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スッタニパータ548

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

わたくしが聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人とともにアングッタラーパ〔という地方〕を遍歴して、アーパナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。結髪の行者ぎょうじゃケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である〈道の人〉ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいとともに、アングッタラーパを遍歴して、アーパナに達した。そのゴータマさまには、次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いをそなえた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調ととのえる御者ぎょしゃ・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。かれは、みずからさとり、体得して、神々・悪魔・梵天ぼんてんを含むこの世界や〈道の人〉・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。かれは、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人にまみえるのは幸せ、みごとな善いことだ。」

そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶あいさつのことばをかわしたのち、かれは傍らに坐した。そこで傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向って言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」師は沈黙によって承諾しょうだくされた。

そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座からって、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩ほうばい・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。わたしのことばをお聞きなさい。わたしは〈道の人〉ゴータマを修行僧の方々とともに、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かしてわたしに手伝ってください。」

結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、かれに答えて、或る者はかまどあなを掘り、或る者はまきを割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶みずがめを備えつけ、或る者は座席を設けた。また結髪の行者ケーニヤはみずから(白いとばりれた)円い集会場をしつらえた。

ところでそのときセーラ・バラモンはアーパナに住んでいたが、かれは三ヴェーダの奥義おくぎに達し、語彙ごい論・活用論・音韻論おんいんろん・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。そのとき結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。

ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者はかまどの坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席をもうけ、また結髪の行者ケーニヤはみずから円い集会場をしつらえているのを見た。見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? あるいは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀さいしが近く行われるのですか? あるいはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招待されたのですか?」

「セーラよ。わたくしには息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招かれているのでもありません。そうではなくて、わたくしは近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人とともにアーパナに達しました。そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いをそなえた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調ととのえる御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。わたくしはあのかたを修行僧らとともに明日の食事に招きました。」

「ケーニヤさん。あなたはかれを〈目ざめた人〉(ブッダ)と呼ぶのか?」
「セーラさん。わたくしはかれを〈目ざめた人〉と呼びます。」
「ケーニヤさん。あなたはかれを〈目ざめた人〉と呼ぶのか?」
「セーラさん。わたくしはかれを〈目ざめた人〉と呼びます。」

そのときセーラ・バラモンは心に思った。「〈目ざめた人〉という語を聞くことは、世間においてはむずかしいのである。ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つのみちがあるのみで、その他の途はありえない。〔第一に〕もしもかれが在家ざいけの生活を営むならば、かれは転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわちかれには輪という宝・象という宝・馬という宝・たまという宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。またかれには千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。かれは、四海の果てに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。〔第二に〕しかしながら、もしもかれが家から出て出家者となるならば、真の人・さとりを開いた人となり、世間における諸々の煩悩ぼんのうおおいをとり除く」と。

「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」

かれがこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」

そこでセーラ・バラモンは三百人の少年とともに師のおられるところに赴いた。そのときセーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、「きみたちは(いそがすに)小股こまたに歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のようにひとり歩む者であり、近づきがたいからです。そうしてわたしが〈道の人〉ゴータマと話しているときに、きみたちは途中でことばをさしはさんではならない。きみたちはわたしの話が終るのを待て。」

さてセーラ・バラモンは尊き師のおられるところに赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交したのち、かれは傍らに坐した。それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の〈偉人のそう〉があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んどそなわっているのを見た。ただ二つの〈偉人の相〉に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑いまどい、(〈目ざめた人(ブッダ)〉)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所かくしどころ広長舌相こうちょうぜつそうとである。

そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。

そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通じんづう示現じげんした。次に師は舌を出し、舌で両耳孔りょうじこうを上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前のひたいを一面に舌で撫でた。

そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかしわたしは、『かれがブッダであるかいなか』ということをまだ知らない。ただわたしは、年よわい高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の〈尊敬さるべき人、完全なさとりを開いた人〉は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。さあ、わたしは、適当な詩を以て、〈道の人〉ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──

548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金おうごんの色があり、歯はきわめて白い。あなたは精力ある人です。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
セーラ――この教えはそのままの形で中部九二経に出ている。なおこれと類似した経が『増一阿含経』第四六、四七巻(大正蔵、二巻、七九八頁以下)に出ている。最後の散文は「蛇の章」の第四「田を耕すバーラドヴァージャ」及び第六の「サビヤ」の末尾の文と同じ形式である。

アングッタラーパ――Añguttarāpa.註によると Añgā+Uttara+āpa と解する。河水すなわちMahī 河の北方のアンガ地方の意味であるという。
真の人……――以下に挙げる一〇の語は、如来の十号といわれる。

さとり――abhiññā(=abhiññāya)(Pj.p.444).

体得し――sacchikatvā ti paccakkhaṃ katvā(Pj.p.444).

庵――assama.叙事詩では仙人の住家とされている(tāpasādhyusitaṃ ramyaṃ dadarsāsramamaṇḍalam.Nala Ⅻ,64)。

友人……――註は特殊な解釈を施している(mittāmacce ti mitte ca kammakare ca,nātisālohite ti samānalohite ekayoni-sambandhe puttadhitādayo avasesabandhave ca.Pj.)。しかしここでは amacca はインド一般の意味に解した。

三ヴェーダ――『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』をいう。バラモン教の最上の聖典である。

語彙……――註にしたがって解した(nighaṇḍu ti nāmanighaṇḍu-rukkhādinaṃ vevacanappakāsakaṃ satthaṃ,ketubhan ti kiriyākappavikappo kavinam upakaraya satthaṃ,……akkharappabhedo ti sikkhā ca nirutti ca.Pj.p.447)。

アタルヴァ・ヴェーダ――壤災・呪法に関する句を集めた聖典。古くはヴェーダとしての権威を認められなかったが、後に第四のヴェーダとしての位置が与えられるようになった。

史詩――itihāsa.叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』がその代表的なものである。

順世論――註釈は詭弁説の意に解す(lokāyata=vitaṇḍavādasattha.Pj.)。しかし後世のインドでローカーヤタというときには唯物論を意味する。

かの師は――この節の始めのところに同様の文句が出ている。

転輪王――cakkavatti.古代インドで、全世界を統一すると考えられた理想的な帝王。

548 以下は『テーラ・ガーター』第八一八-八四一詩にも出ている(岩波文庫『仏弟子のの告白』一六五頁以下)。

※以上註記より引用しました。

このセーラ経は、釈尊が本当にブッダ(仏陀)であることを当寺の国教であったバラモン教の聖典に基いて確かめるというスタイルを摂っています。それは三十二相といわれるものです。一般に三十二相八十種好さんじゅうにそうはちじっしごうと呼ばれています。仏像の外観はそれに準じて造られています。リンクを開いてその概要を見ておいてください。

また如来の十号は、如来にょらい応供おうぐ正遍知しょうへんち明行足みょうぎょうそく善逝ぜんせい世間解せけんげ無上士むじょうし調御丈夫じょうごじょうぶ天人師てんにんし仏世尊ぶつせそんです。仏像などの開眼供養(点限作法)などでお唱えすることが多いので暗唱するとよいでしょう。それぞれの意味も十号のリンクを開いてみておいてください。

さらに『諸々の〈尊敬さるべき人、完全なさとりを開いた人〉は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』という言い伝えによって、これから仏陀(目覚めた人・完全なさとりを開いた人)を讃嘆していきます。すると示現されるというのです。その姿が現れ示されるということです。

このお経は、後世の仏語やお経の元となった多くの逸話が入っています。転輪王(転輪聖王てんりんじょうおう)と成るか、あるいは仏陀と成るかは、釈尊が生れたときの賢者の予言としても伝えられています。今から考えるとほとんどお伽噺のように思われるかもしれませんが、何故にこのように伝えられたかということを考えてみてください。日本においても天皇や公家をはじめ多くの貴人が出家されています。また生れが貧困な家庭であっても出家する者は多かったのです。当寺1,250名もの弟子と共にブッダは実在されました。この事実は、かつての中国でも日本でも再現されています。ブッダの弟子には上下関係がありません。それぞれ友と呼び合います。サンガ(僧伽)においては、ブッダでさえ弟子には「友よ」と呼びかけておられます。もちろんブッダに対しては「師」と呼びました。

ブッダのすがた

毎回、自分からみた合掌の画像を挟んでおります。「合掌はブッダのすがた」というキャプションを入れています。今ブッダのお姿を拝むことはできません。しかしながら、いつでもブッダにお会いすることができます。ブッダの説かれた教えを実行することがブッダにまみえる唯一の方法です。このお経は、2,500年前に説かれた内容です。1,250人のバラモン(修行僧)の数も事実です。その事実を合掌して静かに坐りますと、その当時に忽ちにして居れます。時空を超えて、つねにブッダと共に在ることが自覚できます。三宝の御加護がここにあります。

部屋冷えて外に出たれば夏日かな(月路)

朝は寒かったのですが、今日は夏日になるそうです。さてと、今日は外作務です。まずは草むしり。それからゴミ出しエトセトラ。フランス大統領はマクロン氏で決まり。韓国の大統領もほぼ決まりでしょう。ほとんど関係のない話ですが、集まった支持者の数をみながら、1,250人というのは、すごい数だと思いました。1,250人の共同生活って?食べるだけでも大変なことです。はたして可能でしょうか。うーん。

「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金おうごんの色があり、歯はきわめて白い。あなたは精力ある人です。

スッタニパータ457

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

457「バラモンはバラモンと出会ったときには、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」

「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
サーヴィトリー――Sāvitri.『リグ・ヴェーダ』第三編第六二詩篇の一〇にある三句二十四字より成る詩で、太陽神サヴィトリSāvitrに対する讃歌である。この讃歌は普通はGāyatriと称せられ、特に重要な讃歌である。バラモンたちのあいだでは殊に神聖視され、今日に至るまでバラモンは毎朝この詩をとなえている。「サーヴィトリーはヴェーダの詩句のうちで最上のものである」(中略)。ところが仏教は、サーヴィトリーに相当するものとしての別の文句をもち出した。このサーヴィトリー詩と同様に、仏教徒が最初に学ぶべきものは
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(仏に帰依したてまつる)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(法に帰依したてまつる)
Saṃghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(つどいに帰依したてまつる)
という三句二十四文字よりなる三帰依文である。今ここでサーヴィトリ―というのは、仏教のサーヴィトリ―である三帰依文を指す、と註釈は解する。
 
以上註記より引用した。

ぶっだん さらなん がっちゃーみ (南無帰依仏)

だんまん さらなん がっちゃーみ (南無帰依法)

さんがん さらなん がっちゃーみ (南無帰依僧)

仏陀(ブッダ)と達磨(ダンマ)と僧伽(サンガ)に帰依する三帰依文(さんきえもん)ですが、三宝に帰依する内容です。世界中の仏教徒の集まりで唱和することが多いですから覚えておくとよいと思います。

今日の詩句の内容は、ブッダの前の詩句を受けて、スンダリカ・バーラドヴァージャさんが行った返答とそれに続いてのブッダの再返答です。少しややこしく感じられるかもしれませんが、バラモンの特に重要視している讃歌を「三句二十四字」と端的に言い表したことで、スンダリカさんの態度が一変します。日本的にいえば、「三帰依とは何か」と返答したようなものでしょう。信教の本質に見事に迫ったのであります。以後の問答はスンダリカさんの質問にブッダが一つ一つ答えるのでありますが、この問答の内容が一人のバラモンを根本から変えていきます。

達磨(理法)というものが、ブッダによって説かれ、その教えを実行する者の集いがサンガであります。この基本的な道理によって仏教というものが成り立っています。昨日ある禅宗のお坊さんから連絡を頂きました。話の中身が明確で、ともに力を合わせていこうという仕儀に相成りました。これからどうなるかは皆目わかりませんが、残された人生を静かに歩み続けたいと思います。

「バラモンはバラモンと出会ったときには、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

スッタニパータ447

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

447 烏(からす)が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか?味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

烏――黒魔すなわち悪魔ナムチのことを指しています。
脂肪の色をした岩石――黄色い肌をしたブッダ釈尊のことです。
柔らかいもの、味の良いもの――黒魔にとっての好ましいものは修行者の隙きです。これほど美味なるものはないのです。釈尊が修行をやめること、あるいは修行を怠ることを待っていたのですが、釈尊の周りをぐるぐる廻って窺っておりましたが、ついに隙きをみせることがなかった。岩石のように堅いところばかりであったという譬喩であります。

黄色い肌が黄金のように輝く

脂肪の色は普通黄色だそうです。解剖した人がそう言っていますから、多分間違いないでしょう。黒いカラスと黄色い修行者。今でもお坊さんの掛ける袈裟は基本的に黄色です。曹洞宗では黒衣・木蘭(こくえ・もくらん)が正装です。この木蘭色(もくらんじき)が脂肪の色といえばこじつけですが、純色ではなく壊色(えじき)といいまして、少し濁ったような、黄金の生地のようにも見えたりします。それはともかく、ブッダはインド北部の出身ですから、褐色の肌であったと思います。いつも外に居られますから、明るい褐色のイメージです。脂肪の色とはリアルな表現です。鳥葬というのがありますが、息絶えれば鳥に食べられる。そんな風に想像します。とにかく黄金のように輝いた人に鳥やカラスは嘴が立たないのでありました。

絶え間なく気をつけていること

「気づきを絶やさない」という表現があります。日本語としては少し違和感がありますが、上座部あたりではよく使われています。頭から否定はしませんが、sati(サティ)というのは気をつけるという意味で漢訳では「念」ということを度々申し上げています。念には念を入れるというふうに使いますが、念仏の念でもあり、仏教と切っても切れない言葉であります。ところが、この念に観をつけると観念となります。言葉から受ける刺激、語感と言ってもいいのですが、言葉から受ける感覚です。

昨日もある言葉をある人から投げ掛けられました。それも人前で。昔の私なら直ぐに反応して言い返したり怒ったりしたことと思います。ところが、どうしたわけか妙に腹が立ちません。歳のせいでしょうか。いや、これは違う。何だろうとしばらく考えました。するとわかったのですが、この感覚は言葉にできません。色々と頭の引き出しから適当な言葉を探すのですが出てまいりません。言葉にできない感覚というのは有りますね。うまくいえませんが、何を今更と思われるかもしれませんが、なんともいえない、超軽い感覚とでも言っておきましょうか。なにしろ人の言うことに反感をもち、一々反応するのが馬鹿らしいというか、そうした処世術、テクニックを身に付けたというのもどこか違います。うーん、わかりません。

わかりませんが、念という言葉には大いに助かっています。「念念勿生疑」(ねんねんもっしょうぎ)という観音経の一節があります。これは少しの疑いも持つなかれといった意味でありますが、疑いというものが人間のDNAには流れています。生存本能ですし、なくてはならない概念であるとは思います。それをすっかり取り除きなさい。とこう言われている。信じなさいではないのです。決して疑わない。でもありません。疑いが生じることはやむをえない。やむを得ないが、そこをよくよく考えて乗り越えなさい。念念勿生疑。頭をポンと叩かれれば、確かにその瞬間に痛みが生じます。それを痛いと感じる。ここまでは致し方ない。この後が肝心です。その直後に行う言動にこそ気をつけねばなりません。

刺激に対する反応に気をつける

心構え。便利な言葉です。これだけで多くの言葉を包含できる結論ですが、これは練習をしていないと咄嗟のときに間に合いません。観念で終わってしまうのです。いつも気をつけている。常在戦場といいます。常に臨戦態勢。防衛軍が必要であります。鉄砲玉が打ち込まれたら玉を取り出す。矢に射抜かれたら矢を抜くのが先です。こうした教えは山ほどあるのに、耳だけが大きくなって、ダンボ。実行しなかったら教えの意味がありません。これは自分に言い聞かせています。外部からの刺激に対して鈍感になることもその一つですが、処世術も大事かもしれませんが、もっと大切なことは「気をつける」習慣でありましょう。

結跏趺坐して坐っていると、夏ならば蚊にさされ、冬ならば隙間風に身震いすることがあります。そうしたときの心の反応。念念勿生疑。動揺しないこと。うまく言えませんが、こうした不断の努力が重要であることだけは、少しだけお伝えできます。

子供時分に 成りたし夢の 叶たり (月路)

見切り千両、無欲万両と申します。娑婆の仕事をやめて、仏門に入ったことは正解でした。人前で法話をさせていただいているときに、言い知れぬ喜びを感じます。口から生まれてきたような男ですが、こんなわたしの話でも聞いてくださる方がおられます。正直にいいますと小学生の頃からお坊さんになりたいと思っておりました。色んな意味で。その夢がやっと叶いました。それがどうしたと思われるでしょうが、あのまま世間の仕事を続けていたら、とっくに死んでいたと思います。まだやらなければならない義務があります。それは人様から押し付けられた義務ではなしに、自分で選んだ道であり義務であります。義務と責任のある仕事には変わりありませんが、やりがい生き甲斐死に甲斐のある仕事であると思っております。死んで死んで死んで咲く花実もあるのですから。岩の如く。

↓昔の歌はやっぱり胸を打ちますね。演歌の蒸気機関車。名曲です。

烏(からす)が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか?味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。

スッタニパータ443

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
智慧の力で……うち破る――原文にはpaññāya gacchāmiとあるが、諸異本並びに前後の関係から見ると、gacchāmi=bhecchāmiと解してよいであろう。

以上註記より引用した。

この詩句は大変深く難しいと素直に思います。焼いた土鉢を石で砕くのは簡単です。それを「焼いていない生の土鉢」と表現されています。これは、いったいどういう意味であろうかと他の文献も当たってみましたが、どれも言い当てていないように思います。そこでごく普通に解釈してみました。

焼き物(土器)の工程でわかる意志

陶芸をされたことのある方なら、またその過程をご存じの方なら誰でも知っていることですが、粘土をこね、ロクロを回しながら造形し、窯にいれるあの焼き物をイメージしてみてください。窯に入れる前の作品は柔らかく、石を使わなくても手で簡単に壊すことができます。それなのに何故誰もができないことをやり抜くことの例えとして「焼いていない生の土鉢を石で砕くように」と説かれたのか、ということです。

鉄は熱い内に打てという格言があります。冷えた鉄は伸ばすも曲げるも至難です。それと同様に欲望や妄想などが固まらないうちに、つまり誤った考えとして固定観念にならないうちに完全に捨ててしまうことを意味しています。自己の見解に固執しないということは、至難なことです。特に年を経ると、妄想を捨てましょうとか、欲望から離れましょうと言われても、「そうは言ってもなかなかどうして無理な話だ」という決めつけが、根本的な部分まですっかり浸透してしまっていて完全に固定しています。「わかっちゃいるけどやめられない」的な固定観念の鎖に雁字搦めになってしまうのです。

若いうちはまだ素直に実行できるのですが、個人差にもよりますが、たいていは三十五歳を超えるとそうした世間一般の考え方に染まり、焼き物に例えるとすっかり焼きあがって完成品となり、色も形も変えることは不可能になります。もちろん床に落としただけで、使いもにならないぐらいに割れてしまいます。石で割るまでもないのです。多分に嫌らしい言い方で恐縮ですが、年齢に関係なくすっかり焼きあがっている人が多いかと思います。

粘土のままであれば、焼く前であれば形作られた器を石で砕くことは可能です。この石は真理といってもいいでしょう。いい加減な自らの手で壊しても、また同じような形を作ってしまうのです。作っては壊し、作っては壊し、やり直しているようでは、人生埒が明かない。いつまでも不安定なままです。早く焼きたい、気持ちは焦る、焦って窯に入れようものなら、ある日突然にあっさり壊れてしまいます。時既に遅し。思い当たる節はございませんか?

智慧は自らの見解に拘らないこと

これに尽きるとは申しませんが、あまりにも自己の見解、ほとんど欲望という粘土を形作り妄想という名の釉薬をかけて焼き上げた完成品に自惚れているのです。変えようもない完成品ですから、それで満足していようが不満であろうが変えようがありません。命と言いますが、生きているというより、もう死んでいるのも同然です。綺麗事をいうつもりはありません。わたしはもちろん、世間のほぼ全員、神々であろうとそうであります。智慧というものは誰にでも備わっているものではありません。そうした自己の見解、観念をあっさり捨てることが智慧であるといわれているのです。これは並大抵なことでは決して得られません。得られたと思ったとしたら、それは浅知恵に過ぎません。そういう謙虚さを非常に強く持っていること。これもまた固定的な焼き物(観念)ではありますが。

閑話休題

拾八の 鐘を撞くかや 初観音 (月路)

観音様の縁日は普通十八日です。当寺の近くにある観音様の初観音(年初の縁日)は、今年は二十二日の日曜日に開かれます。導師を頼まれておりますが、その前日の土曜日は餅つきのお手伝い。といっても臼や杵は用いません。今は電動餅つき機というのがありまして、蒸籠で蒸したもち米を入れて、つけたら丸めて板の上に並べるだけです。だけですが、これもご婦人方の労力は大変なものです。いずれは餅屋さんに依頼することになろうかと思います。これも時代の流れでしょう。

観音様でさえ、頭上に化仏(けぶつ)と呼ばれる仏さまを頂いておられます。われわれ仏教徒は、この謙虚さに学ぶべきかと存じます。たとえブッダの言葉として現代に伝わっている教えといえども、これにこだわり、これを絶対視してはならないと存じます。ブッダ自身は何も残されておりません。すべて伝聞であります。無記といいますが、修行の役に立たない関心事についてはもちろん、最古層の経典とされるこのスッタニパータとて、言葉にすれば完璧ではありません。原語とて後世のものです。ではありますが、人々の中にしか佛は存在しないのですから、自灯明法灯明。自己を拠り所とし法を拠り所とする他はありません。

神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

スッタニパータ436

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
嫌悪――原文にはaratiとあるが、パーリ原典協会のパーリ語辞典の解釈に従う。註にはadhikusalesu dhammesu arati=abhiratiと解す。

第四の軍隊としての「妄執」(taṇhā)の原語はもともと渇を意味するが、ここでは第三の軍隊を「飢渇」(khuppipāsā)と呼んでいるから、taṇhāと「渇」(pipāsā)とは別の概念である。taṇhāは人間存在の奥にある意識下の、衝動的なものであるが、pipāsāは生理的な概念である。

以上註記より抜粋して引用した。

つぎの詩句では、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、見せかけ・強情、さらには利得・名声・尊敬・名誉、また自己を褒め讃え他人を軽蔑すること、と続きます。これらはナムチの軍勢であると喝破されるのであります。いかがでしょうか。なにも言えません。人間に巣食う本質にみごとに迫っています。これはブッダが発見されたものではありません。だれにでもある人間性ですし、ブッダ自身のなかに存在していたものです。それを明確にされた。よく勘違いしてしまう態度に、自分はそうではない、人々がそうだという奢りがだれにでもあるものです。その部分が一番大事で、哲学的に本質を見定めることが目的ではありません。現実に、これらの軍勢を打ち破らなければ、解脱など遠い夢のような話で自分には全く関係ないことになってしまいます。

まず今日は、第一から第四の軍勢を肝に銘じておきたいものです。欲望が第一です。全ては欲望に帰一します。全部自己の欲望から派生したものばかりです。だれでも自分が一番大事です。それを一言でいってしまえば、「欲望」なのです。この欲望をしっかり見つめることから始めたいものです。ついで嫌悪。自分が可愛いゆえの嫌悪、人の欠点が見えてしまう、嫌だと思うことです。これについては他人の悪口をいうのが証拠でしょう。胸が痛みます。さらに飢渇。飢えと渇き。腹が減った、喉がかわいた。なんでもないことのようですが、食べ物、飲み物によって自分の身体が出来ています。口にするものが人間を維持しているのですが、これに貪欲であるとどうなるか。結果は歴然としております。少欲知足。足るを知らなければ、大変なことが待っています。ときには断食をすることも必要かもしれません。そして妄執。妄想と執著。この大軍勢は難敵です。この妄執が生え抜きの精鋭部隊ですから、ここまでであっさりと陥落してしまいます。

餅が割れ 鏡開きぞ 何しとる (月路)

正月もはや半ば。時は急流。もろい筏にのって竿をさしておりますと、転覆どころか筏ごとバラバラになってしまいそうです。年末にやり残したことを、まあいいやとそのままにしておいたつけが、いつやってくるかとハラハラしながら目移りばかり。困ったものです。何かに集中していると、これは後でいいや、放おっておこうと思い、事実そのままにしておく。悪い性格が最近もろに出ています。反省と謝罪。どこかの国のようですが、これも欲望ですね。第一の軍勢だけで充分です。わたしを倒すのは。今日はここまで、また明日。

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。