃんと坐っているかといえば、ほとんど坐らない人が圧倒的に多いのです。あれほど寝る間を惜しんで坐った仲間も国へ帰れば、単純に忙しいのであります。いや坐禅という行事(行持)を行っていても、それは坐禅ではなく、見せるための行事であったりします。小さなお寺で誰が見ていなくても坐っているヒトは皆無でありましょう。

何故でしょうか。頭で坐禅を捉えているからです。言葉で「坐禅」を知っているだけなのです。修行だから仕方なく坐っていたのだとまでは申しませんが、本当にわかっていないのです。だから実際に坐らないし、坐らなくてもいいや、坐っていない、坐りたくないのであります。大変嫌らしい言い方で恐縮ですが、実行してナンボということが解っていない。教えが観念に成っている。行動こそが真実という単純な道理を弁えていないのであります。

たとえば人を好きになることを考えればわかりやすいと思います。男であれば彼女、女であれば彼氏を思い浮かべれば理解が速いでしょう。彼女を好きになるのに理屈も何も必要ないでしょう。好きなものは好きでしょう。寝ても覚めても好きな人のことが頭から離れないということは誰にでも経験があるでしょう。

単純至極です。坐禅が好きになったら坐禅するなと云われても坐禅するのであります。一人でも坐るのは義務感では駄目なのです。頭に描いた信念でも無理です。坐らずにいられない、習慣の奴隷になることなのです。自分で決めた習慣は守れます。否、守らずにいられないのです。自分が決定すること。このシンプルな法則を侮らないことです。

宜しいでしょうか。坐禅が大好き、彼女より好きになることです。一円もかかりませんし、一円にもなりませんが、対価は得られませんが、何の見返りもありませんが、それでも大好きになることは簡単です。この忙しい時に足を組み、手を組んで一人坐る。誰も見ていなくても、誰に見られていようとも、黙って背筋を伸ばす、首筋を立てる。そうした行動が真実であります。坐ることは何よりも行動なのです。動き回ることだけが行動ではありません。不動の行い。じっとしている。何も考えない一時、自己との対面、何でもいいのですが、とにかく好きにならなければ一人で坐ることはできないのです。それが人間の常です。

修行は頭から水をかぶったり、滝に打たれたり、火の粉を浴びたり、身体を傷めるものではありません。それはパフォーマンスに近い。修行とは正に行いを修めることです。自らの姿勢というものを正すこと無くして、何事も成し遂げられません。坐禅は自分を大事にすることです。自己への信頼です。これはやればできます。毎日、だまって真理を実行していること自体が、自己信頼に確実につながります。自己信頼つまり自信です。自信をもって何事にも向かえます。知らぬ間に向上していくのです。垂直登坂と申し上げておきましょう。

独坐は自己満足に似ていますが、似て非なり、完全に相違します。足るを知ることです。知足ちそくといいます。この世はとても素晴らしいし、とても腐っているのです。あの世に幸せを求めるのは、死んでからでいいのです。行きている内はこの腐った素晴らしい世界で「生きて生きて生きて」いくのであります。一息一息しかありません。

自由であることは独立と同義です。自由ほど厳しいものはありません。自らを由とするのであります。生き方、生き様として坐禅に生きる。これほど清々しいものが他に在るでしょうか。だれに迷惑をかけることもありません。そこを退いてくれと言われたら、さっさと立ち上がって別の所で坐ればいいのです。一人で坐る。独坐独立。ほんとうの意味での独り立ちなのです。

独。ブッダは「サイの角のように独り歩め」と申されました。これが基本です。真っすぐに進みなさいということです。一分坐れば一分の佛、五分坐れば五分の佛であります。一歩ずつ前に進んで参りましょう。

時間と空間を超えて、佛が佛と共に坐っていることに気づけば、坐らずにおれません。このことが信じられるかどうかです。独りが実は独りでないことに気付くかどうかであります。


 

6.続けられるかどうか、貫。

坐禅を止めてしまう人は坐禅を始めた人の何割かは知りませんが、おそらくほとんどの方が止めてしまうと思います。皮肉ではありません。現実です。ただ、私が勧めた方で一年以上続けられた方は、全員が今でも坐禅会に出席されておりますし、独りでも坐っておられます。これはもうほとんど意地のようなものでしょうね。(笑)いや、失礼しました。素晴らしいことです。尊敬いたします。

冗談はさておき、正直に申し上げまして私は、いわゆる「坐禅会」なるものが好きではありません。人と一緒に坐るのは理想的ではありますが私にとっての理想ではないのです。負け惜しみで申し上げているのではなく、独りでも坐るのではなく、どうか独りで坐って頂きたいのであります。

これが続けられるコツです。しばらく坐禅していなくてもまたやり始めればいいのです。三日坊主でいいのです。三日やってみて、一日休んで、また三日やれば続きます。このとき大事なことは、義務感を乗り越えることです。自分で決めたことでも自分でやめたくなることだって大いにあります。この時の障害がこの「義務感」です。この義務感の感を取ってしまって、義務にしてしまうことです。成功者は常に自己を律している、自律ということです。自立したなら自律なしに上手くいくはずがありません。必ず行き詰まるのです。仕事をしなければお金に困るようになるのと同じことです。

ところが義務感は簡単に放棄できてしまいます。たとえば毎日ブログを書くと決めても、まあいいやとなるのです。義務であれば簡単に放棄できません。たとえばお店を始めたらなかなか休業できないでしょう。まあいいやで信用が得られる訳がありません。原稿の締め切りや期限といったものが己を掻き立ててくれます。己に己が義務を課すことです。坐禅を単なる習慣にしておくと、何かのきっかけであっさり止めてしまうことになりかねません。これは理屈ではありません。私の経験です。

ですから坐禅堂とか坐禅スペースに拘っていたのでは、話にならないぐらい続かないのです。坐禅のスペースや服装や時間にとらわれていたのでは、全く話になりません。坐禅が大事なのであって、時、所、スタイルではないのであります。僧堂などの恵まれた環境ならいざしらず、普通の人が究極の習慣に挑戦するのであれば、何処にいようがいつでも坐禅できるように、あらかじめ準備しておく必要があるのです。心構えとして「スーパー坐禅」を身につけておくと超便利なのです。

ちょっと一服する時に、スーパー坐禅。食事をいただく時に、スーパー坐禅。大小便のときも、散歩のときも、電車の中で、人混みの中で、常にスーパー坐禅。スーパー坐禅のキーワードは、ずばり「無」。首筋を真っすぐにする、中心。

生活の中心に自己というものが存在しています。その自己の中心に坐禅を置く。この何気ない姿勢が、人生を変えていきます。やってみればわかるはずです。やらなければ永遠にわかりません。当然ですが、何でもやればいいものではないのです。坐禅は仏教の「戒と定と慧」の三学を統合した姿であります。かんたんに言えば、「自律と習慣と成果」であると申し上げても良いでしょう。

これを象徴したものが坐禅といえますし、何もカテゴリーとしての仏教にこだわる必要とてないのです。ブッダ自身が仏教の創始者を標榜したわけではありません。普通の言葉で、普通の生活の中に、正しく生きることを教えられたのです。悪いことをせずに善いことをしなさいと勧められたのです。そのお姿が、常に坐っておられた。泰然自若や虚心坦懐そういった姿勢を遥かに超えて、超然とした姿が皆の眼に映ったのです。

だれよりも苦行難行をされたゴータマ・ブッダという歴史上の人物が、苦行・難行ではなく、さりとて堕落・放逸でもない中道を示されたことは意義深いものがあります。悟りの内容は多くの仏典に示されてもいます。ただこの内容にはスピリチュアルな部分は微塵もありません。多くの聖者が説かれたように「自業自得」であり「因果応報」でありました。修行の根本的スタイルであった結跏趺坐も他の修行者と何ら変わりなかったのです。

ただ一つだけの大きな違いがあります。自己の見解さえも、あっさりと簡単に捨てることです。これが出来なければ続けられないのです。続けてこその道であります。道路でも水道でも続いていることが何よりも証拠です。道を貫くものは何か。道路であれば中心線でしょうし、水道であれば水でしょう。通っているもの、途切れることのないもの、続いているもの、それが貫くということです。一気通貫というではないですか、一息一息が続いているから生きていることを実感できるのです。心臓が止まったら死んでしまうように、決して止めない。そういう覚悟が「さとり」の外観です。

スーパー坐禅という言葉にもこだわらない。実行あるのみです。これが唯一の続く道であり、真理そのものの姿(相)なのです。


7.妄想と執着、空。

妄想もうぞう執著しゅうじゃくについては、最古層の仏典とされるスッタ・ニパータ やダンマパダに繰り返し示されておりますから、概念としてマイクロサンガのサイトにおいてもしばしば取り上げて参りました。ここでは同じように解説するのではなくして、当記事のテーマである「スーパー坐禅」の観点から少々私見を述べてまいりましょう。

妄想と執著は、私たちの一般的な思考のうちで両翼をなす障害であります。これを簡単に停止させられるほど私たちの頭脳は柔ではありません。かなりというか、生れてから今日までの思考の積み重ねによって、頑丈な鋼鉄のようで強靭そのものであります。(笑)ですから「思考停止」などという小手先の観念では到底太刀打ちなどできないのであります。ここを勘違いしている人がまことに多くて、ご丁寧にブログの記事でわざわざご指摘されていたりして、もう笑うしかありません。

決して小馬鹿にしているわけではありません。おそらくですが、いわゆるサマタとかヴィバサナー冥想といった瞑想法の観点で理論として批評を試みておられるのであろうと想像いたしますが、これは後世の仏教(論)における分析に過ぎません。何を信じ、どのようにお勉強されようが一向に構いませんが、坐禅はそのような学問的な分析に全く馴染まないのであります。

何度も申し上げておりますように、坐禅という言葉そのものに何の意味もありません。座ってする禅定でもありません。どだい「禅」という漢字はジャーナという原語の音訳に過ぎません。意訳は「定」です。禅の意味を考えるなどということは、ちょっと仏教を勉強すれば何の意味もないことが理解できるはずです。同様に瞑想(冥想)という言葉も英語の’Meditation’を翻訳した言葉に過ぎないのです。こんなことにこだわっている暇があったら、さっさと坐禅をしたらいいのです。

実行もしないで言葉の上でウロチョロしているものですから、念だ、やれ気付きだ、サティとかマインドフルネスだのと言葉にこだわってしまうのです。いわば方法論に終止して、これが正しい方法だと聞けばそれをちょこっとやってみる。またこの方が優れていると聞けばまたそっちを向く。これでは経の優劣を探っているようなものです。仏法に優劣などありません。全ては修行に対する姿勢なのです。

修行の真偽など誰が解るものですか。ただ、教えられた通り愚直に実践している者は、理屈に拘っている者よりも、数段どころか天と地ほどの差があるのです。たとえば口で偉そうなことを抜かしながら何もしない労働者と、黙々と手を動かし足を使って働いている労働者とをイメージしたら良いでしょう。どちらが成果を上げるでしょうか。智慧というのは浅知恵ではありません。智慧は成果そのものなのです。黙って実行する。それも「真理を実行する」のであります。真理は口で言葉で説明できるものではありません。ここが中心です。ど真ん中、直球です。

ところが、最右翼である妄想、すなわち余計な思考ですね。あるいは「こだわり」と言い換えてもいいでしょう。あの人がこう言った。あんなことされた。けしからん。面白くない。プラス思考だのマイナス思考だの。こうすれば良かった。あんなことしなけりゃよかった。ああだ、こうだ。日常に頭に浮かぶことの99.999%すなわちほとんど全部が妄想です。それこそ四六時中が妄想だらけなのです。坐禅や瞑想あるいは念仏または唱題なんでもいいのですが、修行中にもこの妄想が次から次へと間断なく頭に浮かんでくるものです。こんな妄想に一々付き合っていたら病気になるしか無いのです。何も精神疾患だけではありません。身体のあちこちに疾患ができてしまうのです。

さらに最左翼?とでもいうべき執著、すなわち余分な考えですね。または「しがみつき」と申しておきましょう。このしつこさはまるでガン細胞のように私たちの思考の体質になっています。苦しいのは当たり前です。握りしめ、しがみつき、離したくない囚われの心は妄想と並んで障害の最たるものであります。二つ合わせて「妄執」と呼んでおきましょう。これに実態があると思われますか。ここは考えてみてください。妄執に実態などあるわけがないでしょう。

私たちが見ているもの聞いているもの感じているもの全てに実態(実体)はないのです。すなわち感じていること自体に実体は無いというのが、かんたんに申せば「くう」ということです。溺れる者は藁をも縋るという諺がありますが、全ての者は空をつかもうとしているのです。空気をつかんでどうするのですか。あまりにも無益なことです。妄執に取り憑かれている時間が、あまりにも勿体無いとおもわれませんか。妄想が頭に浮かばないことはありません。執著が頭から離れることはありません。あなたに取り憑いた悪魔のようなものです。いや悪魔としかいいようがないのです。一発消去しかないでしょう。無。捨。手放すしかないのです。瞬間瞬間に。

ですが、そのように申し上げても、いくら説明しようが、この妄執という悪魔は至る所に現われます。消しても消しても現れる。もぐら叩きのように、叩いても叩いても頭に浮かぶのであります。これを普段から心構えとして練習プラクティスしていないとどうなるか、頭の中はゴミだらけ、それこそゴミ屋敷と化してしまうのであります。

日中はおろか寝ている最中にも妄執が渦巻いているようでは、病気にならないほうがおかしいのです。宜しいでしょうか。坐禅が他の修行と大きく違う点は、この妄執に引き込まれる隙間を無くす点にあります。それが姿勢に気をつけるというシンプルな修行法なのです。

何も考えずに、身体で覚えた姿勢を再現し続けるのであります。姿勢を正す。右にも左にも前にも後ろにも偏らない姿勢を保つことに集中するのであります。中心を求め背筋を真っ直ぐにし、首筋をひょいと立てて、顎を引いて、口腔内に隙間を作らないように舌を上顎の裏につけて、胴体の両脇を持ち上げるようにして、頭のてっぺんで天井をつきあげるようにして、などなど。坐禅は姿勢を正す工夫の連続です。妄執に関わっている暇のないぐらいに、徹底して姿勢に気をつけるのです。観念上の「気づき」など全く問題にしていないのであります。

これが何も考えない正体であります。正真正銘の佛のすがたなのです。仏像はそれを象ったものに過ぎません。崇拝する必要などさらさらないのです。自分が本来の自分に成るということ。自分が佛の分身であることの実証が坐禅の時なのです。そういう時を持つこと。これが空であり、本来の自己を実現することであります。

空を空虚や虚無と混同しないことです。カオスに陥らないように気をつけてください。余計な余分な妄想や執著に翻弄されないように気を付けて下さい。ブッダの申された「サティ」は「気づき」と訳するから訳が分からなくなるのです。幼い頃から父や母あるいは祖父母たちが出かけるときに優しく声をかけて下さいましたよね。「気をつけて」と。日本にも仏教の真髄が確かに根付いているのです。

気をつけなさい。ブッダは日常の普通の言葉で真理を説かれました。心を煩わすことなく修行に専念しなさい、と。怠ることなく精進しなさい、と。こんなに優しい言葉はありません。これが本来の慈悲であります。優しさを実践しましょう。その端的な姿が坐禅することであります。

 


8.解脱とは何か、真。

解脱げだつというのは仏教の専売特許ではありません。古くは紀元前数世紀もの大昔からインドにおいて修行の最高目標とされていました。様々な宗教があるいは哲学が目指す、人間としての最高の境地とされています。

それは輪廻からの脱出です。どうしたら二度と生まれ変わることのない人に成れるのであろうかという途方もない挑戦でありました。インド哲学の命題でもありました。様々な哲人がそれぞれの見解を発表していましたが、共通する概念は、人間や生きもの、あるいは神々さえ生まれ変るという輪廻りんねという理法でありました。これに異論を唱えるものは居なかったのです。

これが大前提であります。信じる信じないに関わらず、ある程度に到達した人々は自分が生まれ変わった存在であることを確信していました。否、確信などという生易しい認識ではなく、これを否定することは自己を否定するに等しい絶対的な真理(理法)であり、基本中の基本認識であったわけです。

生きとし生けるものは必ず死にます。これは誰でも分かるし疑う人はいません。何故死ぬのかと言えば、それは「生れた」「生じた」からであります。当然であり自然の大原則です。いわばこの世は生物の死骸だらけですが、その死骸が腐敗し分解されて新たな生物が誕生しています。人間が例外であるわけがないのです。再生ということです。何に生れ変るかは、生前の行いによって縁(関係性)によって決まります。これが輪廻の大まかな解説です。

今生での人生は一度きりです。二度と同じ時代に同じ場所に同じ家族のもとに生まれ変わるということはありません。当たり前です。自分もいつかは必ず死ぬ。死期は不明ですが、その時は必ずやってきます。不安でしょうがない人も多いと思います。普段は考えてもいない人でも病気や怪我で死を意識することがあるでしょう。これほどの苦しみはないかもしれません。生れて老いて病になり死に至る。生老病死しょうろうびょうしは他人事ではありません。吾が事、自分事なのです。

この現実を一言で表せば「苦」であります。ゴータマ・ブッダ(釈尊)は、形而上の空論を説いたのではありません。極めて現実的に「この世」と「かの世」を透徹した眼で見抜きました。「苦・集・滅・道くじゅうめつどう」四諦の理を悟ったのです。これが大発見でありまして、ブッダが悟りを開かれた所以であります。何でもない理論のようですが、仏教の中心思想であると断言できます。真理です。この真理を本当に解っているかは別として、この真理を疑うものは仏教徒とは呼べません。

何も仏教徒でなくとも、この四諦の理は誰にとっても真理となります。なぜなら真理は実行しなければ真理たり得ないからです。言葉はともかく実際に四諦の理を実行している人は、仏教を信じていなくても、知らなくても、解脱することができるのです。逆に仏教徒であっても、この四諦の理を実践していなければ、解脱など遠い夢物語でしかありません。

地球が丸くて自転していることは誰でも知っていますが、確かめる人が少ないように、真理を真理だと鵜呑みしていては、真理を実感することはないのです。さとりを得るのは簡単です。ブッダの開かれた悟りを実践すればいいだけです。実行していることが悟りなのです。頭の中で閃いたものが悟りではないのです。眼を覚ますことです。悟りという字は吾が心と書くように、心は行いです。頭の中で考える「思考」が心では無いのです。実践していること、修行していることが即ち悟りなのです。

苦と、苦の原因と、苦の消滅と、苦の消滅方法を説いたのがブッダの「四諦の理」であります。これほど端的な理はないのです。苦が完全に消滅した状態が「解脱」であります。二度と母胎に生じることがない究極の境地であります。そんなことは不可能だと思われることでしょう。生まれ変りたいと思うかもしれません。何度でも苦を味わってください。未来永劫に輪廻の渦に巻き込まれていて下さい。その方が安心だと思っていてください。輪廻の渦から脱出する方法があるのに、脱出しようとしないのは、もうどうしようも無いのです。縁なき衆生は度し難しと申します。せっかく解脱の道を、光明を見出しているのに、闇に堕ちていくのを望むのであれば、やむを得ないのです。ブッダはただ道を教えているだけです。行くか行かないかは、道案内人がどうしようもないのです。薬を飲むか飲まないかは医者の咎に非ずということです。

坐禅は健康法ではありません。心身の健康に良いことは確かですが、それが目的ではないのです。輪廻からの脱出が目的です。あらゆる囚われと拘りと偏りといった束縛からの開放であり、真の自由を得る最短の方法です。これを発見され人々に教えられたブッダに最大限の敬意を表しつつも、それよりも何よりも、ブッダの教え通り実践することです。ブッダの真の弟子は「思想・宗教」にかかわらず真理を実行している人であります。

こだわりを捨て、とらわれから離れ、かたよりを直す。坐禅はそれを姿勢で現すことであります。真理を体現する、究極の道です。八正道の全て、三学の全てがこの坐禅に込められています。正しく生きる近道であり、解脱の唯一の方法であります。ブッダやブッダの真の弟子は、坐禅によって解脱したのです。「こだわり」と「とらわれ」と「かたより」から脱出し、蛇が殻を脱ぐように、一切の煩わしさ悩み、すなわち煩悩の束縛を自ら解き放ったのであります。

輪廻という目に見えぬ実体からの脱出。これが完全なる自由ということです。これはまことであります。

 


9.呼吸は自由自在、友。

腹が立ったときのことを思い出してみましょう。動悸が激しくなり呼吸がせわしくなります。ランニングしているときも心臓がドクドクと動き息が短くなります。安静にしていると呼吸はゆっくりとなり、自然の中を歩いているとふと深呼吸したくなります。このように人の心身の動きと呼吸には密接な関連があります。

筋肉には随意筋と不随意筋とがあります。呼吸器官はこの両方を兼ね備えている器官の一つです。自然に、意識しなくても呼吸間隔が短くなったり長くなったりする場合もあれば、深呼吸や呼吸法のように意識的に呼吸をコントロールすることもできます。申すまでもありませんが、呼吸はある意味とても便利な身体器官であります。

健康な時には何でもないようなことですが、一度疾患にかかると、この呼吸しづらいことほど苦しいものはありません。息苦しさです。私の母は胆管がんの手術後5年目に肺へのガン細胞の転移が認められました。末期がんでした。酸素ボンベを傍において鼻に管を挿しておりました。医師からは「痛みはモルヒネなどで緩和できますが、息苦しさはどうしようもありません。お気の毒ですが・・・」と言われておりましたが、目の前で苦しまれている母の姿を見るたび心が痛みました。胸に詰まる悲しみに沈んでおりました。母は亡くなる日の前の晩とても苦しまれたそうです。「もう、はよ、参りたい」と最後まで私の名前を呼び続けたと姉たちから聞いて、涙が止まりませんでした。

呼吸は「自由自在」のようで、「自由自在」ではありません。早く息が切れたらどんなに楽だろうかと思っている状態も人間にはあるのです。命は息が切れるまで続きますが、息を引き取る直前は、誰にとっても一番苦しい瞬間でありましょう。

赤ちゃんはお母さんのお腹から出る時が一番苦しいのです。何しろ胎盤の上で羊水の中で育って、いきなり肺呼吸を迫られるのです。苦しくないわけがありません。「オギャー」と叫びながらこの世に生まれ出てくるのです。お母さんもこの苦しみを共有します。全ての痛み苦しみの中で、生れ出づる苦しみと産み出す痛みほど辛いものはないといわれます。

生死しょうじといいます。これは吐く息と吸う息です。一生はこの呼吸によって貫かれています。ことさら呼吸を意識しなくても、生きている間、この呼吸は断続的に続きます。昔の修行の中で、この息を止める修行がありました。何のためかといえば、臨死体験するためです。死ぬ直前を体験するという大変危険な修行法であります。まさに死ぬ気で修行したのであります。実際それで亡くなった修行者も居たことでしょう。それほど弩真剣に修行に挑んだのであります。

遺体をずっと眺め続けるという修行もあります。青黒くなり腐敗し始め強烈な異臭が漂う中で白骨になるまで傍に居るという修行です。死というものを知り、生きていることを知る。言葉ではなく体感するのであります。

断食という修行は、ほとんどの宗教に共通の修行です。申すまでもありません。食べていくことを自ら断つのであります。生活苦などとはレベルが違います。食べなければ死ぬということを体験するのです。食べるために働くなどという観念などは問題外です。死ぬ気どころか死ぬために修行するものです。

修行の結論は「苦」であります。人生に楽は無いと覚悟すれば、あらゆるものが全て美しく輝いてみえます。この世が地獄であり極楽であり修羅場でもあります。当たり前です。悲しいニュースが飛び込んで来ない日はありません。この国でこの世界で悲しいことは膨大な数で起きています。私たちお互いがいつ悲しい当事者になっても不思議ではありません。

大昔も現在もそれは何ら変わっていないのです。2500年前のインドにおいても同様でした。毎日が悲しい日々の中で、ある貧しい村にブッダが立ち寄り滞在されました。人々はブッダの姿に心打たれ、ブッダの話される内容に大いに励まされました。人々は歓喜し、いつまでもここに居てほしいと望みました。ところがブッダは次の村へと旅立つと申されました。人々はもう少し滞在して欲しいと懇願しましたがブッダの決心は固く人々は項垂れていました。その村にあって一番身分の低いスードラ(奴隷)の少女が「わたしもお願いしたい」とブッダの前に進みました。村人は皆笑い合いました。村の長が頼んでも聞き入れていただけないものをスードラの小娘がお願いして、と。ブッダはその少女に尋ねました。「貴女は何を供養してくれるのですか」と。少女には何もお渡しするものがありません。手ぶらでした。少女は困って下を向きましたが、やがて顔をまっすぐブッダに向けて申し上げました。「五戒を守ります」。

教えは実行をしてはじめて教えとなります。ブッダへの何よりの供養であります。たとえ七歳の少女であっても一切の生きとし生けるものの導師であると先人は申されました。知っているだけでは知識と呼ばないように、実行する行為そのものが真実であります。ブッダがその後しばらく先程の村に滞在されたことは申すまでもありません。ブッダの心が動いたのです。我が意を得たりとはこのことでありましょう。ブッダの衣の裾を持つものだけがブッダの弟子ではありません。時代も国も超えてブッダの弟子は教えを実行実践している人々です。

宜しいでしょうか。お涙頂戴物語を述べているのではありません。命がけで真理を求め修行した方々や命の切れる直前まで教えを伝えようとして下さった縁ある人々に報いるために、私たちも共に教え合い伝え合おうではありませんか。

呼吸を合わすことです。それは自由でありますし自在であります。時間と空間を超えて修行を共にする無数の同志が励ましてくれています。坐禅をするときは一般に呼吸に意識を向けます。ことさら呼吸を調整することなく、速いときにはその速さを、静かであるときはその静かをじっと見つめます。息は短いときは短いままを長いときは長いままに、ひたすら見つめます。息は風です。自然の風のように、激しいときも穏やかなときも様々です。それをありのまま見つめます。風を感じるように息を感じます。息を見つめているとニミッタが必ず目の前に現われます。それにもとらわれることなく、考えることなく、拘る必要がありません。ひたすら姿勢を正して息を見つめ続けます。これを念息と申しますが、言葉にこだわらないで下さい。呼吸を自分がコントロールするのではなくして、呼吸そのものの自由自在を感じてください。

生きていることが奇跡であります。有り難いことなのです。人間に生れたこと。仏法に出会えたこと。そして坐禅ができること。全てが有難く、為し難い。坐禅が友であることに気づいて戴きたい。佛道を行く友の後ろ姿は、いつも坐禅なのでありました。坐禅に生きる全ての心に。少しずつ少しずつ。

 


10.普段のおこない、行。

スーパー坐禅は、インスタント坐禅ではありません。シンプルですが、かんたんな話ではないのです。手っ取り早い方法でもありません。そんな小手先のテクニックで解脱など出来るわけがないのです。そこの所を勘違いして、軽く考えてしまいがちですから、このテキストの最後に最も重要な角目を申し上げておきたいと思います。

何も考えない、ということ程難しいものはありません。簡単なようでいて実は大変に困難な道です。これほど厳しい道はないのです。しかしながらこの角目を間違えなければ、必ずと言っても良いほど解脱出来る道であることを鮮明にしておきたいと思います。

その角目は、坐禅の前後もまた坐禅であるということです。一日中が坐禅であり、生活そのものが坐禅となることをいいます。すなわち普段のあらゆる行いを坐禅にしてしまうのであります。でなければ、超坐禅などと形容できませんし、おこがましいにも程があるのです。

姿勢を正すということは、始める合図である止静という鐘がカーンと響いてから、終わりの合図の放禅の鐘がカーンと響くまでの間だけではありません。その前後も同様に一日中を坐禅の心で生きるのです。

日常の生活に坐禅が溶け込むように、まずは自らの姿勢を正し、一つ一つの動作に注意し、歩く時にも立つときも座るときも寝るときも顔を洗うときも口をゆすぐ時も大小便の時にも風呂に入るときも仕事しているときも調理のときも掃除のときも洗濯のときも人と話しているときも食事を頂くときも、床に入って休む時にも、毎日毎日、いつもいつもキチンとする事が最も重要なことなのです。

たとえばスーパーやコンビニで頂いたナイロン袋をキチンと三角に折って畳んでしまう。あるいは机やテーブルの上はいつもキレイにしておく。物をしまうときも並べるときもちゃんと揃える、片付ける。スリッパが曲がっていたら誰が見ていようが見ていまいが関係なく、黙って直す。そうした日常の所作を坐禅している時と同じように、ひとつひとつに気をつけるということです。

人の話はじっくりと聞く。真っ直ぐ相手に向かって丁寧に話す。穏やかにしかもはっきりとした口調で、おもねることもなく、さりとて強すぎず、あくまでも柔らかく、暖かく、微笑みを絶やさず、慎みながら静かに真っ直ぐな姿勢を保ちつつ、打ち解けることを心がけ、そうした自分が好ましいと思っている姿勢や態度を保ち続けるのであります。

何を言わんとしているか、お判り頂けるでしょうか。山に篭って一人生活している時だけが修行ではありません。道場で皆と一緒に修行している時だけが修行ではないのです。いわばどのような環境、いかなる状況にあっても坐禅のときと同じくして、姿勢に気をつける。集中しながら身を正すということです。

普段の行いが最も重要であること、日常が修行の場であり時であることを強調しておきます。否、それ以外の修行はないのです。スーパー坐禅ということは、坐禅さえも超えなさいということです。ことさら然るべきところに座って修行の真似事をしたって、そんなものは修行体験という名の行事に過ぎません。
宜しいでしょうか。 何も考えないで、これらの修行の毎日を自然に過ごすことが出来たならば、幸せだと思われませんか。人間は結局幸せを求め続けているのです。その幸せは毎日の生活の中に元々ちゃんと存在しているのに、その幸せを実行していないから辛くなるのです。

多くの人々は自分で自分を苦しめています。観念の縄で縛り付け、執着の檻に自ら入り、妄想にもがき苦しみ、しがみつきながら自由で在りたいと望んでいます。

こんな苦しみの毎日から一刻も早く脱出したらいいのです。自らを覆う思考の皮を脱ぎ捨てましょう。何も考えずに、黙々と日常という真実を楽しみましょう。姿勢を正すことが一番楽な姿勢であると気づきましょう。

—–おごり。奢りが怒りの原因です。

—–こだわり。拘りが苦しみの原因です。

—–なまけ。怠けが不幸の原因です。

—–いたわり。いたわりやねぎらい、慈しみの心が幸せの原因なのです。

自らと周りの人々をはじめ世界中の生きとし生けるものに限りのない優しい心を持ちましょう。そのための修行です。それが智慧なのです。みんな幸せで在りたいと願っているのです。

スーパー坐禅は慈しみの行動です。これは最上の道です。まずは普段の「おこない」から正して参りましょう。神仏を祀ってある場所にお詣りするのも結構ですが、それよりもずっとずっと身近な、自らにお参りして下さい。

これを昔から参禅さんぜんと言います。これが修行の王道であり、真理であります。


ふたたび最初の一歩から

あらためて原稿テキストを見直してみると、大変な誤解を招きかねない、まさに「拙文」であることに汗顔の至りという他ありません。臆面もなく「スーパー坐禅」などと宣ったものです。恥ずかしくてしょうがありません。本心からの反省です。

一年前の私と今の私は、立場も違えば環境も状況も全く違います。毎日が「考える」連続であります。一年前にわずかな光は見えていたのですが、それは一瞬でありましたし、まさか自分が寺を建てようなどとは考えても思ってもいませんでした。己さえ自律できていないものが、何をやってもダメだ。まずは自分を律していこうと平穏な日々の中で頭で考えていたことでした。

今は、徹底して行動しかないと思っています。もちろん坐禅は続けますが、眼を内から外に向けてみると、自分が出来ることで、生きているうちに為しておきたいことが明確になってきたのであります。最初の一歩から始めよう、と。土地を買いました。伐採を行い、山小屋を建てました。水道、電気、ガスなどの設備、内装などの工事、引っ越し。これらはまだ完了しておりませんが、すでに正月から住み始めています。

新しい仕事も決まりました。お寺を建てるには資金が必要です。当初は寄付集め(勧進)することばかり考えていましたが、言い出しっぺが身銭を切らないでどうするとの声に、働くことに決めました。生活は年金で賄い、働いて得たお金はほとんど全部建設資金に充当することとしました。

まだまだ若いのですから働けます。むかし取った杵柄で稼ぐことはできるのです。人に頼るのはその後でいい。まずは為すべきことを為すべきだ、と。友人に相談しました。思った通りやれば。無言の承認が返ってきました。

坐禅を超えていく。ぬるま湯から立ち上がり、坐禅という水に全身を漬けて、坐禅を意識しなくても坐禅に生きていく。そうした気概を持ち始めました。少しは成長したのかなあと自分で自分を褒めながら(誰も褒めるものはいない)、また、最初の一歩から歩み始めます。

この方がやっぱり自分らしいし、お寺の住職なんて全然向いていないのです。仕事を持ちながら、野に立ちながら、坐禅を超えていく所存です。これこそスーパー坐禅ではないでしょうか。坐禅くさい抹香くさい坊さんくさいことが一番苦手な私は、やはり己に自然に生きて参りたいと思っています。

スーパー坐禅は「自然じねん」だ。

平成30年2月4日(日)立春 マイクロサンガにて  山田正道