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スッタニパータ620

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

620 われは、(バラモン女の)はらから生ま(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは〈きみよ、といって呼びかける〉といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれてい。無一であって執著しゅうじゃくのない人、──かれをわたしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第三九六詩に同じ。cf.Sn.1063.

われは、(バラモン女の)胎から生まれ……――ここの二十八の詩句は『ダンマパダ』第三九六―四二三詩に同じ。最初期のジャイナ教聖典でも理想の修行者をバラモン(baṃbhaṇa)と呼んでいる(Utt.XXV,vv.19-29,33,34)。また開祖マハーヴィーラをバラモン(māhaṇa=brāhmaṇa)と呼んでいる(Suy.I,2,1,v.15)。

きみよ、といって呼びかける者――バラモンのこと。バラモンは互いに他人に向って、「きみよ」(bho)という語を以て呼びかけるからである。さらに原始仏典を見ると、バラモンはゴータマ・ブッダに向って「きみよ!」(bho)といって呼びかけている。ゴータマ・ブッダに対して特別の尊厳を払っていないのである。
かれは何か所有物の思いにとらわれている――sakiṃcana.情欲(rāga)などを所有していることであるとパーリ文註解(ad Dhp.396)は解するが、しかし原義は、自分が財産や名声など何ものかを所有していると思いなすことを言うのであろう。

無一物――akiṃcana.何物をも所有しないこと。本書では特に強調されている。第一七六四五五四九〇五〇一、六四五、一〇五九、一〇九一、一〇九四詩参照。パーリ文註解(ad Dhp.397)には情欲(rāga)などを所有しないことと解するが、語釈としては適切でない。
以上註記より引用した。