スッタニパータ406

第三 大いなる章

〈1.出家〉

406 「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

煩悩という字は、煩わしく悩むと書きます。世間の中で修行を進めるのは至難の技かもしれません。仕事をはじめ、雑務が多いのはもちろん、家族や親戚、友人との付き合いなど、人間関係も複雑であれやこれやと心を煩わされる時間が多いと思います。

その点出家は自分のことだけを考えておればいい、非常に気楽な立場に見えるかもしれません。否、現実にそうなのですが、それと気づくのに時間がかかるかもしれません。あらかじめ出家の修行のやりやすさを意識しておかないと、何のための出家なのか訳がわからなくなるやもしれません。

正法眼蔵(12巻本)出家功徳(現代語訳)抜粋

龍樹菩薩が申されるには、確かに、「仏の教えでは、在家の戒に従えば天上界に生まれることも、菩薩の道を得ることも、また涅槃を得ることも出来るという。それならば、なぜ出家の戒を用いるのか。」と問われれば、

私は答えよう。在家の戒であれ出家の戒であれ、どちらも生死を解脱できるが、そこには難易の違いがある。在家には生業や様々な務めがあり、もし仏道に専心しようとすれば家業が廃れ、もし専ら家業に励めば仏道が疎かになる。そこで両方を取らず捨てずして仏法を実践しなければならない。これが難しい。

もし出家であれば、世俗を離れて世の煩いを断ち、専心に仏道修行するので容易なの である。また、在家の生活は騒がしく多忙であり、煩悩の起きる根源であり、多くの罪の集まる場所である。これらのことが 在家の仏道をはなはだ困難にしている理由である。

もし出家したならば、例えば 人が外に出て人気のない広い野原に座り、その心を一つにして 何も思い煩うことがないようなものである。心の煩悩は除かれ、世事からも離れ去っている様は、次の詩に説かれている通りである。

「静かに林間に坐して、安らかに自らの諸悪を滅ぼし、恬淡とした一つの心を得ている、この楽は 天上の楽に勝る。人は財産や地位、快適な生活を求めるが、これらの楽しみは安穏ではない。なぜなら、利益を求める心には際限がないからである。

僧は、質素な袈裟を着けて家々に食を乞い求め、日常 心を1つに整えている。自らの智慧の眼によって、すべての物事が真実であることを明らかに知り、仏の様々な教えの中に、皆等しく 身も心も投げ入れている。解脱の智慧の心は安らかで、この世に及ぶものはない。」
これによって理解されることは、出家して戒を修め仏道修行するほうが、在家の場合よりも 甚だ容易ということである。

道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試みより引用した。

現代語に訳してみると、スッタニパータに書かれていることとほとんど変わりありません。出家でも在家でも解脱は可能であるが、たとえ志は高くとも、在家のままでは甚だ困難であるということです。これはきわめて当然のことを説かれているのですが、まさに道理でありまして現実的な理解であると存じます。

「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ406」への2件のフィードバック

  1. 在家のままでは修行出来ないことは、痛いほど解ります。修行の真似事をしているだけです。在家で煩わしさや悩みを捨て切れるはずもありません。捨てたと思った尻からコンコンと湧いて来ます。というより悩みの壺を背負っているようなものなんでしょう。
    昔、妖怪人間ベムというアニメがありました。早く人間になりたい、人間になるには清らかな心になり、妖怪の力を捨てなければいけません。そのために苛酷な旅をするというものでした。
    今更ながらこどものようにと笑われますが、逆に私は妖怪になりたいと思いますが・・・

  2. 妖怪になりたいとは面白いですね。わたしは既に妖怪のようなものです。怪しいという意味で、困ったものですが、人間様と言っても妖怪のような人間ばかりじゃござんせんか。いっそ地獄に堕ちて一からスタートを切るぐらいの覚悟で歩んで参りたいと思っております。

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