タグ別アーカイブ: ナムチ

スッタニパータ449

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
夜叉――yakkha.ここでは悪魔のことをいう。

以上註記より引用した。

この詩句が本節の最後を締めくくります。精勤(精励)経と呼ばれるこのお経は、修行の本質を解りやすく今に伝えています。

悪魔の軍隊である烏たちが飛び去ったあとにナムチ(悪魔)だけが一人残ります。かれはブッダの側近くにいました。いつもつきまとっていたのです。その彼が一番大事にしていたものが琵琶でした。奈良の正倉院にもインドが発祥とされる四弦の琵琶が残っております。雅楽にも琵琶がありまして、その音色は哀愁のこもった、それは幽微な音色であり、いつまでも響くように感じられるのでございます。

かれナムチは、何よりも大切なその琵琶をいつも脇にかかえていたのですが、ふと、その琵琶を落としてしまいます。それからその場すなわちブッダのそばに消えてしまいました。このことが何を意味しているのかが大変重要な点であろうと存じます。

最後の一戦を勝ち抜くこと

あらゆる悪を討ち滅ぼし自己に勝利したブッダでしたが、最後に残ったものが只一つだけありました。それが何であるかといえば、自己にある主観であります。主観というのは客観に対する主観の意味ではありません。到達した境地のことです。すなわちブッダ釈尊に限っていえば悟りの中身です。仏教は仏陀の悟りの内容を伝える教えではありません。悟りを開かれたと一般に表現しますように、さとりを開放されたのです。

さとりの深淵な中身を人に伝えるのが目的ではなかったと気付き、その結論であるところの精励であること、その他じっさいに人々に役に立つ方法そのものを教えられたのです。真理をそのまま言葉で伝えることはできません。またそれは意味が無いのです。知識を教えたのではなく、智慧を教えられたということです。

中村元先生は、「琵琶がパタッと落ちた」と訳されています。はたと気づかれたのではないでしょうか。握りしめているものや、つかんで離さないものを離すのは並大抵なことではありませんが、ふと力が抜けたときに、あっさり手放すことができるものです。

ナムチの強力な心髄は、まさしくこの最後の執着であるところの主観でありました。自らの信念といってもいいでしょう。あふれるほどの自己の見解の中でも、ひときわ光り輝く中心的コア(核)の部分、自己を自己足らしめている本質の部分を、簡単に捨てられるかどうかであります。戒経、戒めの経の最後にいわく・・・

他の人は自らの主観にとらわれ、しがみつき、捨てられないでいるが、私たちは自らの主観にとらわれることなく、しがみつくことなく、簡単にそれらを捨てられる。このように戒めることができます。

ここにブッダ御自身の中にいたナムチは完全に消滅したのであります。これがブッダ釈尊の降魔成道の最後の瞬間でありました。

最後の戦い

悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

スッタニパータ442

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダ釈尊が坐禅している周りに旗を翻した悪魔の軍勢が取り囲みます。悪魔の総大将ナムチが王の象徴である象にまたがり勝ち誇るようにして陣触れを発します。最後の総攻撃が開始されました。

「立ち迎えて彼らと戦おう」とありますが、ここでは実際に立ち上がって戦うのではありません。一歩も退かないという意味であり決してその場を動かないという不動の決意であります。

降魔成道とは実際に何をしたのか?

降魔成道といわれるように成道に降魔という言葉がついています。この降魔は文字通り悪魔を降したという意味ですが、文献によれば触地印あるいは降魔印といって右手を地面につけている像がたくさん残っておりまして、その降魔の様子が克明に描かれています。わたしの家の仏壇にも降魔成道の釈尊像を祀ってあります。この触地印(そくちいん)ですが、なぜ地面に触れているのかが、長い間疑問でありました。いわく悪魔よ地獄に戻れ、地にひれ伏せよ、あるいは大地の神を出現させといった解説もされるのですが、いずれも神話的であり、どこか釈然としませんでした。

決してこの場を離れない不動心

その答えが「私をこの場所から退けることなかれ」という言葉でありました。結跏趺坐しながら左手を上に向け、右手を地面に触れているのは正しくこの場を退かない、すなわち誘惑に負けないことを指し示しているのではないでしょうか。やってみるとわかりますが、この釈尊の教えが身体で再現されるのです。坐禅の最中にも、ありとあらゆる妄想が襲ってまいります。その妄想を断ち切るべく、たまには触地印をいたします。神秘的ではありますが、そのとき、すっと妄想から抜け出すことができます。密教の不動明王(お不動様)はこの降魔成道の説話から象徴的に祀られていったとする説もあります。不動尊とも無動尊とも呼ばれる所以かと存じます。さりながら……

言葉の観念だけでは理解できない

仏教を学ぶにつれ、だんだんと仏教概念が頭のなかに張り付いてまいります。さまざまな仏教知識が知らず知らずのうちに思想を展開していきます。何もそれを全否定するわけではありませんが、言葉による観念で空腹を満たしていると、すぐに飽きてきたり、どこかに真理が埋もれているような気がして探し求めるようになります。答えはどこにも見つかりません。それでも師を求め、あるいは道を求めています。ところが簡単な実践を行うだけで、言葉では言い表せないような発見があるものです。やってみること。やり続けること。やり遂げること。坐禅は釈尊の成道の姿であることは申すまでもありません。

二十二年 正月中旬 かの地震 (月路)

今日は1月17日、阪神淡路大地震より22年経ちました。生まれた赤ちゃんが22歳。わたしが40歳のときのことでした。妻はもう起きていました。二階で寝ていたわたしは、あまりの衝撃に家が壊れるのではないかと、火は大丈夫かととっさに階下へよろけながら降りていきました。

地震。家が縦に揺さぶられるようでした。家族は全員無事。200キロ以上も離れた場所で震度5、震度7というのは想像を絶します。高速道路が倒れ、ビルが倒れ、火災が発生。すさまじい映像に息を飲みました。あれから22年。あれから22年が過ぎました。しみじみ、速いものです。

地震になれば誰もがじっとしてはいません。じっとしては居れないでしょう。地面が動くのですから。地響きを上げて怒涛のごとく攻めてくるナムチ軍にブッダは静かに右手を地面に触れました。その時に大地が裂けるような地震が起きたのでしょう。その大地震によって、すべてのナムチ軍が地割れの中に落ちていくなか、ただ一人、ブッダは坐禅したまま動きませんでした。動揺しなかったのです。

軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

 

スッタニパータ441

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ナムチの軍隊に埋没してしまって姿の見えない修行者とバラモン。欲望を先陣とする数々の軍隊にすっかり滅ぼされた者たちは、もう修行者でもバラモンでもない。それで姿が見えない。攻撃に破れ沈み消されてしまったわけであります。

なんとも凄い言い方ですが、結局ナムチ軍に勝てるものはほんの一握り、いや勇者というのは全く稀有であります。これは現実をありのまま表現しているのでありますから誰もこれを否定しえません。

修行などと軽く口にも出せないのか?

後に仏教は聖道門と浄土門に大別されることになります。私はこの分類にはほとんど意味がないと思っておりますが、とにかく自力と他力といった考え方が現れることになります。そもそもブッダ釈尊は自力や他力どころか、そういう仏教的なことは何も仰っていないのです。ブッダの話を聞いた人が、私はこのように聞きましたという話を体型的に分類整理していったものが後代に仏教として伝えられたわけです。それを否定しようというのではありませんが、肯定しすぎると的が外れていきますよということだけは申し述べたいと思います。

今日の詩句だけを見れば、欲望や妄執などに打ち勝てる者はほとんどいないのが現状なのですが、それでは修行に意味が無いのかといえば、それは全く違います。爪の垢でも煎じて飲めばよろしい。完全な人など居ないというのは事実ですが、完全なものを求めているのも事実です。だれだっていい加減な人間を信用しないのと同じことです。素晴らしい人がいる。そういう人が現実にこの世に居た。それだけでも救いであります。宗教はそういう完全な人、あるいは絶対的な存在に帰依したいという欲望であります。それは一言でいえば幸せになりたいとか幸せでありたいといった純粋な希望でありましょう。

聖道門というのは悟りの仏教、これを自力といっています。浄土門というのは救いの仏教、これを他力といっています。この分類に意味が無いと思うのは、悟りも救いも自力も他力も分ける必要がないと思うからです。たとえば南無阿弥陀仏と念仏するのは自力であり他力であります。念仏をお唱えするということ自体が自力ですし、それで救われるのですからこれは他力である。坐禅や唱題とて同じ。やらなければ何にもならないし、決して自己満足ではないでしょうし、坐禅や唱題をしたからといって何にもならないなら誰もしないでしょう。

全て意味はあるのです。ただわからないだけです。真理がわかったということは何も解っていない証拠です。わかるわけがない。そう思って正解。小難しい理屈や妙に説得力のある解説に少し気分がよくなる程度だと思っておきましょう。自惚れや他惚れ?に気をつけましょう。徳行ある人々の行く道というのは、いわゆる天上、極楽、お浄土への道のことです。そうした道も知らない、知っていない、知ろうともしないナムチの下僕になるなと申されております。しかしナムチは知っているのです。だからそれを断念させようと躍起です。

一つでも 貫けば善し 寒の入り (月路)

ブッダのように完全を貫くことは無理です。しかしながらブッダの爪であるところの優しさ、慈悲のかけらでも実行しましょう。それだけでも凄いことなんですよ、実際。謙遜というのは、自分を小馬鹿にした言葉ではありません。こんな私でも何か出来ることをさせてもらいたいという謙虚で慎ましい姿勢と態度であると思います。うちの檀家さんで、金銭的には何も出来ないと言われつつ、奉仕作業に朝早くから熱心に取り組まれる方がおられます。頭が下がります。指先の感覚がなくなるほどの冷たい水で洗い物をされている姿。人が見ていないなか神社の落ち葉をかき集めておられる姿。いつのまにか、お地蔵さんに供えられている野に咲く花。観音様に供えられていた十円玉。どれも真心。これが信心。年いったのでしょうか、やたらと涙もろくなってきました。不言実行。徳行。やっぱいい言葉やね。

或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

スッタニパータ439

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

439 ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
黒き魔――悪魔ナムチのこと(kaṇhadhamma-samannāgatattā Kaṇhassa Namucino…….Pj)。

以上註記より引用した。

ナムチの軍勢にすっかり滅ぼされた防衛軍の中で、果敢に戦いを挑む勇者が残っております。いつの時代にもナムチの強力な悪魔の帝国軍に、命を顧みず戦いを挑む勇者がいたからこそ、今の時代にも確かにブッダ釈尊の教えは伝えられてきました。それはお話として伝わってきた部分もあるのですが、実際に戦い続けてきた人々もたくさんおられました。彼らは命も財産も名誉も捨てて、この戦いに挑みました。勇者でなければナムチ軍には勝てないのです。ナムチという語感はどこかナチスと似ています。

ナチスは人々の熱狂的な支持を受けていました。ナムチも人々の圧倒的な支持を受けています。今のスマホゲーム全盛。昼間のカラオケやゲームセンターは老人だらけ。どこからみてもナチスならぬナムチに征服されきっているように見えるのは私だけでしょうか。

ブッダの教えを学問や趣味として学び楽しんでおられる方はたくさんおられますが、仏教を実践している人はどれだけいるでしょうか。きょうは14日です。あすは小正月、むかしは成人の日でした。大人の子供たちを尻目にいざ参らん。私事ですが、もし順調なら今日は敦賀を発って帰路についているはずです。が、命はわかりません。三日分も固めて記事を書いて予約投稿なるものにしております。

仏滅や 明日も分からぬ この命 (月路)

こうして記事を書いていると、時間の経つのを忘れます。ふと気がつけば二時間三時間過ぎているときもあります。ふつうは一記事一時間と決めているのですが、この間にもナムチの軍勢はやってきます。ナムチを意識しなければナムチに勝てるはずがありません。そんな時の呪文が「無」です。呪文と言うと勘違いされるかもしれませんが、これは坐禅のときに妄想軍がやってきますので、「無」「無」「無」「無」とやるのですが、この単純な語が意外といいのです。口に密呪なしといわれていますが、無だけなら呪文とまではいかないでしょう。モンキーシンキングを撃破する鉄砲のようなものです。もちろん声に出しません。機関銃のように「無」「無」「無」。

ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。

スッタニパータ433

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
この風――苦行による激しい呼吸。

専心している――pahitattassa,つとめて自己を専注すること。

以上註記より引用した。

激しい呼吸をしていると手足が痲れてきます。一般には過呼吸というもので、荒行の一つです。血液がアルカリ性に変わり、血液中の酸素の量が増え二酸化炭素の量が減ります。たちまちには死に至らないようですが、動悸、息苦しさ、眠気、激しい耳鳴り、悪寒などに苛まれます。河水の流れというのは血流のことです。血流が涸れるというのは、心臓の鼓動が止まる、すなわち死を意味します。何もそこまでと、ナムチならずとも思ってしまいますが、なぜ荒行を重ねたのかという理由が次の詩句からつぶさに述べられていきます。

ひたすら専心しているということは、道元禅師の言葉を借りれば「只管打坐(しかんたざ)」ということです。ただひたすらに坐禅に打ち込む。昨日添付しました釈迦苦行像をみれば一目瞭然です。背筋を伸ばし、何が起ころうとも心を動かさず、ひたすら結跏趺坐している。骨と皮ばかりになりながら、何も食べず、飲まず、荒行中の荒行である坐に徹しきっておられます。黙って、じっとしているほど辛いことはありません。安楽の法門といわれますがそれは後世のこと。足が痛くなるのを通り越して、足の皮が腐り出します。肩が凝るのを通り越して、血が真っ青に固まってしまいます。何度も心臓が止まるのがわかる。

一番の難関が眠気との戦いです。睡魔が襲ってまいります。この大軍は遥かに強力な戦隊であります。矢継ぎ早に襲ってきて苦しめます。一人で坐禅をするとわかるのですが、空腹とか喉の渇きや足の痛み、肩の辛さや、腰の重さとは比べものにならないほど、眠気には負けそうになるものです。怠惰と対極にあるものが精励ということです。怠惰は悪魔と同義です。ナムチの軍勢は、あの手この手を使って苦行者ならずとも精励している者を滅ぼそうと手ぐすね引いています。少しの隙きをついて怒涛のごとく押し寄せる大軍勢に、ほとんどの人々はあっさりと陥落してしまうのであります。

暦みて 吉祥なるか 初薬師 (月路)

昨日まで初祈祷の御札などと一緒に「吉祥暦(きっしょうれき)」というものを配っておりました。一枚広げて見たのですが、江戸時代に流行した昔ながらのもので、今風にいえばカレンダーなのですが、本だとどこかへしまい忘れてしまいますが、壁に貼っておくと何かと便利です。古希まであと六年。えらい年寄りになったのかなあと思わずにはいられません。昭和32年生まれの人が今年は還暦ですよ。感慨深いものがあります。自分では今でも青春だと思ってはいますが、だいたい考えることや思うことが年寄り臭くなってきたことは確かです。そうは言ってもわたしにも目標というものがあります。そうそうナムチ君とつきあってもおれません。今日は初薬師。薬師如来は無明という病気をなおす仏さまです。大乗仏教が御利益信心みたいに思われている向きもありますが、無明すなわち迷いを捨てる薬は自身の精励(はげみ)以外にないことを改めて教えてくれています。

↓朝の爽やかさと同じ爽快な気分になりました。吹石一恵さん風?

(はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

スッタニパータ431

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

431 わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダその人に棲んでいた悪魔ナムチは、人々が求める輪廻を目指すように執拗に勧めたのですが、ブッダは耳を貸そうとはしませんでした。人々が求める輪廻とはいうまでもなく善所に生まれ変わることです。「ええとこに参る」つまり極楽往生というものです。悪道に落ちずに天界に昇るもしくは人間界に戻ってくることを意味しています。ブッダ在世当時にもこうした輪廻思想は既に人々に敷衍しており、釈尊もそれ自体は否定されなかったと言われています。ブッダ釈尊は、その輪廻からの脱出に挑んだわけです。出離から解脱へ、そして涅槃と呼ばれる完全な自由を求めていたのです。

人間であれば、およそ誰も果たしていない未踏の地、それは輪廻という縛りからの開放であります。世界は空であります。実態はあるようで無い。無いようで有る。それは形而上の言葉で表現すれば、眼や耳などの感官によって得られる感覚によってのみ掴んでいる実態のない世界に実感をもって実在しているというようなものです。ああややこしや。そこにあるのは、パソコンやスマホの世界の中のような電子的な世界と同様に、一定の摂理によって世界が構築されており、だれか絶対的な存在が支配しているわけではなく、互いの緻密で綿密かつ膨大な無限ともいえる連鎖、ネットワーク社会の中に生きているということなのです。さらにややこしい話ですが、一言でいえば色即是空。受・想・行・識またかくの如し。

なにはともあれ多くの人は生かされているわけです。それを有難く受け取って、できるだけ善いことをして、輪廻の法則にしたがって生を全うし、心安らかに天上界に生まれ変わりましょうというのが、ナムチくんの誠心的な勧誘であります。こう書くと、非難轟々かもしれませんが、般若心経に書かれている大意は、無と空です。ナムチ君の勧誘に乗っては、またこの辛い輪廻をぐるぐる廻って、時には地獄に落ちたり、時には餓鬼や畜生に身を落としたりしながら、人間のときには喜怒哀楽。天上では極楽気分に浮かれ、ああ知らないよ。そうやって無限の連鎖社会に生きて死んでまた生きて死んでいく。

猿沢や 起きては巡る 輪廻かな (月路)

今朝は奈良のビジネスホテルにて目覚めました。善業の功徳を説くものをナムチとブッダは呼んでいます。仏教の本質は、既存の宗教観にない危険な思想だと思われるかもしれません。ここだけを切り取ったら確かにそうでしょうが、これはあくまでも輪廻からの解脱を求める修行者に対するものです。ここに述べられていることは、偽りのない真実であって、多くの人々にナムチが訪れることはありません。なぜならばナムチが囁くまでもなく、人々はその善業さえ求めようとしないのですから。

わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

スッタニパータ430

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

よく「善業を積む」という言葉を聞かれることと思います。善業とは「よい果報を得る因となるべき行為」とされています。善因善果、悪因悪果と申しますように、善いことをすれば善い結果が生じ、悪いことをすれば悪い結果が生じるという道理を説いたものです。これを真っ向から「怠け者」呼ばわりするのですから、ナムチもさぞや面食らったことでありましょう。世間でいう善業は、一般に汗して働いて稼いだお金や財産を寺院などに慈善として寄付したり、労働力を提供したりすることを指します。お布施とかお供えと呼ばれるものの類です。そうすることによって次の生では善所に生まれ変わるという輪廻思想が背景にあります。また五戒を守り、十善などのよき行いをすることも、善業とされています。これはこれで普通に善いことなのですが、修行中のブッダにしてみれば、見当違い、的外れもいいところであったのです。

ナムチは善業を求めてブッダのもとにやってきました。彼が求める善業を、ブッダが素直に積んでくれたら彼の目的は成就します。それは普通に善きことを行い、つまらない苦行を断念してもらうことにあります。仏教での悪魔はキリスト教などのサターンと違って、人間の内面に巣食う悪意や怠惰などを指します。ナムチはさしずめ内面の意思のうちで、常識的な考えの象徴でありましょう。ですからこんなに強力な悪魔は他にいないのです。適当でいいのだよ、決して無理をするものじゃない、体を壊すよ。これはどこからどう考えても正当と思われます。至って常識的な考え方であり、誰の心にも存在する正常な心理かと思います。

しかしながら、もし、ナムチが勝っていれば、この世に仏教は存在しておりません。その理由がこれからのブッダの言葉で明瞭になります。今日は、ゴータマ・ブッダと悪魔ナムチの戦いの始まりを告げるゴングが鳴ったようなものでしょう。ブッダは、常識的な考えを「怠け者の親族、悪しき者」と一刀両断に切って捨てます。ごちゃごちゃ前置きを述べません。怠け者と同類だと決めつけます。良い悪いで言えば悪いと明確に断定されます。

子も孫も 皆居なくなり 湯豆腐し (月路)

正月も早五日です。あっという間の年末年始でした。正月の配り物が半分済んで今日からは市外に出向きます。正月三が日の初祈祷の御札などをもって檀信徒宅を廻るのですが、昨年のお盆の棚経に初めて寄せて頂いてから半年近くも経つと、お家の場所が思い出せなくてウロウロしてしまいます。その内に慣れるのでしょうが、だんだん記憶力が減退していることを痛感する今日この頃であります。それにしても春のような穏やかさに恵まれありがたかったのですが、今日からは冬将軍再来ということで気を引き締めております。ナムチに負けそうになりますが、もう一息、頑張ってまいります。いつも日記のつもりのブログにお付き合い頂きありがとうございます。どうぞよろしゅう。

かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

スッタニパータ429

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

429つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ナムチの最後通告は、説得力に満ち溢れています。けだし「行き難く、行い難く、達し難い」とはあっぱれな言いようであります。この「行き難く」というのは、原語でduggoですから難路つまり赴きにくいほどの意味です。ようするに努め励む道は、歩み出すことも、歩み続けることも、到達することも困難であると言っているわけです。これは一般的かつ現実的な理解といっていいでしょう。

ナムチ君は、人間の本質を充分理解しています。普通の人間はイチコロでありましょう。「精励」と口でいうのは簡単ですが、なかなかどうして出来るものではありません。彼に説得されたら私などは「その通り」と思わず膝を打っていたに違いありません。彼はブッダの傍らに立っていました。坐って修行しているゴータマ菩薩を見下ろし、どうだと言わんばかりで勝ち誇るように立っていた。そんな情景が手に取るように見えます。多くの人は自分を基準に物事をとらえます。陰口にしても面と向かって話すことも、全部自分が基準です。善いことをしようとしていても、悪いことをしていても、常に「やめておけ」なのです。自分を高い棚の上にあげて、偉そうに物知り顔で語ります。上から目線ぐらいは可愛いものですが、良い人なんて世の中にはほとんど居ないのが現実です。強いて申せば、ほんのわずか良いところもあるのが実態です。他人の悪口を言う人は、決まって付け加えます。根は悪い人間じゃないんだけどね。当り前です。根っからの悪人なんてそうざらにはいません。悪魔と呼ばれているナムチ君を見てご覧なさい。彼ほど人間らしい奴はいません。馬鹿正直者です。

今日からが 仕事初めの 世間なり (月路)

こんな記事を書いていながら言うのも変でありますが、人の悪口や陰口を聞いた時あるいは面と向かって罵倒されたときや注意されたときに感情を顔に出さないでいられる人をある意味尊敬しているのですが、鉄面皮ならともかく、ポーカーフェイスで微笑んでおられるほど人間は出来ておりません。いわゆる我慢や忍耐というものは限度があります。テメエ何様だと思ってるんだ。お互い様。だとは思いますが、何を言われても腹が立たない人間はもう人間じゃありません。腹の底では怒っているのに顔に出さないのならまだしも、この感情をコントロールする術というものを身に着けなければならないのが、昔からのわたしの課題です。

そこで効果的なのが、「こだわらない、とらわれない、カッパえびせん」という呪文です。昨日やってみました。こころの中で。何もカッパえびせんが好きなわけではないのですが、思わず心のなかで笑って済ませます。考えるまでもなく、どうでもいいことですし、他愛のない人間が相手です。ブッダには遠くおよびませんが、ナムチかキムチか知りませんが、一々反応するほどの相手ではありませんから、適当にうっちゃっておけば宜しい。虚心坦懐。こころに何のわだかまりもないこと。泰然自若。なんでもいいのです。およそ宇宙規模で考えたら塵にも満たない。永遠の時間感覚で100年もすれば、みんな骸骨。よき隣人。かわいい人ばかりです。そうやって人間やってる。友達。すべて許してしまえる。書きなぐっておりますが、だれかの参考になればと思っています。どうか、クダランことで、いまある命を捨てんで下さい。そう、こころから願っています。一おっさんより。涙。無。

♪がいこつが、まじめな顔して、こう言った。どうせ、みんなみんな、くたばって、おいらみたいになっちまうんだから、せめて、命のあるあいだ。つまらぬことにクヨクヨしないで大事に大事に使っておくれよ、一度しか無い、おまはんの命♪ 岡林信康。骸骨の歌より。

つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。

スッタニパータ428

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし……――ここでは独身の学生として師のもとでヴェーダ聖典を学習する第一の時期と、次に家に帰ってから結婚して家長となり祭祀を司る第二の時期とに言及している。いずれもバラモン教の律法書に規定されていることであり、その規定を守るべきことを、ここで悪魔が勧めているのである。
 
供物――火を燃やして、その中に牛乳、油、粥などをそそいで火神を祭ることをいう。
  
以上註記より引用した。

ナムチは手強い。この詩句で悪魔ナムチが説いているのは、当時のバラモンのあるべき姿そのものです。これは四住期と呼ばれるアーシュラマ(āsrama)の前半の学生期と家住期について述べたものです。現代日本で言えば、神職や僧侶の学校で勉強し、つぎに神社や寺院に戻ってそれぞれの祭祀を勤めなさい、それが多くの功徳を積むことになりますと従来からの規定を守っていくことを強く勧めています。

また、坐禅や様々な苦行に励んだところで、それが何になるのかと常套文句で迫ります。よく言うではありませんか。心のこもった供え物をしてありがたい儀式を行って祈祷しているほうがよほど人々の心の安寧になる。人はそれを聖職者に望んでいるのだから、それが君の仕事なんだから、黙って先輩の言うとおりにしておればいいのだよ、と。お叱りを受けるのを覚悟で、ややひねくれて申し上げておりますが、それが世間の常識であり、修行者からすれば、悪魔ナムチのことばです。

初の付く 言葉に飽きて 三が日 (月路)

自分のために修行(坐禅)をする。これもまた観念であります。ブッダのこころを突き動かしたものは、そういう世間並みの修行ごっこではありません。使命感。これもまた違います。こんな気概では、おそらく六年も七年も一刻もたじろがず修行し続けることなど到底無理であったことでしょう。では何か。これが今日のテーマだと思います。出離あるいは解脱という言葉で説明するほかないのですが、この世のどうでもよいことに囚われている世間と自分、この世のどうでもよいことに拘っている世間と自身に、気がついたのであります。

テレビでもネットでも世間の人々や社会を観ていると、朧気ながらその輪郭が見えてまいります。あまりにも妄想を繰り広げ、執著に執著を繰り返している現状をつぶさに観て、飛び出した。抜け出した。脱出した。では何をしたのかといえば、猛烈な修行だった。解脱したい。純粋にそう願った。シンプルにこの世から脱出したい。それは当時の求道者に共通する目標でありました。現代もそうです。あらゆる観念から逃れて精神世界に身を委ねたいと願う純粋な若者がたくさんいます。なかには、あまりにも純粋に考え過ぎて自ら命を断つ人さえいます。命をも顧みない。そんな純粋な人々がいるのです。

彼らを死なせてはならない。真理というものを知れば、死なないで済みます。彼らの流した涙は七つの海の水よりもはるかに多い。真理を得たい。これは当時においても競争でした。ブッダ在世当時、幾人もの賢者が現われます。その賢者の頂点に立った者、それがブッダその人でありました。超人だと思います。あれから二千五百年。ブッダの教えが続いてきたことがその証拠です。明日は悪魔ナムチの最後通牒であります。ご期待下さい。

あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。