カテゴリー別アーカイブ: ブッダの声

スッタニパータ469

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

469  偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく……――第四九四詩に同じ。ここに数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれと合致し、後代の小乗仏教の体系からは離れている。ジャイナ教では古来主な煩悩を怒り(koha=krodha)、慢(māṇa=māna)、いつわり(māyā)、貪り(lobha)を挙げるのが通例である(中略)。そうしてこの一組みは後代の文献にも継承されている(中略)。この四つは汚濁(煩悩 kasāya)と呼ばれている。修行者はこの四つを断じなければならないのである。なお第三二八詩参照。

以上註記より抜粋して引用した。

ではどうしたらこのように澄んだな水のような心に成れるのでしょうか。ここが今日のポイント(ブッダの声の透徹したところ)かと思います。後代に三毒と呼ばれまとめられることになる「貪瞋痴(とんじんち)」すなわち「貪り、怒り、愚かさ」は心の毒のようなものであると考えると、それはいつまで経っても消すことが出来ない煩悩ということになってしまいます。すなわち何かにすがって消してもらいたいと願う信仰に結びつき祈願に向うのです。

そうではなくして「わがものとして執著することなく」と述べられているように、我執に気づくことが基本です。我がものと思うからこそ、また自分というものにとらわれているからこそ全ての煩悩が生じるのであります。全ては空であると思い知ること。これが核です。本来は何も無い。五官によって感覚が生れ、自己中心的にものごとを捉えてしまっているのが現実です。あるがままを見ていないということです。自分勝手に悩んだり苦しんでいる、全ての原因です。この原因となっている考え方をあっさり手放してしまうことです。

そうしないと我執によって「怒り、慢、いつわり、貪り」の四つを断じることは永遠に為しえません。なぜ怒るのか腹が立つのか。なぜ驕り高ぶりが生じるのか。なぜ嘘をついたり騙してしまったりするのか。なぜに欲望が次から次へと生まれるのか。それは汚れて濁った水(汚濁水)だと分かってはいても、自分ではどうしようもできない。人間なんだから。そういう結論で片付けてしまいます。しかもその方がずっと楽ですし慰めになると本気で思っています。腹が立つのは全部人のせい、世の中のせい、だから戦わなければならないと真剣に憤っている。愚の骨頂です。

取り組むべきは空を知ることです。この世の現実は空であります。空を完全に自分のものにしたとき、一気に「偽りも、慢心も、貪欲も、欲望も、怒りも」全てが無くなります。そうした心が生じなくなります。生じませんから消す必要もありません。「心が静まり憂いという垢」も生じない澄み切った水のようになるのです。何を見ても何を言われても、たとえ棒で頭を叩かれようが鞭打たれようとも、穏やかな顔でおられるのです。腹が立たない。動じない。これが解脱の姿であります。蛇が皮を脱いでしまうようなもの。脱皮であり脱出です。自己からの解脱。無我ということです。

キリストも釈迦牟尼仏と成給う(月路)

昨日久しぶりに「ベン・ハー」を観ました。十字架を背負って丘に向って歩くキリストをローマの兵士が鞭打ちます。よろけながらも、地に倒れても、血だらけになって傷つきながらも、そのお顔は穏やかで澄んだ瞳をされていました。映画ではその顔を映し出しませんが、人々は驚くのです。そして悲しみます。ところがキリストは磔刑のまさに命終えんとするとき、静かに述べます。「父なる神よ、人々を許し給え。彼らは罪を知らないのです」と。

かれもまた人として生れた神であります。そしてわたしは「キリスト様もブッダである」とさえ思えました。数々の逸話はともかくも、わたくしというものが無い。超越とは超のつく能力なんかではありません。正に乗り超えたのです。人々の苦しみの原因がほんとうにわかっていたのです。それは空(くう)を知ったことに他ならないと思います。罪と表現しようが煩悩と呼ぼうが、それは文字の差程度のものです。言葉では表現できない「あるがまま」が空そのものであります。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ454

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ヴァンギーサ長老が、仏陀の面前で、偏袒右肩して師を賞賛した言葉は、この詩句で終ります。師を前に賞賛の言葉を述べることなど普通ありえないのですが、臆面もなくこれだけの言葉を並べることができるのは、それだけ修行を積み、言葉の重みを身をもって実感していたからでありましょう。

それはともかくとして、ここでサラリと重要なことを述べておられます。その一つは仏陀が穏やかな言葉で説かれた理由です。

安らぎに達するために

目的は安穏の境地に至るためです。解脱であり涅槃を得るということです。「安らぎ」という言葉のもつ柔らかな日差しのような明るい表現を心がけたいものです。

苦しみを終減させるために

安らぎに達する、安らぎの境地に至るということは、とりもなおさず、苦しみを滅ぼす、終滅させる必要があるわけです。苦しみから逃れることではなく、苦しみのもとを滅ぼす具体的な作業が必要です。それが修行と言えば修行なのですが、では何をどうしたら安らぎに達し苦しみを終滅させるのかといえば、それは仏陀から穏やかな言葉によって教えられた理法そのものです。

穏やかな言葉によって

話し方でしょう。語り口といってもいいです。声のもつ響きが、その人の全人格を見事に表現しています。このブログのテーマは「ブッダの声」なのですが、ようするにブッダの肉声を聴くことはできませんが、ブッダの声を感じ取ることはできると思います。わたしなぞは、ブッダから一声かけられただけで、全身に電撃が走ってしまうかもしれません。それほど心酔しているのです。この陶酔から醒めようと何度も考えましたが、疑いに疑いを重ねて自分ながらに検証を続けましたが、あらゆる方面で挫折しました。完璧です。

うまくいえませんが、そうですね、いわゆる胡散臭さがないのです。これが2500年前に語られた言葉とは思えないほど現実味があり、時間の検証に耐えてきた信頼はもちろん、それを伝えてこられた方の人柄、たとえば中村元先生のあの柔和な語り口を思い出すだけで充分であろうと思います。直感ですが。

想い出や はるかな過去に 生まれたし (月路 )

忘れかけていた想い出というものがあります。ふとしたときに、その遺跡とか遺産といったものを発見することがあります。今風にいえばレガシィというのでしょうか、お寺にも様々なレガシィが有りまして、先人が残そうと意図したものではなくても、そこに確かに人々が生活していた痕跡があるのです。おもわずタイムスリップしそうな、想い出の品。戸棚一つとってみても中から昔の卓袱台に置かれていたであろう茶碗や茶托。お絞り受け。そこで繰り広げられていた会話まで聞こえてきそうです。

現代的行動行動的現代性という人類学の学問領域があります。人間の言葉には「人類の歴史を通して全ての人類集団に共有されている主要な特徴」があるというのです。「一般的には言語、宗教、芸術、音楽、神話、娯楽、冗談などが含まれる」とされていますが、時間と空間を超えて共通なものが、普遍の言葉であろうと思います。ノスタルジーといわれればそれまでですが、「青年は未来を思い、老人は過去を振り返る」ものです。最近やたらと過去のことが懐かしく、ああこりゃいかんと未来志向に軌道修正しながら、ほそぼそと運転しております。

安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。

スッタニパータ103

第一 蛇の章

<6、破  滅>

103 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第六の破滅です。先生! 第七のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

先日よりリンク集「観音様の眼」を固定ページ(メニューより)に設置してあります。お気づきでしょうか?ぜひ一度ご覧いただきたく存じます。グーグル(google)の検索エンジンと私の友そして尊敬する方々をご紹介いたしております。

わたしにとっての観音様は、わたしの中に生きている私以外の方々であります。父や母そして敬愛してやまない多くの方々、とりわけ友や同安居(どうあんご:修行仲間の意)をはじめとする無数の方々のおかげで、わたしの今日があることは、まぎれもない事実であります。わたし以外の方にもそれぞれ無数の「お陰様」である観音様が現実に生きておられます。観音様は妙法蓮華経(法華経)では「観世音菩薩」般若波羅蜜多心経(般若心経)では「観自在菩薩」と唱え奉ります。ともにサンスクリットの Avalokiteśvara Bodhisattvaアヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァの漢訳です。一般に解釈されている観音菩薩(観音さま)についてはウィキペディア等でお調べください。

観世音とは「世の音を観ずる」と書きます。まさに世間のあらゆる音(耳に聞こえない音を含む現象全て)を観察しているというふうに理解しております。この理解は一般的ではありませんから(典拠がないため)他では通用しませんが、わたし自身の体験(おもに坐禅や冥想)から体得したものです。いわゆる理屈ですが「ああ、観音さまってのは、その時その時の全部やなあ」といった感慨であります。

また誰の解釈だったか忘れましたが、松原泰道師がいつか観自在菩薩について「観れば自に在る菩薩かな」という話をされていました。極めて印象的で般若心経をお唱えするたびに一瞬頭をよぎります。まさに名訳であると同時にそのまんまで禅僧らしい端的を感じました。ごちゃごちゃ解説するよりよほどすっきりした名言だと存じます。

私以外の人々が私の中にある観音様であるという姿勢でおれば、どうなるでしょうか。こたえは「無害」です。観音さまは三十三相をお持ちだということです。さまざまな形で現れるという意味ですから、まさに他人というのは観音様なのだと思うことにしています。そして観音様の頭に常に掲げてあるのが、ブッダ(仏陀)であることも忘れてはおりません。

観音様の眼とは、じつに己の中にある人々の厳しくも優しいまなざしであります。