625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

『ダンマパダ』第四〇一詩に同じ。 蓮葉の上の露のように――下の汚水に交わらないから清らかである。「水の中に生じた蓮が水に汚されないように、そのような諸々の欲情に汚されない人――われらはかれをバラモンと呼ぶ」(Utt.Ⅶ,27)。cf.na karmaṇā lipyate pāpakena (Brhad.Up.Ⅳ,4,28). 錐の尖の芥子のように――粘着してとどまることがないから、執着のないことにたとえている。 以上註記より引用した。
▶先日このブログを御覧頂いた方から、「マイクロサンガ見たけど、難しくて……」といった生のコメントを頂きました。ちょうど観音様の十八夜の夏祭りの時のことです。途中からでは何のこっちゃさっぱりわからないかもしれません。これからは、もう少しわかりやすいものにしていく所存です。どうかよろしくお願いいたします。
欲情に汚されない
▶執著というものが心理として根強くあるわけです。この執著は、自分の思い通りにしたいという欲情からきています。元をただせばこの欲情に制服されてしまっているのが、人間と言えば人間です。人からよく見られたい。人から悪く見られたくない。自分は正しい。自分は間違っていない。これは大事な観念なのですが、ややもすれば、このこだわり、執著によって辛い目にあうのが現実です。この「欲情に汚されない」こと一つとっても、言うは易く、行い難しであります。
▶「諸々の欲情に汚されない」というのは、まさに欲情というものはあるけれども、それにとらわれない心を指しています。自分に打ち克つという克己心とよく似ていますが、単に欲望を抑えるといった我慢や自制と大きく違うのは、全く気にならない、それこそ蓮の葉を滑るようにして水滴が落ちていく、とらわれのない、こだわりのない心です。それが、実は一番楽チンだということです。
他人のことはよく分かるが、こと自分のこととなるとよく分からない。
坐ることと靴を揃えることから始めて、凡人はどうにか一年経ちました・・・
坐ること、クツを揃えること。
誰でも知っていることですが、知っていることと実行していることの差は限りなく大きいと思います。
端坐一年。
すごいことです。