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スッタニパータ595

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

595 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ェーダ読誦どくじゅについては師に等しいのです。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ヴェーダ読誦――註にしたがって解した(jappe ti vede.Pj.)。

以上註記より引用しました。

ヴェーダはこれまで何度も出てまいりましたが、バラモン教の聖典であり当時の最高権威の経典といえましょう。この聖典に精通しております、と自己アピールしているぐらいですから、実際に研鑽を重ねたのでしょうし、自信もあったのでしょう。師匠と比肩できるとまで豪語しております。経典に精通している、学問として完璧に身につけている、儀式作法にも抜かりはない。そうしたバラモンとして自他共に認める二人でありますと、ブッダに自己紹介されています。

論語読みの論語知らず

という言葉があります。この二人がヴェーダ読みのヴェーダ知らずとは申しません。経典読みの経典知らずなどと揶揄するものでもありません。かれらはバラモンとは一体何者であるのかということを求めていた真摯な青年たちでありました。

生れも育ちも良い彼らが、高等教育を受けて何不自由なく育った彼らは、純粋に求めていたのです。この求める気持ちは大事な機縁であります。どこかに不安があったのでしょう。これで良いのかしらんという一抹の不安があったことは確かです。ブッダのところへ出向いたのもそうした動機からでしょう。仏教においても全く同様なことがいえます。仏教学に精通し、法要儀式を体得した者であっても、どこかしら不安を抱えています。これでいいのかと。

 

スッタニパータ472

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

472 かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

かれは――ブッダ自身のことです。なぜならば、もはや自己にさえとらわれていない、完全な客観でブッダを説明しているからです。またこれを「私は」とやってしまうと、聞いた人は自慢に聞こえてしまいます。「彼は」というのを「彼の人は」と訳してもよいかと思います。

生存の汚れ――これは文字通り生きていることによって生じるあらゆる汚濁です。煩悩と呼ばれていますが、あまり仏教学的に突っ込まない方がよろしいかと存じます。眼・耳・鼻・口・身体・脳神経などの感官によって感覚が生じ、あらゆる感情をもたらします。これが生存の汚れです。刺激に対する反応ということです。多くは動揺です。

荒々しいことば――言葉遣いが荒い。この逆に言葉遣いが丁寧とか優しいということではありません。悪語、妄言という意味です。乱暴な言葉でもいいでしょう。そういう言葉が彼の人からは完全に消えている。除き去られ滅びてしまっている。存在していない。だから人々の胸に響き、嫌な感じが微塵もないのです。すっと胸に入ってくるのです。

ヴェーダに通じた人――聖典に通じている。これは一バラモンに話した言葉です。直接スンダリカさんに、聖典を信奉しているであろうバラモンに向けて、彼の人はヴェーダ聖典に通底しているということをさらりと伝えたのです。

あらゆることがらに関して解脱している――これが結論です。解脱者であると宣言しているのですが、解脱という観念ではなく、あらゆること、すなわち全知者であると同時に、その知の全てから解き放たれ(開放され)、完全な自由を手にし、輪廻を脱出したと述べておられます。

いみじくも京で逢うたり彼のひとに(月路)

出逢いというのは不思議なものですが、まことによいところで出会うものです。直接のこともあれば間接のときもあります。本や音楽とて出会いでしょう。時間があれば本屋に行くことが好きです。いろいろな本を見て回り、その場で衝動的に買うこともあれば後日ネットで買うこともあります。面白くないことがあったときなどに目に飛び込んでくる情報。それは新聞記事の片隅の言葉であったり、広告の看板であったり、電車の中の人々であったり、行きつけのお店の人であったり、変な意味ではなしに、はっと、ひらめくことがあるものです。助けられます。空也上人の像を見ただけで、空なりと。腹立ちが一瞬に治まりました。

↓人間顔じゃないよね。こだわりなくに、こだわりたい。

かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。