タグ別アーカイブ: クシャトリア

スッタニパータ553

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

553「クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王として、人類の帝王として、統治とうちをなさってください。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

セーラ・バラモンのブッダに対する懇請が続いているのですが、なにゆえにこの様な場違いなお願いをされるのかという観点から解説を試みたいと思います。現実的な話をしましょう。いつの時代にも、どうしようもない無法者というのがおります。昨日の早朝、北朝鮮が弾道ミサイル一発を発射したとのニュースが流れました。国際社会の警告や国の厳重なる抗議、あるいは対話の働きかけ・経済的な圧力など何のその、淡い期待をあっさり裏切って身勝手な瀬戸際外交を展開しております。太陽政策と称したかつての戦略がいかなる結果を生んだかという過去の経験に何ら学ぶこと無く、またもや親北大統領を選出したお隣り韓国や石油を絞っても止めることが出来ない中国。自由主義でも民主主義でも共産・社会主義でもない封建テロ国家であることは疑いようのない国、朝鮮民主主義人民共和国。評論家の中には、こんな北朝鮮に対してさえ、小国の戦略としてやむを得ないという論調があります。あろうことか戦前の日本と同じだという馬鹿げた意見さえあります。そんな人々に言ってやりたい。ご自分の家族や友人が拉致されても同じことが堂々と言えますかと。少々熱くなってしまいましたが、「北朝鮮よ、突っ張るな」と申し上げたいのです。人の迷惑を一切忖度することなく、核保有国としての地位を認めさせようと、ミサイルを誇示し、またぞろ核実験を平気で行う方向であります。ISにしても同じです。手段や方法は違っても、過去に武力をもって覇権を確立し、あるいはテロ暴力によって国政の実験を握ってきた者共が、王と称し国を奪っても決して永続することはないのです。ところがその間に圧政によって多くの民が苦しむのであります。このような非道に対して、転輪王は武力に依らずして諸国を統一するというのです。世界の警察どころではありません。伝説の王の中の王、帝王、転輪聖王となれる人が目の前におられる。善政を敷き、仁によって国を治めて頂けるとしたら、(一人修行の道に進んでいないで)、どうかどうか転輪王となっていただきたいと懇願されたのでありました。現代では絵空事に聞こえるでしょうが、当時においては(当時においても俄には信じられないことでしたが)真剣な懇請であったことが伺われるのであります。

懇請に対するブッダの返答は明日以降明確になります。今日は一先ずセーラ・バラモンの真摯な祈りにも似た悲痛な叫びを我が事として受け止めておきたいと思います。すっかり慣れっこになってしまった「ミサイル発射」。確実に技術が向上していることは事実です。セーラさんならずとも、この世に「転輪王」がいてくれたらと望むのに無理はありません。過去の無数の人々の祈り、大いなる願いであったことを今一度噛みしめたいものです。

大放参おうぼうさん割りと元気で疲れなし(月路)

大きな法要の翌日などは、師匠から「今日は大放参」と申しまして、許しを得て四九日しくにち以上に修行を自由にできる日が設けられます。放参というのは、本来は夜坐や朝の暁天きょうてん坐禅をお休みすることを謂います。昨日は月遅れの灌仏会かんぶつえ(花まつり)でありました。あるお檀家様から大量のお花を頂いて、それはそれは見事でありました。たくさんのお参りをいただき有難く勤修ごんしゅういたしました。そこで今日は自分で勝手に大放参を決め込んでおります。疲れが無いとはいいませんが、自由というものは意外と元気になれます。自由だからこそ一層がんばれるのであります。今日からまた当ブログを再開いたしました。もう一つの言いたい放題のブログは、もう一日だけお休みします(笑い)。

「クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王として、人類の帝王として、統治とうちをなさってください。」

スッタニパータ418

第三 大いなる章

〈1.出家〉

418 かのクシャトリヤ(王)は、車に乗って行けるところまで車を駆り、車から下りて、徒歩で赴いて、かれに近づいて坐した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
車で行けるところまで車を駆り、あとは徒歩で登って行ったというのは、今日でも王舎城の周囲の山々についてそのままあてはまることである。今日でも麓までは自動車で行くことができるが、ある地点から先は徒歩で登らねばならない。

以上註記より引用した。

釈尊より五歳若かったとされるビンビサーラ王ですが、相手は一修行者であり、こちらは一国の王様であります。王の治めていたマガダ国は破竹の勢いで勢力を拡大しつつありました。王自ら出向いて傍らに座るなどということは当時でも異例のことであったでしょう。

昨日は天皇誕生日でした。わが娘の誕生日でもあるので殊の外おもいがあります。お言葉を聴きながら、なんと神々しいのであろうかと率直に思いました。一般参賀にも例年より多くの方が集まりました。「王法不思議、仏法と対座す」。日本の王様である天皇は、インドで言えばクシャトリアといえるでしょう。祭式を行い国民の安寧を祈られておられるのですから、バラモンというべきかもしれません。ともかく日本の象徴として輝いております。

神と佛。日本では最初に神がいまし、ついで日本に仏教が伝わるとたちまちにして仏教が国教となりました。これは紛れもない事実であります。聖徳太子の十七条憲法の第一条はむろん「和をもって貴しとなす」ですが、第二条には「篤く三宝を敬え」と続きます。日本では古来より神仏を仰ぎ、何の矛盾もなくこれを踏襲しております。今日はクリスマスイブ。キリスト教をも包含するかのような寛容性が日本の風土にはあります。まさに和をもって貴しとなしているのであります。それは足し算の「和」であります。

「和」を「なごみ」と呼びます。平和というのは、平素から和合している状態を指すのであるといわれます。どのような腹立たしいことがあっても、柔和であるということです。何をも受け入れる寛容性。天皇が神々しく輝くのは、この和みを実践されておれれるからでありましょう。

昭和天皇の御歌に「身はいかになるとも 戦(いくさ)止(とど)めけり ただ倒れゆく民を思いて」とあります。マッカーサー元帥と並んで撮られた写真をみるとき、胸が張り裂けそうになります。昭和から平成へと時代は移りましたが、この年号ひとつとっても、民の幸せを願う心が込められているように思えてなりません。これが慈悲でなくてなんでありましょうか。よき国に生まれ、よき年を重ね、よき人と出会う。今の幸せを感謝いたしております。

かのクシャトリヤ(王)は、車に乗って行けるところまで車を駆り、車から下りて、徒歩で赴いて、かれに近づいて坐した。

スッタニパータ417

第三 大いなる章

〈1.出家〉

417 使者のことばを聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は壮麗な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

クシャトリアというのはカースト制度における王族階級のことです。ゴータマ・ブッダもビンビサーラ王もともにクシャトリアでありました。日本で言えばさしずめ貴族と武士を合わせたような階級でありましょう。ここでは王のことを指してクシャトリアと呼んでいます。

さてもビンビサーラ王の決断は速く、使者の報告を受けるや直ちにゴータマに会いに行きました。君子たるもの会議に諮るべき事柄以外は、即断即決を宗とすべきであります。一国の主人がもたもたしているだけで、全てが停滞してしまいます。これを分かっていない者がトップにいるだけで大いなる損失を招きます。と、これはあくまでも私見ですが。

暖冬に なるとの説を 聞き流し (月路)

さて、昨日まで京都や福井で仕事をしておりました。僧侶の仕事は、法要・法事と法務あるいは檀務、作務などに分かれますが、大事な仕事は何と言っても修行であります。否、僧侶の仕事は全て修行とも言えます。

人の話を聞くのも修行であります。が、実にこれが一番根気のいる修行であります。人の話というものは、自分が聴いておるわけです。自分の観念で、あるいは見解で持って人の話を聞き、また話すわけですが、この時の顔の表情に時折自分でもびっくりするような反射神経が通います。

要するにそれは、怒りや愚痴や非難なのですが、こちらはどうやって対処したらよいか、本当に困ってしまうことがあります。その人は、「私の前では貴方の陰口を叩き、貴方の前では私の陰口を叩いている」と言うのです。悪口や陰口は、厳しく戒められているのにもかかわらず、自分は一切悪くないのであります。そのことばかりの話です。いい加減にしなさい。と、言ってあげればいいように思いますが、そう言えば決まって、あの人のかたを持つのかと反論されます。

困ったものです。あの人がああ言った。この人がこう言った。そういう目くじらを立ててばかりのひとに、どんな優しい言葉も届きません。聞こえません。聞く耳を持たんというわけであります。反面教師にすれば、と水を向けても、相変わらず相手が完全に悪く、自分は全くの正義、善人なのでありました。

そういう三日間を過ごしましたが、お寺に戻ってもそれは同様です。口に出すか出さないかは別として、人間は愚かだなあと、改めて強く感じました。かく言う私とて同じです。三毒で麻痺しているのかもしれません。そういう日常をスリッパ一つまっすぐにすることで、あるいは掃除片付けを徹底することが、わたしにとって今一番必要な心構えであると、あらためて、しみじみと思っています。

宮崎禅師様の言葉が今更ながら胸に突き刺さります。

坐禅ということは、真っ直ぐということや。体を真っ直ぐにしたら、心も真っ直ぐになる。自分が真っ直ぐになったならば、環境を真っ直ぐにしなくてはならない。そういう勇気が坐禅だ」 (「坐禅をすれば善き人となる」 石川昌孝著より引用)

使者のことばを聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は壮麗な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。