スッタニパータ284

第二 小なる章

〈7、バラモンにふさわしいこと〉

わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者〉の園におられた。そのときコーサラ国に住む、多くの、大富豪であるバラモンたち──かれらは老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達していたが──は師のおられるところに近づいた。そうして師と会釈した。喜ばしい思い出に関する挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。
そこで大富豪であるバラモンたちは師に言った、「ゴータマ(ブッダ)さま。そもそも今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていたバラモンの定めにしたがっているでしょうか?」〔師は答えた〕、「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」「では、ゴータマさまは、昔のバラモンたちの守ったバラモンの法をわれらに話してください。──もしもゴータマさまにお差支えがなければ。」「では、バラモンたちよ、お聞きなさい、よく注意なさい。わたしは話してあげましょう。」「どうぞ」と、大富豪であるバラモンたちは、師に答えた。
師は次のことを告げた。──

284 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれらは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行なった。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
バラモンにふさわしいこと――この教えについては漢訳『中阿含経』第一五六経、梵波羅延経(大正蔵、一巻、六七八頁上以下)参照。最後の散文の部分は、「大いなる章」の第五の終り(一〇五―一〇六頁)と同じ内容である。

ここでは、真のバラモンとなることを教えているのである。「仏教徒」となることを教えているのではない。これは、仏教の発展の最初期の段階の教えだからである。

大富豪であるバラモンたち――その原語 brahumana mahasala は、直訳すると「大きな家屋のあるバラモンたち」の意。しかし財産のあることを意味する(jatiya brahmana mahasarataya mahasala,yesam kira nidahitva thapitam yeva asitikotisamkham dhanam atthi,te mahasala ti vuccanti.)。

昔のバラモンたちの守っていた――poranam brahmanam.
284 欲望の対象――kamaguna.第一七一詩に対する註記参照。

以上註より一部省略して引用した。

ブッダは仏教の開祖、創始者とされていますが、ブッダには新しい宗教を興すなどという野望を持ちあわせているはずもなく、ただ自らの覚ったことを当時の社会における常識や現状の中で教えを説かれたものです。当時のバラモン教社会の現状は、さしずめ現在の仏教社会の現状に酷似しているのかもしれません。当時のインドにはむろん仏教徒などはいないのですから、バラモン教徒について語るしかないのであります。註記にもありますように、真のバラモンとなることを教えているのであって「仏教徒」となることを教えているのではありません。これは、仏教創成の最初期の段階だからであります。

昔の仙人(バラモン)たちは自己をつつしむ苦行者であった――今のバラモンは、とても仙人と呼べないので昔の仙人という表現になっています。ここで重要なことは、自己をつつしむ苦行者であったことです。今のバラモンたちは自己を慎まない宗教儀式専門家であると断じておられるのです。こう申し上げると、どこかの国の職業僧侶を指しているとは思われませんでしょうか。嫌味ではなく現実のありのまま、事実として申し上げているのです。

五種の欲望の対象を捨てて、自己の理想を行った。――苦行の中身は煩悩を捨てることと自らが真実と信じるところ(本心)に従い理想を行う、つまりは真理の実践であります。教えの中身を実行していたので、自己を慎む苦行者たりえたのです。つまるところ尊敬に値する人々であり仙人の名に恥じない方々であったと述べられておられます。ブラフマン(梵天)に仕える祭祀者は清浄な道を歩んでおられたからこそでありました。日本に置き換えると神主さんたちが神に仕える奉仕者であるとともに清廉潔白であったように、あるいは僧侶が法要儀式を行いつつ清貧であり托鉢による生活で支えていたように、本分を忘れていないことが最低の条件でありました。いつの時代も神仏の近くに住むものが堕落しては世の中の不興を買うばかりか、社会がおかしくなる元凶ともなります。

この節のお話は決して昔話ではないことを強調しておきたいと存じます。まさに耳に痛い話であり、吾がこととして心すべき仏道の大前提であります。道元禅師様はこれを「学道はすべからく貧なるべし」と説かれております。宮崎禅師は、お師匠さまである小塩誾童(こしおぎんどう)老師について「いつも小僧と同じものを食べて、誰よりもはよう起きて坐禅しよる。偉い人やったなあ」と述懐されておりました。

昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれらは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行なった。

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ284」への2件のフィードバック

  1. 人としての本分をわきまえる、仏道の本分、遠いのですがすぐ近くにありを知る、
    最初は志しのプロセスと捉えておりましたがどうやら心得違いをしていたようです。
    それにつけてもなんと暑い日が続くことでしょう。暑さ寒さも彼岸まで、私の彼岸も遠くにあってすぐ近くにあり実に遠い。

  2. 今日はさすがに疲れました。初めての家ばかりで緊張?の連続。でもいい人ばかりで、お坊さんをとても大事にしてくださり、有り難くて、身の引き締まる想いです。身を慎んで参ります。さあラストスパートです。頑張ります。

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