カテゴリー別アーカイブ: 三毒について

スッタニパータ516

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

どうしたら比丘は自制できるか。サビヤさんの三番目の質問に対して、ブッダは感覚器官を修養しなさいと言われています。この感覚というのは、外面的な五官により内面的な五感がもたらされるので、そこに意識を向けて修行しなさい、それが心の修養つまり心構えであり、現実的な対応だということです。もっと簡単にいうと、目や耳に入ってくる情報に好き嫌いの感情が生じます。これは好ましいとか好ましくないとか、あるいは快・不快といった気持ちのことです。この気持ちを冷静に観察するのです。すると「好き」が貪欲となり「嫌い」が怒りにつながっていく様子がはっきりします。また「どうでもいい」と無関心でいると虚無に陥ります。ではどうしたら良いかといえば、ここが修養、修行の要ですが、黙って「全て妄想」であると気づくことです。感覚に実態はないというしっかりした心構えがなければ、そのまま感情に流されていきます。その感情の激流に流され溺れれる前に、激流を渡るのです。どのように渡るか。空を知ることです。色即是空。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、臭覚、味覚、触覚の感覚の全ては空であり、それによって思うことは全て妄想であり、実態のないものであり、とらわれるものではないという真理を実行するのです。今までに学んだ仏法が現実の生活の中で活かされなければ、ただのお話です。他人事です。いつまで経っても自分事になりません。を積極的に意識する。それは虚無ではありません。キーワードは色即是空。それが般若の智慧です。般若心経のなかの中心です。

身を修めて

このを身体で知り覚えるのが坐禅です。いつも背筋を伸ばしている。これは無意識になるまで訓練が必要です。姿勢や態度に気を付けていると、余計なことを思わず考えずにおれます。妄想が少なくなるのです。道元禅師が著した「普勧坐禅儀」を読むとよく分かるのですが、徹底して姿勢に注意することが事細かに述べられています。坐禅中に無心になるにはどのようにすれば良いかではありません。もうそういうレベルは超えましょう。ただただきちんと坐る。正身端坐といいますが、まさに身を正す以外無いのです。何か考えたらそれは余計なこと。妄想しそうになったら背筋を伸ばすのであります。これは道場以外の場所でもすぐに出来ます。首筋に意識を向けることです。なんにも考えないということは、身体の芯が真っすぐにならないと実現できません。そういうのが心構えです。この世とかあの世とか、そういうものも離れて、身を修める。きちんとするということです。

片付ける物の置き場を片付ける(月路)

整理整頓。これが私の今日的課題です。物がやたらと多いことに、引っ越しの際に嫌というほど気付かされました。困ったものです。土木工事に掛かる前に建築工事ということで、道具類を片付ける物置場を作ることにしました。友の倉庫を見た時にきちんと整理されているなあと思いましたし、とにかく勝手口が道具だらけで通行不能に近くなってきました。ここからやらねばと思っています。

どうもわたしは一言も二言も多い。これは昨日の総会でも自身で気づきました。あとから考えれば云わなくてもいいことまで、ついつい説明のために言ってしまう。自分の嫌いな部分です。これも観念なんですが、ここはいい年になったんだから少しは是正しなきゃならんと思っています。ただし若いうちは自分が正しいと思ったことは言うべきだと思います。またどんどん思う存分行動すべしといいたい。胸のうちにしまって、言いたいことを封鎖していると、どこかで暴発します。そういう怖さを感じます。引きこもりが相変わらず多いそうです。引きこもって何もしていないのが一番怖い。せめて遊びに行ってほしい。そんな風に思いました。

全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

スッタニパータ507

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

無量の慈しみ――はかり知れない優しさ。四無量心といわれるように慈悲喜捨の心は、自分と同じように他人を大事にすることであります。他人事ではなく吾がこととして捉える。その底抜けの親身さといっていいでしょう。

無量の慈しみの心を起こす――発心ということです。発菩提心の略ですが、発心とは悟りを得たいという欲望ではありません。衆生を済度したいという願いであります。これを実現するのはまず自分が率先して、貪欲から離れ、憎悪、怒りの心を自制する必要があります。この詩句は、昨日の言葉と合わせて、マーガ青年に対する究極の諭しであります。またこの詩句だけで、仏教とは何かを端的に表した究極の永久の真理と申し上げても過言ではないと思います。

貪欲を離れること

貪瞋癡、三毒の一つである貪欲は私たち衆生の生態であります。渇愛ともいいます。常に飢えている。朝ごはんを頂いても昼になればお腹が空いてくるのです。食うために働くとは、ある意味、正直な実感でありましょう。この生理的な欲望の延長線上に貪欲があります。しまいには他人のものまで欲しくなる。店で見たものが欲しくなる。それが必要だと自分に言い聞かせる。自分へのご褒美。何でもいいのですが、人間はとくに理由を付けて貪欲の虜となっています。断捨離の前にあれこれと買わないことです。断つべき、捨てるべき、離れるべきは、物そのものよりも貪欲そのものから離れることであります。ああしてほしい、こうしてほしいと思う依存もまた貪欲であります。これは正しく自分に言い聞かせています。このことが他人事のうちは、何をやっても結局うまくいかないのです。無欲ではなく、離欲が第一歩であります。

憎悪を制すること

自制です。怒るというのは、憎いからです。相手が悪いと思うからです。たとえば政治が悪い、社会が悪い、犯罪は悪い。確かにそうでしょう。しかしここで考えて下さい。悪を憎むことが正義だとします。古来義戦なしとも言います。どんな人にも正義がある。自分は間違っていないのです。相手が悪い。北朝鮮のトップにしてみれば合衆国が悪いと心底思っているのです。悪いから憎む。また憎いから悪い。昔からの俗言に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのがあります。うまいことばかり言いよって、他人の布施で儲けとるものが、偉そうに何抜かしとるねん。これが憎しみ。僧とよく字が似ていますね。どうもここからきています。負け惜しみや妬み、思い上がり、蔑み。こうした感情が憎悪を構成しています。罪を憎んで人を憎まず。この言葉が空虚とならないように、憎悪を制する。この自制の重要性を認識しておくことです。客観的に冷ややかな眼で観て、無関心を決め込むことではありません。たとえ凶悪な犯罪に対しても、「憐れむ」心であります。地獄に落ちていく者に対しても優しい母のような気持ちで、厳しい父のような眼で「愛おしむ」ことであります。犯罪者を我が子のように思えるかどうかです。同じ人間として許せるかどうか。ライオンが少女に噛み付いて殺したとしましょう。その時どう思うかであります。考えてみてください。

無量の慈しみの心を起す

結局、この慈しみの心を起こせるかどうかです。生きとし生けるものが、どうか幸せでありますように。これが抽象概念で終わるか、具体的で積極的な慈愛の心として起こせるかどうか。ここが問われている核心です。自分が殺されそうになるときにも慈悲を貫けるか。最愛の家族を傷つけられて、慈悲の心が起こせるかどうか。倒れてしまう心を起こせるかどうかです。無量とはそれほど残酷なことなのであります。綺麗事ではありません。むしろ一般的には無慈悲にも見えるのです。あり得ない心であります。それが無量の慈しみの心を起すことの真意であります。祈り。戦場に倒れた吾が子の骸の前で、誰を恨むことなく、ただただ涙し、ただただ心経を唱えながら、無量の慈しみの心を、倒れそうになる心を、そっと抱き起こすことであります。昔の僧侶がそうでした。自国の兵士が倒れている。その兵士はかつての友であったかもしれません。その兵士のむくろを抱きかかえて、手厚く葬り、祀ったのであります。南無佛と。

日夜つねに怠らず

お釈迦様は、毎日午後11時に眠られ午前1時に起きられたそうです。二時間の睡眠で80歳まで元気に歩み続けられました。この真似はさすがに出来ませんが、攝心のときは、そのご苦労を偲びつつ、これに準じた差定で、ほぼ一日中坐禅を行います。この「常に怠らず」はブッダ釈尊最期の言葉でもあります。怠ることなく精進せよ。僧堂の木版(もっぱん)に書かれている無常迅速の偈文に「謹白大衆(つつしんでだいしゅにもうす)生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(おのおのよろしくせいかくして)慎勿放逸(つつしんでほういつなることなかれ)」とあります。夜坐の終りを告げる木版を打ち上げるときに、直堂(じきどう)が声高らかに唱えます。僧堂によっての違いはありますが、概ねこの言葉は中国禅宗の極みであると同時に、釈尊から続いた師資相承の金言でありましょう。

心をあらゆる方角にみなぎらせる

慈悲の心を全てに漲らせること。日日の行持において、慈悲を離れた行いが一つもないようにすることです。これは並大抵なことではありません。食事の準備、掃除洗濯いずれの日常の作務一切、修行ならざるものはありません。修行は慈悲の心を育てるための具体的な行いです。何かに慈しみの心が抜けたら、それは行為としては同じでも修行ではないということです。もうこれ以上は申し上げません。申し上げる必要もないでしょう。

法面に参道開く夢を見る(月路)

お寺の駐車場から山門に至る階段やスロープが急で、一段一段の蹴上げも高く、年配の方にとっては大変だろうと常々思っております。そこで手すりの付いた緩やかな参道を法面に設置したいと思いました。今度の役員会で提案したいと思っております。これが慈しみの心であればと、自分に出来ることは何かと考えたときに、やはり優先順位というものがありますし、じっさいに費用の問題もあります。あれこれと思うことはいっぱいあるのですが、まずは目の前の課題に取り組んでまいります。

かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」

スッタニパータ499

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
安らぎに帰して――samitāvin.静まって、の意。第五二〇詩参照。

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。

生存の諸要素――註にkhandhe(Pj.)という語を補っているのに従う。

以上註記より引用した。

安らぎに帰して

昨日、ある檀家さんの生前戒名を静慮するのに漢和辞典で「静」という字を調べましたら、争いが静まる、澄みきるという意味があるとのことでした。漢字の成り立ちには深い歴史と先人の智恵が固縮されているように思います。固形スープにお湯を注ぐと一気に具材が溶け出して香りとともに温かいスープが現れるように、漢字には人々の思いが込められているものだと改めて深く感じ入りました。この安らぎに帰するという言葉にも、註によれば静まっての意があるとのこと。心の平和。争いが静まって平穏である様子がありありと見えてまいります。安心(あんじん)という仏教用語があります。文字通り一時的なほっと安心の状態ではなく、普段の恒常的な心の平安をいいます。また得度して授かった戒名のことを安名(あんみょう)ともいいます。自己を制している人が安らぎに帰するのであって、世間や人々に平和を求めるのではありません。いくら声高に平和を叫んでも、平和が訪れることはありません。腹を立てながら平和を求めるのは筋違いというものです。

貪欲を離れ怒ることなく

これは三毒と呼ばれる貪瞋痴の貪と瞋ですが、この貪と瞋を合わせたものが痴であります。愚かな所業ということです。貪欲のままに怒りの心をもってする全ての行為が、悪業となることは言うまでもありません。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡。日本に伝えられた懺悔文(さんげもん)は仏教の根本を端的に示しています。毎日読誦し決して忘れたくないものです。我が昔より造りし所のもろもろの悪しき行いは、皆、この貪瞋痴に由来している。まずこのことに気づかなければ、何も分かりません。吾が貪瞋痴を認めることです。自分は悪くないと思っている皆さん。勘違いしてはなりません。全世界の人類(もちろん私も入ります)がことごとく悪人であることを認めましょう。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」自分が善人であると思うことが、勘違いも甚だしい愚の骨頂であります。

生存の諸要素を捨て去る

生存の諸要素は五蘊といって色受想行識のことです。毎日般若心経をお唱えしている人にはお馴染みですね。生きている実感といってもいいでしょう。これを捨て去りなさいと言っておられる。五蘊皆空。これは色即是空、受即是空、想即是空、行即是空、識即是空ということです。見えるまま、聞こえるままの世界は、自分が実感していることは、全て「」であって、実態のあるようで無いもの。あるがままではないということ。それに気を奪われて本質を見失ってしまわないように、あらゆる観念、色眼鏡を捨て去れというのが、無色声香味触法なのです。般若心経を作った人は釈尊が述べられた原典を全て承知で、その上で、馴染みやすく解りやすく仏教の智慧を伝えられました。スッタニパータを読めば大乗仏典がよくわかるはずです。ようするに釈尊の教えは連綿と続いてきておるのであります。

迷いの生存に行く道のない

迷いの生存とは、輪廻して赴く六道のことです。輪廻から解脱すると、もうどこにも行かなくていいのです。天上に昇ることも、人間界に留まることも、地獄餓鬼畜生の三悪道や修羅の道それぞれの悪道に落ちることもない。ではどこに居るのかといえば、どこにも居ない。そしてどこにでも居られる。永遠の存在となる。ブッダということです。考えても見て下さい。自分が解脱したら、あとは野となれ山となれ、自分さえ悟ればそれでいいんだ、皆そうすればいい。こういう考えがあることも承知しております。しかしこれこそ理想論です。ブッダは道を教えた。そして今でも教えているのです。ブッダは「私の衣の裾をとる者が私の弟子ではない。私の教えを行うものが私の弟子である」と述べられました。ブッダの存在は時間と空間を超えて、今、私たちの中にあります。仏性といいます。過去現在未来の人々が佛になるときは必ず釈迦牟尼佛となります。同じ佛となる。人々の名付ける名前はたとえ違っても、佛はブッダ釈尊お一人に合一するということであります。帰依仏無上尊帰依法離塵尊帰依僧和合尊

有り難や佛のみもとに抱かれて(月路)

昨日の午後はある檀家さんの御見舞に行きました。すっかり元気になられて、やはり病院は完全看護でありがたい所だと思いました。少し痩せられましたが余分な部分を削られたものと思います。なにはともあれ、十分養生してまた元気にお会い出来ることを楽しみにしております。お大事に。今日は一日こもって宿題をいたします。総会の議事録のテープ起こしなのですが、これはじっくりと腰を据えてやらなければ進みません。なかなか進まないのは邪念のせいです。眠くなってきたら睡魔と戦うのではなくて、正味の話、自分と必死に戦います。負けてなるものか。

安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ498

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

498 貪欲を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句もまた前句と同様に前節のスンダリカ・バーラドヴァージャ経の第465詩とほとんど同じです。出家者にも在家者にも、同じことを説いておられるということです。在家者といえば、大乗仏教で有名な「維摩居士(ゆいまこじ)」のことに触れておきましょう。維摩経という初期大乗仏典で、旧来の仏教の固定性を批判して、在家者の立場から大乗仏教の「空」を宣揚したとされる大居士とされています。簡単に申し上げれば、相手が誰であれ忌憚なく仏教の本質をズバリ喝破したのです。お坊さんには特に厳しく、文殊菩薩が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩居士は「非道(三毒による仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということらしいのです。これは見事な例です。偉そうな法話を人前で平気で説いているものが、貪瞋痴の三毒を発しながら、酒を飲み、女色に溺れ、タバコを吸い、愚痴を垂れ、陰口を叩いている己を見つめて反省し生臭さを自認して懺悔しきり。これでは地獄に落ちると解っている僧侶に「アホかいな、そんなもん、捕らわれるな」と一言「非道を行ぜよ」と忠告したのです。これは危険物取扱の典型です。要注意であります。

貪欲を離れ

自分からは近づかないが、近づいてきたら離れる。これは人や物に対しての貪欲を通して、わが心の貪欲を離れなさいという慈悲の言葉であります。あの人を怒らしたら怖いから黙って置こう、と御機嫌取りをしているようでは、維摩居士に笑われます。処世術かもしれませんが、言いにくいことでも大事なことであれば言わなければなりません。唯々諾々、不承不承。これが驕りを増長してしまうことに、自分で気づかなければなりません。貪欲の中でも一番深いのが、自分がよく見られたいと望む心であります。そういう見栄や体裁をかなぐり捨てる。非道とはこの人間世界の常態であります。喜怒哀楽。こういう魑魅魍魎の中にありながら、染まらない、こだわらない、とらわれない。ここに現実的な修行があります。

諸々の感官をよく静かにたもち

全ての感覚器官を静かに保つこと。この具体的な方法は、姿勢を正し、呼吸に意識を向けることです。宮崎禅師は「一息一息しかないんや」と申されました。腹が立ったときには姿勢を真っ直ぐにして大きく息をする。感情が高ぶっているときは、短い呼吸になりがちです。酸欠にもなる。そうした今の心を見つめる。何にも捕らわれない。満月をイメージしましょう。静かに心の水にすむ月を見つめる。どんなに荒れていても波立っていても、自然に静かになります。坐禅や読経、写経はもってこいです。毎日の日課が、いざという時に遺憾なく発揮されます。自己と他己に静かに堂々と「怒るな」。

水送り水取りてから始まるや(月路)

福井県から奈良県に住民票を移しました。小浜の神宮寺から奈良東大寺の二月堂まで地下水脈でつながっているように全国どこにでも情報はつながっているようで、やはり人が出向き転出証明をもらって転入届をしなければ、住民票は移動できません。まあこれは考えすぎですが、住所移転は今まで何度も行いましたが、大変手間がかかりますね。あと郵便局と銀行への届け出とETCカード名義人の住所移転届けぐらいだと思いますが、これはネットで出来るのでタイミングを見て行います。今週は引っ越しがメインとなります。昨日、焼肉用の上等なお肉と、おいしいイチゴ大福を戴いたのですが、今日のホワイトデーに何かお返ししなければならないかと思いましたが、勘違いされても困るので、そんなことを考えていたら、道理でバレンタインデーに孫以外は誰も何もくれなかったと気づきました。「非道を行ぜよ」維摩詰の言葉が耳について離れません。

貪欲を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ493

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

後世に貪瞋癡(とんじんち)の三毒と呼ばれることになる貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てることが、煩悩の汚れ、すなわち迷いをなくす道(方法)であり、清らかな修行であると説かれております。この三毒はいずれも強力な毒です。人を殺傷することにつけてはサリンやVXに勝るとも劣らぬ力を秘めています。それは全ての人類が保有しており、それどころか人類の破滅にも至る猛毒中の猛毒です。先日の金正日氏の暗殺一つとってみても、権力の保持という貪欲と、権力に逆らう者への嫌悪と、権力の過信という迷妄に冒された暴挙であることは論を待たないでしょう。しかしこれは他人事ではありません。誰もがそうした毒を少なからずもっています。貪欲と嫌悪と迷妄。この三つのキーワードに当てはめれば、人々の言動が明瞭となります。ブッダ釈尊の透徹した眼は、この三毒を見逃すことなく鮮明に分類整理されたのです。

修行の中身

文字面をいくら研究しようが、仏典の解説を読み解こうが、実際に修行の中身であるところの本質を身体で理解していなければ、それは単なる知識で終ります。後世の仏教はあまりにも煩雑な理論のジャングルを育て上げ、知覚できないまでの膨大な仏教学を打ち立てました。そこに仏教徒はいません。さしずめ仏教学徒と申しておきましょう。理論や論説の中身を知ろうとせずに論法や技法に陶酔しているとしか思えない学徒たちが沢山います。呆れるほどです。皮肉を申し上げているのではありません。三毒を知っていたとしても、まさか自分の中にこの三毒が回っていることに気づかないでいたら取り返しがつきませんよ、と申し上げたいのです。これは特に自分に言い聞かせています。自己と他己のためにならない学問なら意味はありません。三毒に気づくための、またその解毒のための、一番効果的な修行は何であるか。何をすればこの三毒を捨てられるか。これを自分自身で決めておく。そして愚直に実行する。いわば修行の中身をどうするかが一番大事なことです。でなければブッダ釈尊一代の言説は自分にとって表面上のものになりかねません。教えを皮や肉を味わって終えるか、骨の髄までしゃぶるかであります。骨髄を得る。これは決して皮肉で申し上げてはおりません。ここが肝なのです。

春の雪淡く重たく伸し掛る(月路)

冬に逆戻りとまではいきませんが、ここ敦賀では雪が30センチも積もりました。朝起きてびっくり。昼過ぎにはずいぶん融けてやはり三月の雪だなあと感慨しきりです。昨日は市内の檀家さんに配り物をポスティングしておりました。狭い道路は除雪していなくてあちこちで立ち往生。おそらくノーマルタイヤに履き替えておられたんでしょうね。ここは不精の勝利でした。さて早木曜日です。明日は奈良に戻りますが、それまでにして置かなければならないことは、塔婆書と議事録。確定申告は来週住所移転後に奈良で行います。これ、このブログ、わたしの日記でもあります。悪しからず。

貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ469

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

469  偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく……――第四九四詩に同じ。ここに数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれと合致し、後代の小乗仏教の体系からは離れている。ジャイナ教では古来主な煩悩を怒り(koha=krodha)、慢(māṇa=māna)、いつわり(māyā)、貪り(lobha)を挙げるのが通例である(中略)。そうしてこの一組みは後代の文献にも継承されている(中略)。この四つは汚濁(煩悩 kasāya)と呼ばれている。修行者はこの四つを断じなければならないのである。なお第三二八詩参照。

以上註記より抜粋して引用した。

ではどうしたらこのように澄んだな水のような心に成れるのでしょうか。ここが今日のポイント(ブッダの声の透徹したところ)かと思います。後代に三毒と呼ばれまとめられることになる「貪瞋痴(とんじんち)」すなわち「貪り、怒り、愚かさ」は心の毒のようなものであると考えると、それはいつまで経っても消すことが出来ない煩悩ということになってしまいます。すなわち何かにすがって消してもらいたいと願う信仰に結びつき祈願に向うのです。

そうではなくして「わがものとして執著することなく」と述べられているように、我執に気づくことが基本です。我がものと思うからこそ、また自分というものにとらわれているからこそ全ての煩悩が生じるのであります。全ては空であると思い知ること。これが核です。本来は何も無い。五官によって感覚が生れ、自己中心的にものごとを捉えてしまっているのが現実です。あるがままを見ていないということです。自分勝手に悩んだり苦しんでいる、全ての原因です。この原因となっている考え方をあっさり手放してしまうことです。

そうしないと我執によって「怒り、慢、いつわり、貪り」の四つを断じることは永遠に為しえません。なぜ怒るのか腹が立つのか。なぜ驕り高ぶりが生じるのか。なぜ嘘をついたり騙してしまったりするのか。なぜに欲望が次から次へと生まれるのか。それは汚れて濁った水(汚濁水)だと分かってはいても、自分ではどうしようもできない。人間なんだから。そういう結論で片付けてしまいます。しかもその方がずっと楽ですし慰めになると本気で思っています。腹が立つのは全部人のせい、世の中のせい、だから戦わなければならないと真剣に憤っている。愚の骨頂です。

取り組むべきは空を知ることです。この世の現実は空であります。空を完全に自分のものにしたとき、一気に「偽りも、慢心も、貪欲も、欲望も、怒りも」全てが無くなります。そうした心が生じなくなります。生じませんから消す必要もありません。「心が静まり憂いという垢」も生じない澄み切った水のようになるのです。何を見ても何を言われても、たとえ棒で頭を叩かれようが鞭打たれようとも、穏やかな顔でおられるのです。腹が立たない。動じない。これが解脱の姿であります。蛇が皮を脱いでしまうようなもの。脱皮であり脱出です。自己からの解脱。無我ということです。

キリストも釈迦牟尼仏と成給う(月路)

昨日久しぶりに「ベン・ハー」を観ました。十字架を背負って丘に向って歩くキリストをローマの兵士が鞭打ちます。よろけながらも、地に倒れても、血だらけになって傷つきながらも、そのお顔は穏やかで澄んだ瞳をされていました。映画ではその顔を映し出しませんが、人々は驚くのです。そして悲しみます。ところがキリストは磔刑のまさに命終えんとするとき、静かに述べます。「父なる神よ、人々を許し給え。彼らは罪を知らないのです」と。

かれもまた人として生れた神であります。そしてわたしは「キリスト様もブッダである」とさえ思えました。数々の逸話はともかくも、わたくしというものが無い。超越とは超のつく能力なんかではありません。正に乗り超えたのです。人々の苦しみの原因がほんとうにわかっていたのです。それは空(くう)を知ったことに他ならないと思います。罪と表現しようが煩悩と呼ぼうが、それは文字の差程度のものです。言葉では表現できない「あるがまま」が空そのものであります。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ101

第一 蛇の章

<6、破  滅>

101 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
昨日は「うそをついてだます」ことについて述べました。明日は第六の破滅についてです。その前に、もう一度嘘について考察してみます。世の中は契約社会であり、契約は約束のことで、約束とは未来に生じる結果をあらかじめ予測し、互いの信義に基づいて、誠実にこれを守る取り決めといえます。
ところが、未来のことは誰にもわからないという事実に対する挑戦でもあるわけです。インド社会ならずとも、このような取り決めには、おのずと不履行を招く可能性があります。そこでこの不履行に対して違約条項や担保責任といったことも同時に約束しています。もし約束を破った場合には、このようにすると。しかしこれも未来における完全な担保となるわけではありません。
19歳の少年が養親である60歳代の夫婦を殺害した容疑で逮捕されました。これは最近の事件です。ご存知の方は多いと思いますが、わたしたちはこれをニュースで知って何故にと訝りますが、殺害したという事実を受け止められずに何故殺したのかという事情の方を詮索したがる傾向にあります。人それぞれに生まれてから今日までの体験・経験は全て違うという事実に対する挑戦でもあるわけです。事実に対する挑戦は、いたるところで平然と行われています。

うそをつくことは、愚かさからです。ひとをころすことは、怒りからです。おろかさといかりは猛毒中の猛毒です。仏教ではむさぼりとともに三毒と呼ばれています。これを普通の感覚で受け止めていては、大変な事実誤認につながります。なぜなら世間人間の問題はすべてこの三毒によるものであるからです。どうぞ確かめてみてください。核実験もミサイル発射も拉致問題も虐待も約束不履行も、ありとあらゆる問題がこの三毒によるものなのであるか否かを。

「破滅への門は何ですか?」と真摯に問いかけて下さい。ブッダは事実だけに光を当ててこれに応えられます。これが真実と呼ばれるものです。あとは全て妄想です。同情さえも感傷さえも感動であっても全て妄想です。意味がないことを考えたり思ったりすることは全て妄想であり、妄想を常に意識してこれを離れる。逆に、事実に注目して無常(ものごとは常に移り変わる)を常に意識して、今自らがなすべきことをなす。淡々と目の前のことをこなしていけば、なにも不安がないことをしっかりと伝えていきたいと存じます。

三毒ー怒り

三毒のうち最もおそるべき怒りについて

怒りはだれにでも生じます。

今日の天気は、とても穏やかでありましたが、

心の内は大きな波がうねっておりました。

夕方になってようやく夕凪のごとく静まってまいりましたが、

それでも悔しさを感じております。

悔しさは、怒り以外の何ものでもありません。

そう気づきながらも自身の正義感という得体の知れないエネルギーが

こんこんと湧き上がるのであります。

この原因は何だろうと目を閉じ姿勢を正して呼吸に意識を向けたとたん、

はっきりと聞こえました。ブッダの声が。

「刹那生滅(せつなしょうめつ)」と。

 

今日はお昼前に檀家さんの法事がありまして、

読経後の法話で生死(しょうじ)のお話をしたばかりでした。

なぜ人は死ぬのか、それは生まれたからだと。

 

1秒間に75回も生き死にを繰り返しているのが生物です。

もちろん人間も生きもの、なまもの。

今度ムカついたら、姿勢を正し、呼吸に気をつけ、目を閉じ眼を開こう。

そのための日々の練習が、坐禅であり、冥想ではないかと。

あらためてその練習の重要性にいたって

ようやく心晴れ晴れとしたのは日もすっかり落ちた

午後6時過ぎでありました。