タグ別アーカイブ: 三学

スッタニパータ434

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

434(身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
心はますます澄んで――心が澄むというのは信仰の特質であると、仏教では一般に定義する。第四三二詩に信念(信仰)に言及したので、それを受けている。

以上註記より引用した。

わが念い――sati.一般に念と訳される。比較的最近では気づきと訳していることが多くなってきていますが、日本語としては不適切で、よく気をつけている、あるいは記銘と記憶、総じて「わが念(おも)い」としたものでしょう。今の心と書いて念。ここでは、あっさり「信念」という意味であるとした方が解りやすいと思います。

智慧――paññā.一般的な意味での智恵と変わりませんが、漢訳の伝統にしたがって智慧としたものでしょう。三学の一つであるこの智慧は今の言葉で表せば「英知・叡智」といってよいと思います。深遠な道理を知りえるすぐれた知恵のことです。音訳して般若。般若心経の般若です。

統一した心――samādhi.禅定のことです。サマーディは仏教独自の言葉ではありませんでした。ヨーガ修行の最もポピュラーな修行法で坐禅というほうが現在ではわかりやすいのではないでしょうか。これも三学の一つに数えられています。統一した心と訳されているのは、全ての心(理性と感性と霊性)を統一する、バラバラに妄想している心を一つに集中することで統一をはかるといった意味が込められている名訳です。

安立する――tiṭṭhati.安定して確立している。以上の信(戒)・定・慧の三学を安立(あんりゅう)する具体的な修行法が坐禅です。頭で思考するのではなく、心を安立するには身体を真っ直ぐにする、最も安定な姿である結跏趺坐を行うことです。姿勢に気をつけ、姿勢を正し、何も考えない。普勧坐禅儀では、「心・意・識の運転を止め、念・想・観の測量を止めて」とあります。非思量が坐禅の要術であると喝破されております。

本詩でのポイントは、体液が出なくなり肉が落ちると、心がますます澄んでくる、という記述です。わたしが僧堂での修行時代、ピークで80キロあった体重が師寮寺で10キロ修行寺で20キロ落ちて50キロ、十代のころの体重になったとき、身も心も軽くなった実感がありました。肋骨がくっきり、腹はぺしゃんこ、足も手も細くなり、皺だらけ、老人のように痩せこけ、風呂場の鏡に映る我が姿に愕然としたものです。心がますます澄んでいたとは申しませんが、軽くなった実感は確かにありました。もちろんこのままだと死んでしまうのではという恐怖もありました。およそブッダの苦行とはかけ離れていましたが、何となく朧気ながらその輪郭だけは分かるような気が致します。

餅の山 水に漬けても 食べ切れぬ (月路)

今朝は一段と寒くなりました。気温はさほどでもないのですが、寒気が致しました。風邪かな、これはいかんということで、みかん汁を温めて飲みます。これは効きます。冬みかんの効果はもっと宣伝されていいと思います。それはともかく、今日は年賀状を取りにいくのと、孫にお年玉を上げたい理由で帰郷いたします。明日の記事を投稿してから。

(身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

スッタニパータ425

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

425 ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つとめはげむこと――padhāna.主として精神的な努力精励をいう。ここにえがかれていることは、諸伝説と対照して考えると、成道以前のブッダが悪魔と戦ったことをいう。

425 ネーランジャラー河――ネーランジャラー(Nerañjarā)河はサンスクリットではナイランジャナ(Nairañjarā)河といい、漢訳仏典では「尼連禅河」などと音写されている。この河は現在パルグ(Phalgu)と呼ばれている。この河がブッダガヤーの近くを流れているが、ゴータマはそのほとりのウルヴェーラー(Uruvelā)で苦行を修したと伝えられている。これは現在のUrel村にその名を残している。
 
以上註記より引用した。

本年の最後を締めくくるに相応しい新しい節に入りました。精勤経と呼ばれるこのお経は前節の出家経に続くものです。出家したゴータマ菩薩(成道以前の釈尊)が端坐六年と呼ばれる坐禅に精励されていたころに、内面に悪魔が現われます。尼連禅河(にれんぜんが)のほとりにて安穏を得る目的で修行されていたのです。昨日にもありましたように、安穏を得るためには出離を実行する以外ありませんが、今日の解説にもありますように、精神的な努力精励が主でありました。努め励み専心することを後に「精進」と呼ぶようになるのですが、言葉のイメージが先行すると抹香臭くなるかもしれません。

精神的に進むことが本来の「精進」の意味です。精神的に成長するために努力するわけです。ところで現実にどうやって努力するかといえば、専ら坐禅しかないのです。当時、出家者の修行というのはヨーガ修行が中心でした。坐禅のスタイルはヨーガのそれと何ら変わりません。外観からすれば全く同様です。現代で言えば瞑想(Meditation)とかマインドフルネスと呼ばれている内容も古来からの言葉であらわせば坐禅であります。これは外観が坐っていて内面は禅定を楽しんでいるものです。禅定とは三学の一つに位置づけられていますが、それは時代が下ったあとでの便宜上の学問的分類に過ぎません。とまれ坐禅はその三学の全てをあらわすのに最も都合の良い言葉なわけです。中村元先生の訳では「瞑想していた」となっていますが原語はjhāyantamですから禅定もしくは坐禅していたというのが従来からの翻訳でありましょう。瞑想という語はmeditationと英訳されたものを和訳して瞑想としたものです。どちらでも元々は同じですが、現在は馬鹿みたいに区別しているようです。

最近では坐禅を英訳するとZAZENと出てまいります。カラオケと同じでそのままの音訳が一番正確でありましょう。Zen meditationでは、本来の意味が通じません。なぜなら禅という一字には何の意味もないからです。 jhāna, ジャーナを禅那と音訳したものと、意味を示す定(じょう)を合せて禅定としものです。禅宗も元は坐禅ばかりしている宗派を坐禅宗とし、後に坐を省略して禅宗と呼んだに過ぎません。こんなことは余計な知識が修行を妨げているために、一々取り上げて説明していますが、勘違いしてほしくないために老婆心でちょっと解説してみただけであります。どうか忘れてください。

蟠り 忘れたしとて 大晦日 (月路)

今日切に申し上げたいことの一点は、精励であります。ブッダがビンビサーラ王の帰依を受けたのは、王様に面と向って、「諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめ励むために進みましょう」と呼びかけたことです。こんなことを堂々と言えるのはブッダ以外におりません。乞食のような格好で修行している者が、華麗な出で立ちの王に、共に精進しましょうと話すのですから、王はいっぺんに惹かれたのです。仏法不思議、王法と対座す。誰が見ていようがいまいが、修行(坐禅)し続けているブッダの姿に、王は思わず合掌していたに違いありません。

全ての人々に今年最後に、この歌を贈ります。YELL。

ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

スッタニパータ329

第二 小なる章

〈9、いかなる戒めを〉

329 みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには智慧も学識も増大することがない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
精となる――sAra.註は、目的(意義)が成就する(attho sijihati)という意味に解しているようである。
 
以上註記より抜粋して引用した。

この詩句の意味するところは、真理の言葉を聞いて理解し、これを実行していると自己の目的を成就する(自己実現)が、あれもこれもと気持ちだけが焦り右顧左眄していると何も得るものはない。という風にとらえることもできます。

これも確かな現実的な戒めであります。この節につづく「精励」の前置きとしての意味も含まれているように感じます。単に経の小さなまとまりを適当に順番に並べたのではないものと思われます。ここでは「」が取り上げられていますが、そもそもとは何であろうかと考えた時に、人間の一番根本的な部分。現代的な言葉を探すと、「やる気」が一番わかりやすいのではないでしょうか。精も根も尽き果てるという表現がありますが、その精根のこととして当てはめれば、本詩は、やる気を出す方法ともいえます。

精神の安定を修する」とは具体的に何を指すのかといえば、それはもう坐禅のことと申し上げておきます。他にも色々とあるのでしょうが、わたしは知りません。知ろうとも思いません。ブッダが人々に勧めていたことは姿勢を正して坐ることです。そして禅定(定)を楽しむことでした。これが基本中の基本であります。坐に親しむことです。時間があればって、精神の安定をはかることが、なにより一大事であります。

仏教の三学とは、戒・定・慧であることは申すまでもありません。その三学が全て合わさった実行の姿(相)が坐禅です。坐禅に三学が含まれておる。否、坐禅を三つに分解して説明したものが三学である。これほど手っ取り早い方法は他にありません。今日は、学派宗派を超えて実践するべき修行が坐禅なのだとはっきり申し上げておきます。

みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには智慧も学識も増大することがない。

スッタニパータ174

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

174 「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダは確かに認めています、激流が渡り難いと。そのうえで静かに説かれるのであります。

  1. 常に戒めを身に保ち
  2. 智慧あり
  3. よく心を統一し

以上は戒・定・慧の三学と呼ばれています。仏教の基本中の基本です。

「内省」は懺悔(さんげ)のことです。

「よく気をつけている」(サティ)は念のことです。近年ではマインドフルネスと呼ばれています。気づき、気づくことでもあります。

このように現代にまで伝わっている仏教の大要がここで明確に説かれているのです。

要約すれば仏教を実践していれば、激流を渡り切ると断言されているのです。これほど心強いものはございません。ブッダが保証されているのです。ブッダの言葉通り日常を過ごせば、何の憂いもなく、静かに安穏が得られるのであります。願いどおりの幸福な日々が約束されております。それは心に動揺がなくなるということであります。どのようなことが起きても例え自分が殺されようとも、病気で死ぬ目にあったとしても、痛みはかわりませんが、肉体的な疼痛は変わらなくとも、こころに動揺がなくなるということです。

死さえも静かに受け入れられる教えでありますから、生きているときには力強い支えとなることは当然でありますし、死後も約束されているとなると、これはもう万全なわけです。何も恐れることはないのですが、さらにブッダは畳み掛けられます。

「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。(つづく)

 

スッタニパータ157

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

157 七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることがない。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

昨日の質問(前第156詩)に対する満額回答であります。まったくそういう資質をもっている、ブッダという人は。問題ないと応えているのですが、なぜこのような繰り返し、リピートを行うのかといいますと、これは口伝だからです。一言一句正確にそのまんま伝えるための工夫ですし伝統的手法です。文字で書き写すよりも何千年と延々と正確に伝えていく口伝は人類の智慧の結晶ともいえるでしょう。キーボードであろうがコピペであっても間違えるのですが、お経を毎日のように唱える手法は、一言一句正確に伝わります。お寺で修行すればわかるのですが、だれかが少しでも間違えますとすぐに解りますから間違った方向に変わっていくことがないのです。

さて、今日はとくに「精神の統一」について再考します。「精神一到何事か成らざらん」ということわざがあります。これは朱子語類に「陽気の発する処、金石も亦透る、精神一到何事か成らざらん(天地間の陽気が発すれば、金や石も突き通してしまう。精神を集中して行えば、何事も成就できないことはない)」とあるのに基づくものです。精神一到と精神統一とは明らかに(漢字も)違うのですが、精神の集中を禅定と捉えていたり、いわゆる止観(サマタ・ビバサナ)瞑想がそのまま禅定(正定)とはいえません。もっと素直に、精神集中とか、瞑想のテクニカルなことよりも、精神の統一は心の統一であることを強調しておきたいと思います。

なぜこのことにこだわるかといいますと、禅というと何かことさらに別個の精神状態があるかのような、もっとはっきりいえば無心とか無念無想などといったわび・さびのような、禅寺の雰囲気、坐禅などのものものしい体系的なもので、この禅定というものを捉えていただきたくないのです。昨日も申し上げましたが、精神の統一と訳された「定」は心を一つにすることです。ブッダの教えは「慈しみ」で貫かれた教えであり、この慈しみを離れた教えは一つもないのです。

仏教の目的はただ一つ「慈しみ」です。仏教はそのための体系として「智慧と慈悲」を説き、そしてその具体的な方法として三学(戒・定・慧)があるのですが、そういう教理的なことよりも具体的な修行方法とか自身のあり方のほうが重要なのです。

集中して、今のこころを見つめ、慈しみ(大いなる優しさ)のこころに統一していくこと。慈悲の瞑想とか「やさしい気持ちになること」でも何でも言い方は何であれ、今の自分のこころに気づいてやさしい気持ち、幸せを祈るきもちにまとめていく、そういう慈しみの心に決めていく作業が「精神の統一」であることをお伝えしたいと存じます。それが最初期のブッダの教えであったと申し上げても決して過言ではありません。

七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることがない。