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スッタニパータ470

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

470 こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
こころの執著をすでに断って……――『ダンマパダ』第二〇詩参照

 以上註記より引用した。

ダンマパダ(法句経)

20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。

参考に

19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。

とても耳に痛いブッダの声がします。今日はもうこれに尽きるでしょう。多く語りたくもありません。話せば話すほどに、修行者の部類から離れていく気がして、気が気でありません。

解脱の方法をいくら知っていても、禅の奥義を極めたと豪語している方よりも、わたしは一日にたった五分でも教えられたとおり実践している素直な人の方が、ブッダに近いと思いますし、現にそうでしょう。儀式にいくら精通していようが、坐禅の作法を誰よりも上手に説明できる人よりも、素直に、愚直に実践している人の方が解脱は速いと思います。立派なことを説いて、立派な寺に住み、お布施をたんまり懐にしている人を尊敬できるわけがありません。ブッダが真のバラモンと形式だけのバラモンと明確に区別されたように、誰だってわかっているのです。

禅というと何かことさら別にあると思う。そんなものは何もない。一息一息しかないんや。(宮崎禅師の声が聞こえます)今この瞬間に、たとえ五分でもよいから、佛の真似をする。一日だけやったらそれは真似や。ところが、一生続けたらこれは本物や。形だけの出家をして、それで満足しておったら、それは佛に近いように見えて、じつは遠い。さとりとか、涅槃とか、そういう言葉はあるけれども、考えたら、観念になってしもとるようでは、我慢やね。辛抱という意味の我慢ではなくして、わがままちゅうことや。わたくしというものがない。坐禅をしておれば坐禅。作務をしておるときには作務と一つになる。そういうわたくしの無い、自然の姿が修行であり、真理だ。

わが内なるブッダ。われら正法眼蔵の道元禅師。わが心の中の宮崎禅師。全ては黙って真理を実行することに尽きます。泣きたいときには泣けばいいし、嬉しいときには笑えばいい。悔しいときも、辛いときにも、腹がたっても、情けなくても、愚痴を吐いても、溜息ついても、自分は自分。自分だけが自分を忘れることができる。そういう日日の生活の中で、ひとり黙ってすわる。誰が見ておらいでも、佛が佛をすわる。なにもそこにはない。無いと思うこともない。空もまた無し。

空を見て空言うことなし雨雪よ(月路)

夕方に檀家さんから美味しいコロッケを頂きました。美味しいものは美味しい。美味しく感じているということです。これがたとえば最愛の人と別れた時に同じものを食べても美味しいわけがありません。それと同じです。自分を忘れて美味しく頂く。人の真心をそのまんま受け取れるかどうかです。こころを澄ますというのは洗面器の水のようなもの。洗面器を動かしただけで揺れるしこぼれます。見上げてごらん夜の星を。星はなんでも知っている。知りすぎたのね。お富さん。

↓付加された詩に遠い日を想い出しました。聴いて下さい。

こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

法句経

 

怨みは怨みによって果たされず

忍を行じてのみ

よく怨みを解くことを得る

これ不変の真理なり

    法句経(ほっくぎょう・ダンマパダ)五


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

紀元前五世紀ごろに

ゴータマ・ブッダ(お釈迦様)は、

インド北部の今のネパール南部に

シャカ族の王子として生まれました。

29歳のときに城を捨てて出家されました。

その後6年間にさまざまな苦行を積まれ

瞑想による禅定によって悟りをひらかれます。

そして悟りの内容を北インドを中心に

80歳で入滅されるまで

45年間、説法して歩かれました。

中村元 著 「ブッダ伝」より