日別アーカイブ: 2017年8月23日

スッタニパータ624

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

624 怒ることな、つつしみあ、戒律を奉、欲を増すことな、身をととの、最後の身体に達した、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第四〇〇詩に同じ。

怒ることなく――Vajrasūcī,S. の部にも同様に説く。

つつしみあり――vatavanta. パーリ文註解(ad Dhp.400)によると頭陀行(dhutavata)を実行している人であるという。つまり少欲知足を行なっているのである。

戒律を奉じ――sīlavanta. パーリ文註解(ad Dhp.400)によると、四清浄戒(catu-pārisuddhi-sīla)をたもつことであるという。catupārisuddhisīlaṃ(Skrt.catur+parisuddhi+sila)とはcatusaṃvarasilaともいい、(1)pātimokkhasaṃvarasīlaṃ,(2)indriyasaṃvarasīlaṃ,(3)ājivapārisuddhisamvarasīlaṃと
(4)paccayasannissitasaṃvarasīlaṃ
とをいう(中略)。
それらを訳すと、
(1)「別解脱律儀」、身と語とに悪をなさないことを誓うこと、
(2)「根律儀」、感官を制しととのえること、
(3)「正命清浄律儀」、生活を正しくすること、
(4)「縁に関する律儀」、生活必需品を節制することである。
catupārisuddhisīlaṃという語は、ジャータカ第三八八(vol.Ⅲ,p.291),
Dhammapadaṭṭhakathā,vol.Ⅳ,p.111,ad v.375 に出ている。第三七五詩に四種清浄戒の萌芽があると言えよう。清浄会とは、説一切有部のほうでは四種持戒のうちの第四であり、煩悩の汚れを離れた無漏清浄を守ること(『雑阿毘曇心論』『倶舎論』第一八巻一七右)であって、パーリ仏教で意味するところとは異る。

欲を増すことなく――anussuda=taṇhāussāva-abhāva,Comm.ad Dhp.400(taṇhāussodābhāvenaanussadam,Pj.ad Sn.v.624).
身をととのえ――danta.眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官を制しととのえること(パーリ文註解 ad Dhp.400)。

最後の身体に達した人――もはや生まれ変わって次の身体を受けることがない、との意(後略)。

以上註記より引用した。

長らくお盆休みを頂きました。と、申しましてもブログをゆっくり書いている暇がないという超大忙しの旧盆でありました。今年は福井へ帰って段取りが変わったことと、新たなプロジェクトの始まり、さらには観音堂建設の準備とで文字通り大忙しの日々でした。

この8月17日には、大慈観音堂の起工式(地鎮祭)を厳修いたしました。禅宗のお坊さんの場合、全ての行事は「修行」であります。もちろん行事のみならず一日の生活の全てが修行なのです。

もちろん人間ですから、いろんな感情が沸いてまいります。それを一々こだわっておるととても前に進みません。前に進める。一所懸命に努力することを「精進」と申します。つまり全ては修行ですから、そう思わなければ、何も前へ進みません。ああでもない、こうでもないと言うておる暇はないのであります。

昨日、基礎の丁張り(水盛り遣り方)を出しました。敷地の高低差が比較的に大きいので、道路側では高基礎のようになります。今日は午前中は大雨でしたから、理事長と二人で工程工法会議を行いました。現場は全休であります。