慈しみの経(Mettâ sutta)

スッタ・ニパータ(慈しみ

143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。

144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

148 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。

150 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具(そな)えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

日常に、ことあるごとに、このお経をお唱えいたしましょう。

ブッダの教えは、一言で申し上げるとすれば「慈しみ」に尽きます。

ブッダのどの教えも「慈しみ」を離れた教えは一つもありません。

この十句が、あなたの大きな支えとなり皆の支えとなるでしょう。

沙門 徹海慈貫(てっかいじかん)

※上記の動画を再生して、姿勢を正し、黙読あるいは声に出してお唱えします。毎日一回は読経し、こころが波立つときは、その度ごとに読経しましょう。

ブッダの母国語であるマガダ語の含まれたパーリ語による「慈経」

メッタ― スッタン(慈明咒)

カラニーヤ マッタクサレーナ ヤン タン サン タン パダン アビサメッチャ
サッコー ウジュー チャ スージュー チャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー

サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパ キッチョー チャ サッラフカ ヴッティ
サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ アッパ ガッボー クレース アナヌギッドー

ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ウィンニュー パレ- ウパワディッユン
スキノー ワー ケーミノー ホントゥー サッベー サッター バワントゥ スキタッター

イェー ケーチ パーナ ブータッティ タサー ワー ターワラー ワー アナワセーサー
ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカーヌカ トゥーラー

ディッター ワー イェー ワ アッディッター イェー チャ デゥーレー ワサンティ アヴィデゥーレー
ブーター ワー サンバウェースィー ワー サッベー サッター バワントゥ スキタッター

ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティ マンニェータ カッタチナン カンチ
ビャーローサナー パティガ サンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカミッチェッヤ

マーター ヤター ニヤン プッタン アーユサー エーカ プッタマヌラッケー
エーワンピ サッバ ブーテース マーナサン バーワイェー アパリマーナン

メッタン チャ サッバ ローカスミン マーナサン バーワイェー アパリマーナン
ウッダン アドー チャ ティリヤン チャ アサンバーダン アベーラン アサパッタン

ティッタン チャラン ニスィンノー ワー サヤーノー ワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー
エータン サティン アディッテェッヤ ブラフマメータン ヴィハーラン イダマーフ

ディッティン チャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー
カーメース ヴィネッヤゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ

〈日本テーラワーダ仏教協会日常読誦経典「慈経」より〉

上記のカタカナ文は古来より日本でも訳さないで読経する場合に用いられています。それを真言または陀羅尼と呼んでいます。慈経も訳さないで声に出して読経いたしましょう。

 

参照英訳文

Metta Sutta
Sutta Nipata I.8
Discourse on Lovingkindness

 

This is what's done by one skilled in what's good, 
Who reaches toward that most peaceful state:
One would be capable, and straight - quite straight;
Well-spoken, gentle, without too much pride.

Content with little, easily maintained,
Not doing too much and lightly engaged;
Thoughtful, with a peaceful demeanor, and
Modest, without greed among worldly things.

One would not do even the slightest thing
That others who are wise would speak against.
May they be secure and profoundly well;
-May all beings be happy in themselves.

Whatsoever living beings exist,
Without exception, whether weak or strong,
Whether tall and large, middle-sized, or short,
Whether very subtle or very gross,

Whether visible or invisible,
Dwelling far away or not far away,
Whether born already or not yet born
-May all beings be happy in themselves.

Let no one work to undo another.
Let no one think badly of anyone.
Either with anger or with violent thoughts,
One would not wish suffering on others,

Just as a mother would watch over her
Son-her one and only son-with her life,
In just the same way develop a mind
Unbounded toward all living creatures.

Develop a mind of loving kindness
Unbounded toward the entire world:
Above and below and all the way 'round,
With no holding back, no loathing, no foe.

Standing, walking, sitting or lying down,
As long as one is devoid of torpor,
One would resolve upon this mindfulness
-This is known as sublime abiding here.

Without falling into mistaken views,
Endowed with insight and integrity,
Guiding away greed for sensual things,
One would not be born again in a womb.

Translation by Andy Olendzki