スッタニパータ405

第三 大いなる章

〈1.出家〉

405 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
大いなる章――この章は、第四〇五頌から第七六五頌まで合計三六一頌ある。前の章が第二二二頌から第四〇四頌に至るまで合せて一八三頌あったのに対して、約倍近くあって長い。だから前章をCullavagga(「小なる章」the Short Book)と名づけるのに対して、この章をMahāVagga(「大いなる章」the Long Book)と名づける(英語名はChalmersの訳語である)。

出家――「出家」と名づけられるこの一節における対談はUtt.20に対比して研究する要がある。
「出家」の原語はpabbajjāで「前におもむく」という字義である。ジャイナ教の聖典のうちにも似たような説明が述べられているということは、ブッダもマハーヴィーラも、ともに〈出家する〉という当時の宗教的習俗に従っていたものであるということを示す。
ここの一連の詩句では、ビンビサーラ王との会見が記されているので、歴史的にも重要である。
南方仏教の伝説によると、釈尊は出家してのち七日たってから、当時最大の強国マガダ国の首都王舎城に来たという。七日というのは誇張であろう。カピラヴァストゥから王舎城までさしわたし300マイル以上あり、実際の路程は400マイル以上に達するであろうから、この距離を托鉢行者が托鉢しつつ七日で行くことは不可能である。

他の伝説によると、釈尊は出家してから一夜にして三つの王国を過ぎ、30ヨージャナを旅してアノーマー(Anomā)という河のもとに達し、そこで鬚髪を剃って落飾し、次いでアヌーピヤ(Anupiya)というマンゴー樹林で七日間出家の楽しみを味わい、それから30ヨージャナの道を歩んで一日にして、マガダ国の王舎城に到達したという。これも同様に誇張した表現を含んでいる。

伝説によると、釈尊は王舎城で托鉢し終り、人々にこの市の出家者はどこに住んでいるのかと聞いた。するとパンダヴァ山の東面に住んでいるという答えを得たので、そこに至った。ビンビサーラ王は釈尊の姓氏を尋ねさせ、その出家を思いとどまらせようとした。しかし釈尊はこれを辞して、二人の仙人を訪ねたという。

ただゴータマ・ブッダが出家してまもなく当時最大の強国であるマガダの首都王舎城にまっしぐらに来たということは、注目すべきである。マガダは当時新しい技術を採用し、生産性の最も高かった国であった。かれとしては、いわば当時としては新しい文化の中心地へ来たわけである。王舎城は都市と呼ばれ、パンダヴァ山は王舎城のまわりにある五山の一つとされている。当時のマガダ王はビンビサーラ(Bimbisāra)であった。この王はカーストに関していえば、当時クシャトリヤであったが、大王(mahārāja)と呼ばれていた。

王舎城はいまはラージギルと呼ばれている。この都は旧王舎城と新王舎城との二つに分かれていて、旧都は山城と呼ばれ、そこには(インダス文明を除いて)最古の石造建築の跡が残っている。これは伝説によるとマハーゴーヴィンダ王の建てたものである。その後ビンビサーラ王のときに平地に新王舎城を建てた。

周囲に五つの山がある。1、白善山(Pandava)、2、霊鷲山(Gijjhakuta)、3、負重山(Vebhāra)、仙人崛山(Isigiri)、5、広普山(Vepulla)。

王舎城の都の跡は、現在は荒廃に帰して一面に草木が茂っているだけであるが、国王の都城としてはたしかに要害の地であったにちがいない。北側の渓谷に小さな川が流れているが、そのあたりに城門があり、釈尊はそこを出入りされたと土地の人は説明している。ひとたびその城門を鎖してしまえば、難攻不落であった。だから王舎城は諸王国が対立して、互いに侵略を繰り返しているときの都としては適当であった。しかしマガダ国が強大になり、他の国々から侵略される恐れがなくなると、王舎城は都として不適当である。だから、マガダ国は、後代になると、首都を水陸交通の要衝であるパータリプトラ(いまのパトナ)に移してしまった。それはアジャータシャトル王の子であるウダーイン王のときであると考えられている。しかし釈尊の当時には王舎城はマガダの首都として栄えていたのであり、「マガダの最大の都」と呼ばれている。或いはインド第一の繁華な都であったかもしれない。『スッタニパータ』のかなり古い部分であるこの短編に釈尊が王舎城に来た次第が述べられている。

405 眼ある人はいかにして出家したのであるか……――以下一連の詩句は、ブッダの愛弟子で侍者であったアーナンダがこれを説いたという。

以上註記より抜粋して引用した。

大変長い解説で引用するのは如何なものかと思われましたが、ほとんど写してみました。じつは前々からインドに行きたいという願望を持っていまして、とくにラージギル(王舎城)へは是非行ってみたいと今でも強く思っています。

大いなる章は、釈尊入滅後のそう遠くない時期に成立したものと考えられています。次の第四章と第五章は最も古く成立したとされていますが、この第三章も又それに次ぐ古層に属するものです。それは抽象的な文言よりも具体的な人物名や背景が描かれていて、とくに対話というか対談の中身が非常に現実に即したものであることからも容易に伺えます。また本詩の「われ」というのは、釈尊の侍者であられ多聞第一の阿難尊者(アーナンダ・阿難陀大和尚)であることを申し添えておきます。

それはともかく、この章の最初の節が「出家」から始まることに注目したとき、道元禅師の晩年に著された「正法眼蔵」(十二巻本)の最初の巻が「出家」でありますことに、深い感慨を覚えずにはいられません。

なぜ出家したのか?この事情は出家者によって様々でありますが、ブッダ釈尊のそれは透徹した眼であったように思います。そのこそが本章を貫く一大テーマであると存じます。

眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ405」への2件のフィードバック

  1. なんと申しましょうか、非常にコメントしづらい章でありますので、例によってピント外れのコメントに替えさせていただきます。
    何時ものことなんですが・・・

    今日は妻の三回忌の法要でした。これもまた一つの節目として私の新たな章をめくりたいと思います。
    今朝の夢はなんと妻と記念写真を撮っているという夢、何枚かの写真の中から気に入ったものを買おうとしたら妻は、そんなものもったいないから買うの止めよう・・・
    なんともリアルリアルした夢でした。
    これもまた何かを伝えようとしてくれたのか・・・
    起きて思わず笑ってしまいました。

    1. 「夢は正常な人間の異常な心理」とフロイトだっけが申しておりますが、異常な人間の正常な心理かもしれませんね。別に脳がどうかなったという話ではなくて、驚くほど的確な夢ではありませんか。そんなものもったいない、もったいない。何が伝えたいかって、そんなものよく解っていらっしゃるのではないですか?そうですよ、人が良すぎるところをズバリ突いておられるわけで、とてもわかりやすい、起きてわかる「有り難い助言」ではありました。ごちそうさまです。

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