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スッタニパータ622

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

622 ひも革帯かわおびを、手綱たづなもども断ち切り、
門をとざす障礙しょうげ)を滅して、目ざめた(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
紐――nandhi;v.l.,nandi.結ぶ性質があるので、怒り(kodha)を紐にたとえていう(パーリ文註解 ad Dhp.398)。

革帯――varatta.縛る性質があるので、愛執(taṇhā)を革帯にたとえていう(パーリ文註解 ad Dhp.398)。

綱――sandāna.六十二の誤った見解(dvāsaṭṭhidiṭṭhi 六十二邪見)を綱に譬えていう。

手綱――anukkama.ひそんでいる煩悩(anusaya)を手綱にたとえていう。

門をとざす閂――paligha=Skrt.parigha(cross-bar,Torbalken).rがlとなっているのも、古代東部インド語の痕跡である(Luders:Beobachtungen,§130)。無明(avijjā)のことをいう(パーリ文註解)。
目ざめた人――buddha.パーリ文註解 (ad Dhp.398)には四諦の理をさとった人と解しているから、崇拝対象としての仏ではなくて、真理をさとった人というほどの意味で、用法としてはジャイナ教など他の諸宗教と共通である。また後代の仏教教学によると、四諦の理をさとるのは小乗の声聞の道であるにすぎないとされていたのに、ここのパーリ文注釈には、四諦の理をさとることによってブッダとなり得ると説いているから、初期の仏教思想がまだ注釈のうちにも保存されていたのだと解し得るであろう。

以上註記より引用した。

(なお、四諦の理については、『遺教経』などに明確に釈尊の言葉として出てきますから、大乗仏教においても最も重要な教えとされていることに変わりありません。)

スッタニパータ88

第一 蛇の章

<5、チュンダ>

88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
理法にかなったことば――dhammapada(=nibba-na-dhammassa pada)と註にあります。
ダンマパダは漢訳で法句経のことであります。最古層の仏典のひとつです。ブッダが実際に話された言葉に最も近いとされています。ブッダが話された言葉は専門用語ではなく当時の社会で一般に使われていた言葉で、真理すなわち理法にかなった道(人として生きる方向と方法の教え)を説かれたのであります。わたしたちはまず、この第三の道によって生きる者でありたいと存じます。
「理法にかなったことばである道」のことを、後に、仏道といい仏法(真理)と呼びました。単に仏教すなわちブッダの教えと言い換えてもよろしいかと存じます。この教えを黙って実行する人が仏教徒であり修行者であります。この修行者がこの教え(法)と自ら(自己)を明かりとして暗闇をすすんでいくことを、漢訳で「自灯明・法灯明」と呼びます。自ら制し、落ち着いて気をつけていて、咎のない言葉を奉じている(使っている)人であり続けたいと切に望みます。世間はまさに暗闇の中で蠢きあっているとしか言いようのない状態なのですから。