第一 蛇の章
<12、聖者>215 梭(ひ)のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

真直ぐにみずから安立し―ー原語(thitatta)は第三二八、三五九、三七〇、四七七、五一九詩にも出てくる。ジャイナ聖典にもthiy'appaとして出てくる。 正と不正とを――visamam saman ca.'right and wrong'(Chaimers).原語から見ると、すべて他のものに対して「平らか」であるのが正であり、「平らかでない」のが不正なのである。西洋人の考える〈正〉〈不正〉とは、少しく食い違うところもあると考えられる。 以上註より引用した。
「梭」というのは機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)です。バタンバタンと機織りの縦糸が前後に一本ずつ交互になっているところに向けて、素早くさっと横糸を通すときに使う杼投(ひなげ)のことですが、映像で見たことがあるでしょう、少しでも手元が狂うと通りません。熟練の技といっていいでしょうが、今ではほとんど目にすることがないのでちょっと想像してみてください。
当時は単純な機織り機であったと思いますが、なにしろ布を作るために、このような道具がすでにあったことは確かであります。発展途上国の機織りの様子をみたことがありますが、それはそれは人間技とは思われないほど速やかに布を編んでいくのです。目にも留まらぬ速さで横糸を通していく様は、行ったり来たりしながら、まさに真っ直ぐに安定しているのです。これは一瞬一瞬が正確であり見事に制御された連続です。揺るぎのない忍耐も必要でしょう。布の生産という役に立つ仕事を作業の手を休めず黙々と続ける姿に、ブッダは心打たれたに違いありません。自らの安立の喩えとして採用されたのですから。
西洋ならずとも私たち現代人の多くは、正しいとか正しくないとかを自らの判断基準で推し量ろうとします。それこそ正義は人の数ほど存在するでしょう。ところが昔のインドでは、他の全てに対して平らか、すなわち真っ直ぐであり、逆らわない、抵抗しない様をいうのであります。セットされた縦糸全部に対して、その間を真っ直ぐ通して引っかからない「梭」のような動きを正とみます。正でない状態は不正です。そういった観点で正と不正とを詳細に考慮し観察してみてはいかがでしょうか。
諸々の悪い行為を嫌うのも、他者の悪行を嫌うのではなくして、自らが悪い行為をなす事を嫌うことであります。機織りのように一刻一刻を大事にした連続を日常の心としたいものです。一息一息、全ての心を真っ直ぐにして、平かで安らかでありますように。全心平安。
梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。
真実はけっして一つではなく、そう思ことも己れの観念。その中の正と不正も己れの思うこと。心穏やかにしての日々からそれは徐々にみえてきます。今日は老人ホームの慰問にいってきます。
それはとても善きことだと思います。私は今日は草刈りをします。サツキが咲き漸くアジサイたちも咲き始めました。したいことが山ほどあって、何を先にすべきか考えながらも一生懸命やっていると近所の檀家さんが手伝ってくれたりして、とても有難いです。早い機会にぜひお越しください。