如来は道を教える

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)の東園、鹿母(ろくも)講堂に止住しておられた。その時、算数家なるモッガラーナ(目犍連)という婆羅門が、世尊を訪れてきた。二人は喜びにみちた挨拶を交わして、さて婆羅門は問うて言った。

「世尊よ、たとえば私がこの鹿母講堂にまいるにも、順にたどるべき道があった。また私どもの専門とする算数においても、順を追うての教え方がある。それと同じように、世尊よ、世尊の教えにおいても、順を追うての学ぶ道というものが設けられてあろうか」

「婆羅門よ、わが教えにおいても、順を追うての学があり、道がある。たとえば、巧みなる調馬師は、よき馬を得て、まず頭(かしら)を正しくする調御(ちょうぎょ)をなし、ついでさらに、さまざまの調御を加えるように、私も、まさに御すべき人を得ると、まず最初にかように調御するのである。『なんじ比丘(びく)よ、なんじはすべからくまず戒を具する者とならねばならぬ。律儀をまもり、微罪をもおそれ、よく心して学処(がくしょ)を学ばねばならぬ』と。

彼が正しく戒を具する者となると、さらに私は調御を加える。『なんじ比丘よ、なんじはもろもろの根(こん)において門を守らねばならぬ。眼をもって物を見ても、その相(すがた)に捉われてはならぬ。この眼のはたらきを制しなかったならば、むさぼり、愁い、その他さまざまの有罪、不善の心のうごきが起こるであろうから、これを制することに専心せねばならぬ。その他、耳をもって声を聞くにも、鼻をもって香をかぐにも、舌をもって味わうにも、ないしは、こころをもって了別するにも、また同じである』と。

彼が正しくもろもろの根を制する者となると、私はさらにまた調御を加える。『なんじ比丘よ、なんじは食において、量を知らねばならぬ。正しい考え方をもって食をとらねばならぬ。なぐさみのため、栄華のためにしてはならぬ。まさに、この身の支持のため、聖なる修行をたもちうるために、せねばならぬ』と。

彼が正しく食の量を知るにいたれば、私はさらに進んで調御を加える。『なんじ比丘よ、なんじは覚めるにも寝るにも、正しく修せねばならぬ。昼は経行(きんひん)と坐禅(ざぜん)によって、もろもろの心のおおいを去り、心を清くたもたねばならぬ。夜のはじめには、また経行と坐禅によって、心の清浄をたもち、夜のなかごろには、右脇を下にし、獅子のごとく臥し、夜のおわりには、また起きいでて経行と坐禅により、もろもろの心のおおいを払いさって、心を清くせねばならぬ』と。

この修行ができると、私はさらに、彼に正念(しょうねん)と正知(しょうち)を成就することを命じる。『なんじ比丘よ、なんじは往くにも還るにも、大小便をするにも、正知をもって作(な)さねばならぬ。飲むにも食うにも、大小便をするにも、起つにも坐るにも、語るにも黙するにも、正知をもってせねばならぬと』と。

この修行が成就すると、私はそこで、独り空閑処(くうかんじょ)に坐して修行することを命じる。彼は、あるいは森中、あるいは樹下、あるいは山上、あるいは洞窟、あるいは墓地をえらんで、ただひとり、結跏して身を正し、念を正しうして坐する。そこで彼は、貪欲を断ち、瞋恚(しんに)を断ち、惛眠(こんみん:心のはたらきにぶく眠りを催すこと)を払い、掉悔(じょうげ:心おちつきなく、行いで悔いること)を去り、疑念をぬぐい、かくて心のおおいものを去り、智をもって煩悩の力をおさえ、もろもろの執着と不善を離れて、しだいに無上安穏の境地にいたるのである」

世尊がかように説かれるのを聞いて、婆羅門は、かさねて世尊にたずねて言った。

「では、いかがであろうか。かように教え導かれた世尊の弟子たちは、みなよく涅槃(ねはん)を得るであろうか。それとも、得ないものもあるであろうか」

「婆羅門よ、それについて、いまわたしからなんじに問いたいことがある。婆羅門よ、なんじはラージャガハ(王舎城)にいたる道を知っているか」

「世尊よ、私はよく知っている」

「では婆羅門よ、これをどう考えるか。ここにひとりの人があり、ラージャガハに行こうとして、なんじのもとに来たって、その道をたずねたとせよ。そのときなんじは、彼に語って言うであろう『君よ、この道がラージャガハに通じている。これをしばらく行きたまえ。しばらく行くと、かくかくの名の村がある。それをまたしばらく行きたまえ。しばらくすると、かくかくの名の町がある。それをまたしばらく行きたまえ。するとやがて、ラージャガハの美しい園や森や池が見えてくる』と。かように教えられて、あるものは安全にラージャガハに到るが、あるものは道をまちがえ、あらぬ方に行くこともあろう。婆羅門よ、正しくラージャガハは存し、ラージャガハにいたる道があり、なんじが導者としてあるのに、いかなる理由によって、ある者は安全にラージャガハにいたり、ある者はあやまれる道を、あらぬ方に行くのであろうか」

「世尊よ、それをわたしがどうすることができようか。私は道を教えるだけである」

「婆羅門よ、その通りである。涅槃は正しく存し、涅槃にいたる道があり、私は導師としてあり、しかも、わが弟子の中には、あるものは涅槃にいたることを得、またある者はいたることを得ないが、それを、婆羅門よ、わたしがどうするということができようか。婆羅門よ、如来はただ道を教えるのである」

南伝 中部経典 107 算数家目犍連経

漢訳 中阿含経 144 算数目犍連経

〈増谷文雄 阿含経典による仏教の根本聖典より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

このお経にブッダの弟子が修行する順序と内容が含まれています。

またブッダのスタンスが明瞭に述べられております。

このように原始仏典は対話形式で示されることが多いです。

仏教の全体像をつかむのに格好のお経ではないでしょうか。

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

如来は道を教える」への2件のフィードバック

  1. 私は、算数ならぬ測量家でもあり注目して読んだものです。
    それで、このお経によって出家するかやめておくか随分と悩みました。
    現在の僧侶の修行も基本的には、これを踏襲しています。
    ただ修行は一生続くものです。
    安易に形だけの出家を選んで頂きたくありません。
    ただ、道を教えるだけです。

  2. 行き先を求めるのは迷っている人であるとするならば
    迷ってない人は行き先を求めないのかと言えば
    そうではなく、やはり求めています。

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