スッタニパータ209

第一 蛇の章
<12、聖者>

209 平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
平安の境地------santipadam
終極------anta
妄想------takka.あれこれ思慮する思い。
迷える者の部類に赴かない------註に従って解した。(後略)
以上註より引用した。

では平安の境地というものは、どういうものであるかの説明が、生を滅ぼし尽くした終極という表現です。少しわかりにくいかもしれませんが、二度と生まれて来ないために、今生を最後の人生にするために、徹底して煩悩を滅ぼす、つまり次から次へとわき起こる煩悩を片っ端から無視して、一切とらわれない姿勢を貫くことであります。

煩悩を滅ぼし尽くす方法は、明確です。煩悩の起こる基礎である妄想と執著をしっかり観察することです。煩悩の種や煩悩の芽を育てないことであります。何が種や芽になるのかをわきまえ知っていることが必要です。

敵を知り己を知らば百戦して危うからずと申します。煩悩との戦いは自己の内にある煩悩を知ることが先であり全てであります。人の煩悩はいざ知らず、我が煩悩は何であるかをきっちりと知ることであります。

煩悩の種は妄想です。そこから執著という芽が出てまいります。ですから徹底して妄想を刻々と振りはらい捨てること、そして芽生えてしまった執著を取り除くこと、決してその芽を育てないことであります。

煩悩の別名が迷いと呼ばれています。迷いが悩みとなり苦しみの海に溺れるようになります。溺れてからでは遅いのですから、癌の早期発見みたいなもので、妄想の段階でそれと気づく心の習慣が大事ではないでしょうか。

聖者の修行とは、実に妄想を妄想と気づくことから始まります。どのようなことをしている時でも妄想の軍隊は矢継ぎ早に攻撃してまいります。その大軍を迎え撃つ静かな姿勢が坐禅とか瞑想と呼ばれております。

平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ209」への2件のフィードバック

  1. 己れの中の煩悩はなんであるか、すぐ分かります。火の粉がすぐに押し寄せてきます。バリアーはあまりにも薄く、シェルターはあまりにも脆い。瞑想・・・

    1. 種がどこから飛んで来るかといえば、心の奥底にある阿頼耶識や末那識いわば深層心理というミサイル基地から発射されているそうです。焼夷弾ぐらいなら逃げきれそうですが、核弾頭を搭載しているミサイルでは一瞬のうちに全滅です。火の粉で良かったですね。

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