スッタニパータ171

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

五種の欲望の対象――その原文はpanca kamagunaである。gunaという語は、サンスクリット語文献では一般に徳(Tugend,virtue)の意味に用いられる。サーンキャ哲学では、これを物質的自然の三つの根本的構成要素(三徳)を称する名称となっている。ところが、原始ジャイナ教聖典の古い箇所ではこの語を「感官の対象」という意味に用いる。Ratnacandra編『アルダマーガディー辞書』631頁gunaの項によると、この語をsabda,rupa,rasaなど、感官の対象(indriyavisaya)の意味に用いるのはアーヤーランガ特有の用例であり、そのほかには殆んどあらわれない。しかも第一編のガーターのうちにのみ存する。

また叙事詩においても五種の感覚器官を通じて享受される五種の対象をgunaと呼んでいる。もちろん叙事詩(特にMoksadharma)においてgunaがサーンキヤ的な意味に用いられていることも、しばしばあるが、ジャイナ教と共通の用法も存するのである。

ところで、原始仏教聖典においても、ガーターの部分においては、gunaという語を感官の対象の意味に用いている。例えば色、香、味、触(phottabba)の五つをkamagunaと呼んでいる(kamaguna nam’ete ariyassa vinaye vuccati)。また散文の部分にも実例が存する。(中略)これらに対応する漢訳を見ると、「五色」と訳してあることもある(『雑阿含経』二八巻、大正蔵、二巻、199頁上)。また直訳して「五色功徳」(同上箇所、『中阿含経』第四九巻、大正蔵、一巻、739頁中)と訳していることもあるが、直訳にすぎて意味が通じない。玄奘は「世妙境」と訳しているが(『法蘊足論』六巻、大正蔵、二六巻、482頁中、『倶舎論』第八巻、大正蔵、二九巻、41頁下)、これはけだし適訳というべきである。

このようにジャイナ教の古いガーター(偈頌)並びに叙事詩と仏教の古いガーターとにおけるgunaの用例が一致しているが、このような用例は後世の仏典及びジャイナ教聖典からは消失した。

貪欲――chanda.これを離れることを説いているのである。以上註より抜粋

「感覚によって求めるこれら六つ」を貪り欲する、すなわち貪欲を離れることに尽きるわけです。この貪欲(とんよく)を煩悩(ぼんのう)と言い換えても同じであります。金銭欲も愛欲も子煩悩もおよそ自分が求めているものの外観かもしれません。これらを手放し、貪欲の海から抜け出し、しがらみの森から離れることが、出離であるとされています。

「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

 

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ171」への2件のフィードバック

    1. その森はまるで富士の麓の樹海のようなものかもしれません。まずはそこから脱出するためのアクションを起こすことでしょう。具体的な一歩を。

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