スッタニパータ331

第二 小なる章

〈10、精励〉

331 起(た)てよ、坐れ。眠って汝らに何の益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
坐れ――足を組んで禅定を修せよ、の意。
 
人間にはいろいろの欲望があるが、強い意志があれば、それを制御することができる。しかし、いかんとも超克し難いのは、睡眠したいという欲望である。だから、それを制御せよ、というのである。
 
以上註記より引用した。

修行の初めは、とにかく眠いものです。それは修行の何たるかを体で理解できていないからです。若くても年老いていても、朝から晩まで動きずくめで、心身ともに疲れておれば、眠くなるのも致し方ない。ところがこれを母のように許してしまうと、可哀想にその子が一人前にならないのです。師というものは、涙を呑んで慈悲を持って、これを打つのです。これは、仏法の修行としては、上座部であろうが大乗であろうがチベットやその他のいかなる宗派とて全く同じであります。

その最も根源的な事由が、この節のお経(奮起経)に説かれています。眠って何の益がある、ありはしない。世間の人々が起きて働いているのに、坊さんが眠っていていいわけがない。嫌なら娑婆に戻って行き詰まって舌噛んで死ねとまでは申しませんが、坊さんになったからといってボウ―っとしている暇はないのだと、厳しく諭されます。それはもう特に坐禅のときや読経のときに眠ってなぞいたら、半端ない口宣(くせん)が飛んできます。禅宗では警策(きょうさく・けいさく)といって堅い木で作った平たい棒で肩を痛打されます。

昔は下駄で殴られたとも聞きます。しかし昔のお坊さん方は随喜の涙を流したといいます。なぜならば、修行して一人前のお坊さんになって、国元の父や母に喜んでいただきたい一心で厳しい修行に耐えてみせると決意したからであります。多くは貧しい家庭でした。親のいない子供たちもたくさんいました。寺の前に捨てられていた赤ちゃんもいたのです。寺だけが帰る場所でした。じつに帰りたくとも帰れなかったのであります。

その修行者である若き仏たちに向って、入門の間もない頃に、そのお寺の堂頭(どうちょう)老師(住職等)は、静かに頭を垂れて合掌して申します。「若き仏たちよ。どうか慈悲をもってお許しくだされ。そなた達を打つ吾を、そなた達を打つ吾を」……涙でむせぶ先輩和尚の傍らで小僧さんたちがキョトンとした顔で聞いています。ですが、いずれ身をもって知ることになるのです。厳しい修行とは、眠気との戦いであることを。

沙弥の坐禅
沙弥の坐禅

起てよ、坐れ。眠って汝らに何の益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ331」への2件のフィードバック

  1. 一人前になるとは半人前になるとはどれほど厳しいものか、どの世界でも。帰れないことを覚悟する、
    意地と誇りで、尊厳と慈しみで、
    今日の章はこんなことを思いました。

    1. 今日は朝から大阪の檀家さんにお参りし今帰途につきました。お話の好きな年配の女性で黒柳徹子さんばりにそれはそれは矢継ぎ早に様々な話をされました。元気の秘訣が分かりました。すっかりたらふく頂戴しかつ土産物の量に圧倒されました。楽なようでいて、そうでもないのが坊さん修行。一生勉強、一生青春。

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