スッタニパータ376

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

わたくしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者の園〉におられた。そのときダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者とともに師のおられるところに近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。

376 「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
教えを聞く人――sāvaka.パーリ語でsāvaka,サンスクリットで srāvaka は、もとは単に「教えを聞く人」「弟子」という意味であった。ところが、後代の仏教では、伝統的保守的仏教を奉ずる忠実な出家修行僧の意味に解せられ、漢訳仏典では「声聞」(しょうもん)と訳される。これに対して、ジャイナ教では、ArdhamAgadhi 語でsAvagaとなり、在俗信者のことをいう。後代の仏教でも、後代のジャイナ教でも、この後の意義が一方に特殊化され限定されたのであって、もとは両者を含んだもの、「教えを聞く人」というだけの意味のものであったと解される。
その変遷の過程は、次のごとくである。教えを聞く人々のうちには、出家者(anAgAra,pabbajita)すなわちビク(bhikkhu 比丘)と在家者(agArin,gahattha)すなわち在俗信者(upAsaka)と二種類あった。(中略)在俗信者でも〈教えを聞く人〉(sAvaka)であったのである。ところが教団が発展して、教団の権威が確立すると、出家修行者は在俗信者に対して、一段と高いところに立つようになる。他方、在俗信者は一段と低いものと考えられる。そこで、「教えを聞く人」とは、教団で集団生活をしている出家修行者にのみ限られるようになった。しかしそれは、後世になってから意義が変化したのである。そうして、ある時期から在俗信者は「仕える人」(upAsaka)と呼ばれるようになった(『スッタニパータ』の韻文の中ではupAsakaという語は第三七六、三八四詩にのみ出てくる。しかしマウリア王朝時代およびそれ以後の碑文にupAsaka,upAsikaとあれば、ほとんどすべて仏教の在俗信者のことである)。すなわち、出家修行者に対して仕える人なのである。〔この点はジャイナ教の場合でも同様で、在俗信者をupAsaga=upAsakaと呼ぶ。〕ここでは階位に関する僧俗の分裂がはっきりと意識されるに至ったのである。以上の変化に対応して、ジャイナ教でも同様の変化が見られる。古い聖典(例えばUvAsagadasAo)では「仕える人」(uvAsaga)と呼んでいる。

以上註記より抜粋して引用した。

ここで明確にしておかなければならないことは一つです。それは出家であろうが在家であろうが立場は違っても上下の関係にないということです。これは後代の仏教が権威付けのために行った制度に過ぎないという事実です。ここをはきちがえると大変なことになるどころか、教えを冒涜することになろうと思います。縁あって修行者となる人も、縁あって在家に留まる人も共に仏教徒であることに何ら変わりないことを強調しておきたいと存じます。

さて、今日から始まるこの節は本章の最後の部分にあたります。いわば結論的に具体的な仏教徒のあり方を問い、またブッダが詳細にその内容を示されております。この節だけを読んでも一通りの仏教徒の在り方が理解できるようにまとめられていると申し上げてよろしいかと存じます。

それにしても500人もの在俗信者を引き連れてきたこのダンミカなる方は凄い方ですね。現代でいえば、講演会場に500人集めて話を聞きに来たようなものです。修行僧だけではなく、在家信者もたくさんおられた。そういうカリスマ性があったといえばそれまでですが、メディアの広告もインターネットもない時代です。どうやって集めたのかと不思議ですが、やはり口コミでしょうね。善いものは善い。そして知らずに伝わる。それが2500年間も続いている。驚きです。

「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

 

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ376」への2件のフィードバック

  1. 良い映画を見せていただきました。俳優もいいですね。涙するところが多々ありました。
    分かりやすく良くできている映画だと思いました。
    門前の小僧が教えられるがままに毎日座り、見様見真似の読経、線香の数を数えたら丁度昨日で108本目。
    さて、今日から新しい線香の箱を開けようか・・・

    1. 門内の沙門でしょう。毎日坐ることなぞ殆どの人には出来ません。配役もさることながら、一日坐れば一日の真似、三日坐れば三日の真似、ところが一生坐ればほんまもんや。実行でけておるのは、それが自己のものでも他己のものでもない、本物という海の中で真水を見ているようなものや。今更ながら禅師さまのお姿が目に浮かびます。最後の僧堂に向かわれるお姿。まさしく禅師さまは道元さまでありお釈迦さまでありました。

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