スッタニパータ446

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

446 (悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つけこむ隙――otāra.ṃ.chance;fault(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)=randhaṃ vivaraṃ(Pj.p.393).

みつけることができなかった――nādhigacchissaṃ(=nādhigamiṃ.Pjp.393).ただしādhigacchissaという読みを採用すると、'he would have attained'(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)となる。

以上註記より引用した。

悪魔ナムチの敗北宣言

ナムチは正直に素直に敗北を認めます。自らの心と行いに常に気をつけているブッダには、悪魔のささやきが通用しませんでした。一歩一歩ごとにつきまとったナムチでしたが、ついに付けこむ隙間がなかったと述懐します。この敗北宣言は、後に神話的に述べられたものとは思えないほどの現実味があります。なぜならば「われは」という主語は文脈としてはもちろん悪魔ナムチのことですが、これはブッダ釈尊自身の回想でもあるからです。かれの内心に悪魔があらわれます。幾度となく甘い言葉が浮かぶのです。だれでも分かるはずです。やめる。怠り。断念。そうした言葉自体が頭に浮かぶのはやむをえません。これが悪魔の正体です。言葉によって、頭に浮かぶ言葉によって人は行為を選択するのです。悪魔の言葉に勝つか、負けるかのいずれかを選ぶことができるのであります。

正覚者ブッダの勝利宣言

私たちの妄想や執著あらゆる観念は、すべて言葉・言語で出来ています。このことは言うまでもないことかもしれません。しかしながら言葉の強さを意識しなければ観念を克服することはできません。どのような言語であれ、言葉は悪魔にも神々にもなります。言葉は凶器どころか悪魔そのものに成り得るのです。また言葉は友であり家族です。自らに励ましを与えてくれ、あるいはいたわり、あるいはなぐさめ、癒やしてくれるのも内なる言葉です。ですから譬喩としての悪魔ではなく、現実に悪魔がつねにつきまとっているわけです。六年間の修行の間はもちろん正覚者となった後の一年も、あわせて七年間を振り返ったときに、いつの時にも悪魔の言葉に動揺することがなかったと釈尊は正直に述べておられるのです。

精励ということの本質

精励、努め励むということは、結局自身の中の言葉で決まります。このことを悪魔との戦いとして表現されています。怠けを悪魔と呼んだのであります。世間一般でもよく魔が差すといいます。悪い行為は悪魔という化け物が勝手にさせたのではありません。悪い言葉の通り行動した結果であります。怠けたのは「怠け」という言葉によって怠けたのです。疲れたとか調子が悪かったというのも全て言い訳です。勝利を得るためには自身の言い訳を許さないことでしょう。朝起きられない。なすべきことを先送りにする。そうした甘えが自身の中にあるときに精励とは程遠い悪魔に敗北した姿、様子となります。

大統領 就任式の 言葉かな (月路)

日本時間の今日未明、合衆国の大統領にトランプさんが就任しました。今日からはトランプ大統領ですね。この就任式の模様をテレビで見ました。政権交代がこのように平和裏に執り行われる風景にあらためて感慨を深くします。世界では戦争を繰り返し、醜い争いどころか殺戮が日常の国や地域がまだまだ沢山あります。演説の内容や支持の割合はともかく無事に就任されたことを素直に賞賛したいと思います。関係者の努力でしょうね。これに尽きると思います。何事もなく無事であることは、努力、精励の賜物。人々に感謝を述べる大統領。言葉はいかようにもなるものです。言葉に気をつけます。

(悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

 

正道

正道 について

禅僧。 福井県敦賀市出身。 滋賀県高島市マキノ町に「大慈観音堂」建立中です。 猫好き、音好き、話好き。 モットーは「正月道路」人生は旅修行。

スッタニパータ446」への2件のフィードバック

  1. 暑い寒い、痛い痒い、空腹満腹、眠い、おそらくこの程度でしょう。春になれば生殖機能も目覚めるか・・
    犬の幸せ、猫の幸せ、なる本が売れております。小雑誌なんですが読んでみると飼い主の思い通りになること、しつけることが幸せにつながるみたいなことです。
    言語を持たない動物がどうやって幸せを感じることが出来るのか、ここでまたどうでもいい馬鹿なことを考えてしまいました。素直に読んでりゃいいものを・・
    朝の連ドラ総集編を見ておりますと、何不自由なくおんば日傘で育てられた娘がジャズ喫茶ナイトクラブに通うようになりました。父親母親、特に母親はそんな娘がどうしても理解できません。戦後の動乱期、ただ娘の幸せを願い懸命に仕事をして来た母親、善は仕事であり、遊びは悪なのです。そして娘はそんな母親を重く感じるようになって行きます。ジャズ喫茶のママの一言、「居場所を探すものなんよ、分からんよ女の一生なんて」
    またちょっと視聴率を上げそうです。

    1. ドラマを観ていないので訳がわからんのですが、そういう人も本当は分かっていないんでしょうな、きっと。わからんといえば、自分が一番わからん。息子でも娘でも嫁さんでも、自分と違う他人。わかろうとすればするほどわからんようになって悩む。心配はわかりますが、それこそ一寸先は闇。男は黙ってサッポロビールときたもんだ。

      動物は幸せっていう言葉すらない。人が勝手に幸せだとか可哀想だとか決め付けているだけ。猫はニャンとも思っていない。言語化するまでにニャンとなく、ワンと吠える。本能の赴くままでありました。犬や猫の幸せってそんなもん、知りませんが。

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