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スッタニパータ457

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

457「バラモンはバラモンと出会ったときには、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」

「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
サーヴィトリー――Sāvitri.『リグ・ヴェーダ』第三編第六二詩篇の一〇にある三句二十四字より成る詩で、太陽神サヴィトリSāvitrに対する讃歌である。この讃歌は普通はGāyatriと称せられ、特に重要な讃歌である。バラモンたちのあいだでは殊に神聖視され、今日に至るまでバラモンは毎朝この詩をとなえている。「サーヴィトリーはヴェーダの詩句のうちで最上のものである」(中略)。ところが仏教は、サーヴィトリーに相当するものとしての別の文句をもち出した。このサーヴィトリー詩と同様に、仏教徒が最初に学ぶべきものは
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(仏に帰依したてまつる)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(法に帰依したてまつる)
Saṃghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(つどいに帰依したてまつる)
という三句二十四文字よりなる三帰依文である。今ここでサーヴィトリ―というのは、仏教のサーヴィトリ―である三帰依文を指す、と註釈は解する。
 
以上註記より引用した。

ぶっだん さらなん がっちゃーみ (南無帰依仏)

だんまん さらなん がっちゃーみ (南無帰依法)

さんがん さらなん がっちゃーみ (南無帰依僧)

仏陀(ブッダ)と達磨(ダンマ)と僧伽(サンガ)に帰依する三帰依文(さんきえもん)ですが、三宝に帰依する内容です。世界中の仏教徒の集まりで唱和することが多いですから覚えておくとよいと思います。

今日の詩句の内容は、ブッダの前の詩句を受けて、スンダリカ・バーラドヴァージャさんが行った返答とそれに続いてのブッダの再返答です。少しややこしく感じられるかもしれませんが、バラモンの特に重要視している讃歌を「三句二十四字」と端的に言い表したことで、スンダリカさんの態度が一変します。日本的にいえば、「三帰依とは何か」と返答したようなものでしょう。信教の本質に見事に迫ったのであります。以後の問答はスンダリカさんの質問にブッダが一つ一つ答えるのでありますが、この問答の内容が一人のバラモンを根本から変えていきます。

達磨(理法)というものが、ブッダによって説かれ、その教えを実行する者の集いがサンガであります。この基本的な道理によって仏教というものが成り立っています。昨日ある禅宗のお坊さんから連絡を頂きました。話の中身が明確で、ともに力を合わせていこうという仕儀に相成りました。これからどうなるかは皆目わかりませんが、残された人生を静かに歩み続けたいと思います。

「バラモンはバラモンと出会ったときには、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

スッタニパータ237

第二 小なる章

<1,宝>

237 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<教え>を礼拝しよう。幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あらゆる人々、生きとし生けるものの幸福をねがうこと、――それが釈尊の真情であった。ここに説かれているのと同趣意のことは、第一四五一四七詩にも説かれている。
幸福論の具体的な内容は、第二五八詩以下に述べられている。

以上註より引用した。

三宝(さんぼう)の二つ目は、ブッダの説かれた教え(仏法)であります。単に「法」といえば教えのことですが、真理という意味もあります。ダンマが達磨(ダルマ)と漢訳されてそれから日本にも伝えられたわけですが、ここでは「完成した教え」と訳されています。真理を覚ったお釈迦様が、人間が具体的にどうしたら幸せに生きることができるかということを教えてくださったのであります。いわば幸せになる方法を説かれたのであります。幸せの道を示されたと言い換えてもいいでしょう。

お釈迦様の遺言に、これからは「自己と法とを拠り所にしなさい」という言葉があります。日本では「自灯明、法灯明」としてつとに有名な言葉です。仏陀を拠り所にしなさいとは申されていないのです。とにかく誰よりも自己を信頼して、自分で確かめた真理に沿って生きなさいと言われております。三宝というのも自己のものでなければ何の輝きもありません。結局は「法」教えに尽きるわけです。徹底して自己の内にしか「宝」は存在しません。

宝を求めて色々の所へ行き、色々な目に遭って、やっと探し求めたと思ったら、それは自分の中にあった。まるで「青い鳥」のような物語を多くの方々が現実の人生の体験・経験として学びます。いわばえらく遠回りをして気がついた時にはもう臨終間際であります。それでもここに辿り着いただけでも幸福(安心)ですが、せめて後一日あれば、一生というものが完成いたします。それが「教えの実行」ということであります。

宮崎禅師は「信火内に有れば行煙外に顕わると申します。揺るぎのない信心が内にあれば、自然に言葉や態度になって外に表れてきます。曹洞宗のご安心(あんじん)は申すまでもなく只管打坐(しかんたざ)ですが「行(ぎょう)も亦禅、坐(ざ)も亦禅」と申すように根底の坐禅を中心に、そこから自在に真理を実行することが両祖さま(道元禅師と瑩山禅師)の佛道です。常々申しておることですが、佛教という最上の教えはあっても、教えは実行しなければただの教えです。教えは実行するためにあります。実行するからこそ佛道になります。」と申されておりました。

われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<教え>を礼拝しよう。幸せであれ。

スッタニパータ236

第二 小なる章

<1,宝>

236 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<目ざめた人>(ブッダ)を礼拝しよう。幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩の主語である「ここに集まった諸々の生きもの」とはあらゆる生物と考えていいでしょう。いわゆる神々や人間以外の「生きとし生けるもの」たちのことです。「神々と人間とのつかえる」との表現は後世に「天上人間(人天)の帰依する」という表現が一般的となりました。すなわち生物さえもが人天の帰依するブッダを称賛し、礼拝しているのでありますから、どうか幸せであってくださいという意味であります。同様の礼賛が仏法僧の三宝に捧げられて、この<宝>の節は終わります。

以上述べてきたように「完成した目覚めた人」のことをブッダと呼ぶのであります。お釈迦様は釈迦族の聖者ですから「釈尊」「釈迦牟尼仏」と尊称されておりますが、仏陀とも如来とも尊び敬います。それは人間でありながら仏陀となられたことに最大の尊崇と敬意を評しての尊称なのです。生まれながらの万能の神ではありません。誰よりも無常を感じられ深い愍みと慈しみ(慈悲)をもって人天(にんでん)を教化(きょうけ)され通し「最後の生」を全うされた偉大な人そのものであられました。

三宝(仏陀と仏法と僧伽)に帰依することは仏教の大原則でありますから、この<宝>の節の意図はその説明と申し上げてよいでしょう。この宝を語ることなくして仏教は始まらないからであります。どのような金銀財宝よりも莫大な資産よりもこの<宝>には価値があります。何より幸せとは<宝>を得ることなのです。この<宝>の威神力は、ずばり苦悩を滅ぼしてくれる無比の宝であることを最大限に強調しておきたいと存じます。

幸せとは何かについての詳しい説明は、この後に続く節で具体的に説明がなされます。ぜひ楽しみにお待ち下さい。その大前提が本節であったことに深い感銘を抱かれると思います。それはさておき、もっとも重要なことは三宝に帰依する(三帰)ということが、仏門に入るという決断であるということです。それは生涯を貫く心の拠り所としての「帰依」であり、闇雲にすがる「崇拝」や服従的な「隷属」とは訳が違います。三帰依なくして仏教徒とは言わないのですが、そういう形式的な外観よりも、本当に帰依する覚悟(決断)がなければ、どのような話を聞いても「聞いただけ」で終わります。どうぞどこからでも疑って確かめていただきたいのであります。本物かどうかを、仏門に入る前に。

道元禅師様は「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と端的に示されております。生まれてから死ぬまでの人生の意味を明らかにすることが仏教の起こり、原因であるとも読み取れます。人生の意味とか意義を哲学的に考察するのがねらいではありませんが、静かに人生を振り返った時に、果たしてわが人生に悔いなしといえるかどうかを深く反省してみることも善いことかと存じます。

かつて宮崎奕保禅師が新年の挨拶で「お釈迦様の教えというものは 、天があり地があってその恵みを受けて、人間がその正しい真(まこと)を 実行していくという大法則のもとに生かされておるということでございます。真は名前を変えたならば真理ということになる。この忙しいときに手を組み足を組んで、ただむなしく坐っておるように思うけれども、そうではなくして、大自然を真に表したものが三分、五分の坐禅。どうぞみなさん、朝の三分でも五分でもよろしいから、まず第一に、正しい真の姿をもって先祖さんに挨拶をして、元旦のはじめにお願いしておきます。誠におめでとうございます。どうぞよろしゅう。」と申されたことを思い出しています。(丁度わたしが仏門に入った頃のお話です)

われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<目ざめた人>(ブッダ)を礼拝しよう。幸せであれ。

スッタニパータ192

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

192 わたしは、村から村へ、町から町へめぐり歩こう、──覚った人を、また真理のすぐれた所以を、礼拝しつつ。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
わたしは、村から村へ……――三宝にではなくて、仏と法とに帰依するというのは、古い韻文に出ている句である。(中略)
ここでは、他の宗教や実践法にたよらないという、ブッダに対する信仰が、はっきりと表明されている。以上註より参照

アーラヴァカという神霊は、ブッダとブッダの説いた教えである真理(仏法)を伝えに、村々町々を巡り歩いたとされます。仏と法を礼拝しつつとあるのは、帰依(こころからの拠り所とすること)しながらということであります。盲目的な崇拝のための礼拝ではなく、誠心に拠り所としたところの礼拝であることに注意しましょう。ほんものの教えに出会った歓喜は優れた行動を引き起こします。義務感や義理での実践とは根本的に相違します。何かをせずには居られない純粋な実行であります。

仏の開かれた教えは、そのままでは決して人々に伝わりません。2500年後の私たちが今こうしてブッダの教え、生の声にふれることができるのも神霊たちのおかげと申せましょう。なぜならその神霊たちとは、誰あろう時間と空間、時代と場所を超えて息づいている私たち仏教徒の先輩方の声であり、そしてまた将来に亘って残っていく私たち仏教徒の心の声でもあります。善きことを伝え実践する使命そのものであります。

「真理を伝える使命」そのものを神霊(神々)とお呼び申し上げます。それこそ目に見えなくとも確かに息づいている「尊き命」であることを解説し、この節の結びと致します。

わたしは、村から村へ、町から町へめぐり歩こう、──覚った人を、また真理のすぐれた所以を、礼拝しつつ。」

スッタニパータ134

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

134 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ここで「目ざめた人」buddhaは単数で示されている。この詩がつくられたころには、ようやく(当時としては)ただ一人であるブッダの権威が漸く確立したのであろう。
仏弟子──
仏弟子は、出家者と在家者と両者を含んでいた。ゴータマ・ブッダに帰依する人々は、古くはすべて弟子(sa-vaka)と呼ばれていた。その原義は、恐らく「教えを聞く人」という意味であったらしい。ゴータマの弟子のことを「仏弟子」Buddha-savaka、「仏の弟子」Buddhassa savaka、「等正覚者の弟子」samma-sambuddha-savaka、「ゴータマの弟子」Gotama-savakaなどともいう。「教えを聞く人」savakaというときは、出家修行者を意味することもあったが、また在俗信者を意味することもあった。原始仏教聖典の古層においては在俗信者のことを「教えを聞く人」savakaと呼ぶことが非常に多い。これはジャイナ教における用例に一致するものであり、古い時代にはジャイナ教でも「教えを聞く人」savakaとは在家者(gihin)を意味するものであった。ジャイナ教では在家の弟子をsavakaと呼ぶことは、仏典でも記されているが、それが仏教にもとり入れられたのである。また「立派な弟子」ariyasavakaという場合には、敬虔な信者を意味することがあった。これはジャイナ教の場合と共通であり、恐らく仏教興起時代の一般宗教界で用いられていた呼称を、そのままとりいれたものであろう。ここでは出家修行者も在俗信徒も、ともに〈「教えを聞く人」savakaの資格において〉考えられている(中村『原始仏教の成立』227頁)。ところが後代の仏教では(小乗仏教でも、大乗仏教でも)savaka,sravakaとは「声聞」と漢訳され、小乗仏教教団の僧侶たちの意味になった。後代の仏教が、最初期の仏教とはいかに異なり、いかに変質したか、ということが、この点からも明らかであろう。以上註より引用しました。

仏弟子に出家も在家もありません。サンガ(僧伽)は出家と在家の修行者からなる集団に変わりありません。本来は寺院も住職や信徒の所有物ではなく僧伽(サンガ)なのですから、修行の場所であるわけです。これが軽んじられることは三宝(佛・法・僧)をそしることになるわけです。何としても教えを修行する、実行する人を守らなければなりません。

目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。