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スッタニパータ502

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

502 『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享(う)けることはない』ということを、この世で如実に知っている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

自分の人生が最後の人生であると、今生で最後、二度と生まれ変わることはないと明らかに知っている。完全に解脱したことを自知している。阿羅漢果に達した者は自覚できる。このように解説されていることが多いと思います。素直に読めば、仏道の究極である所の四向四果を成し遂げ、輪廻から脱出した人々のことを説いておられるように受け取ることが一般的な解釈でありましょう。しかしながら、大変にうがった見方でこれを読めば、出離を求めて解脱した人である仏陀その人が「これは(私の)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない」と暗に言明されたものではないでしょうか。

ブッダは知っていた

ブッダ釈尊が、自ら最後の生存を自覚していたということは、過去生を知っていたことに他なりません。過去生を知らないものが最後の生存など言明できるはずもありません。後世に説かれた本生譚(ジャータカ物語)では、ブッダが自身の前世を弟子たちに説いた話が数多く残され伝えられています。いわくブッダの前世は菩薩であった。菩薩は数々の出来事において、菩薩として最大限の智慧と慈悲で、人々や動物たちと関わり、その天性の福徳を示された。ざっとこんなところでしょうか。そして、その菩薩も遷化されていたわけです。生まれ変わっていたわけです。もういいでしょう。水戸黄門の印籠ではありませんが、毎回みごとに解決していたわけです。そして最後の生を享けた。修行が進むと、自分の過去世が見えるといわれます。宿命しゅくみょう通といって、六神通の一つとされています。こう申し上げると決まって超人的な能力など信じられないと頭から否定してかかる輩が多いのも承知しておりますが、ここは黙って聞いて下さい。肝心なことは、修行してもいない人が、修行の結果得られたことを聞いても、訳が解るはずもないということです。今日までの数々の真理の言葉を聞いても、他人事に聞こえるのです。そのような人々にこそ適当なときに供物をささげよ。バラモンが功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と繰り返し説かれたにも関わらず、自分には遠いこと、出来るはずのないこと、偉大な人であることはわかるが、自分にはとても無理だと。そうしたスタンスで聞いているのです。誰のことでしょうか。そうです。この節のマーガさんであり、私たちであります。このブッダの言葉は、そうした他人事として聞いている人に、眼の前の私が二度と生を享けないブッダであることを明らかにされたシーンなのです。いわば最初で最後の教えであります。菩薩として何度も生まれ変わった者が最期にやっと到達した境地です。おいそれと聞ける話ではありません。そういうほとんどあり得ない究極の人に、今、時間と空間を超えて私たちも出会っています。これはブッダがマーガさんに話したことを聞いているものですが、それなら他人事で終りです。世間話のように、ふーんと聞き流せばいいでしょう。が、自分がマーガさんと同じ立ち位置で聞いたとき、どう思い、どうするかであります。お経を他人事にするか、吾が事として受け止めるか。これは全く自由であります。ブッダにささげる供物とは何か。適当な時とはいつなのか。それが明日の言葉で明確に示されます。乞うご期待。

適当な時とはいつぞ供物とは(月路)

いよいよ本節も大詰めに入っております。ずいぶん力も入っております。この記事は昨晩書くつもりでいたのですが、昨日は一日大阪そして奈良へと春彼岸のお参りの運転手でありましたので、疲れて眠ってしまいまして、三時に起きて二時間もかけて書きなぐりました。読み返すと、自分に対する怒りを感じますね。それはともかく、今日は早く敦賀に戻らなければなりません。この辺でペンを置きます。引っ越し、引っ越し、今日はマンションから敦賀の寺へ。

『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享(う)けることはない』ということを、この世で如実に知っている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 

スッタニパータ358

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
執著――upādāna.

以上註記より引用した。

この節の締めは、解脱した人が涅槃に入ったことをヴァンギーサさんが確信したところで終わります。なぜそう言えるのか。それは「執著の根元」という言葉の意味を考えれば解ります。

執著が始まるのは母胎に宿ったときから。へその緒から無意識に栄養を取り込み、猛スピードで成長していきます。この頃は生きたいなどといった半端な考えは持ちません。赤ちゃんの生命力の強さは、真冬で裸同然で投げ出されようと、崖から転げ落ちようとちょっとやそっとでは死にません。もちろん放おって置かれれば脆い命ではありますが、必死に泣きわめき援助を求めるのです。誰もが愛くるしく、援助せずにはおれない力を最大限に発揮しています。これが人間の執著の根元です。

子供から大人へ変貌しても、この執著は衰えることはありません。知恵がつき図々しくなっていきますが、さまざまな形態をとりながらも、執著はモンスターのように大きくなっていきます。自己への執著は、妄想を限りなく想起し、感情が理性を完全に支配し、理屈で雁字搦めに自己を縛り、人間を化物にしてしまうのであります。執著こそが人間の本質といっても過言ではないでしょう。自分が誰よりも自分を一番愛しているという事実です。

結局この世に生まれたということは、地獄の始まりであります。自分の主張が通らないからといって競売に附される予定の自宅に火を付け、創作爆弾を腹に巻いて自殺した人が周りに重軽傷をはじめ、多大な迷惑をかけていいわけがありません。しかしながら殆どの人々は自分の姿であるとは思っていません。いい年をして馬鹿な人迷惑な話で片付けているのです。自分もいずれ棺桶に入れて頂き火葬場で焼却してもらう身でありながら。

そうしてまた生まれてきます。これが死魔の領域という名の輪回の姿です。目出度い、おめでとうと喜びます。ですが、本当にお目出度いでしょうか。これからの人生をわずかな希望や喜びで騙されながら、健気に生きていくだろう赤ちゃんを見たとき、自分を見るのです。これは世間一般の目からみれば、大変にマイナス思考、暗い考え、虚無主義と思われるに違いありません。ですが、残念ながら事実です。じつに明白な理法なのです。

永遠の命というのは、この世に二度と生まれないことです。不生ということです。そして最後の死を迎えます。二度と死なない。不死ということです。これを涅槃と呼んでいます。輪廻からの解脱。これが修行の完成であり、ブッダになるということ。すなわち成仏です。これは教えられていないと解りません。聞きたくないことかもしれませんが、事実であり理法であります。輪回から解脱した人が死ぬことを般涅槃(はつねはん)と呼ぶのであります。

先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。
ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

スッタニパータ346

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

346 われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが全く亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ヴァンギーサさんのブッダに対する懇請が続きます。ここで疑惑は疑団とも読み取れます。こころにわだかまっている疑い、疑問を解決したいと願うのが修行者の真摯な態度であります。彼のもっとも知りたいことは、全く亡くなったかどうか、その一点でありました。一般的な生を全うしたという意味ではありません。全き死というのは解脱し完全な涅槃に入ることを指します。二度と母胎に宿らない、すなわち不生を完了したということです。

これは誰にもわからないはずです。何しろ亡くなったのですから確かめようとてない話です。質問自体が適切さを欠くでしょう。ここが哲学とは違うところでありまして、宗教的な匂いがするかもしれません。ところがブッダ釈尊は見事にその疑問を解き明かしてくれるのです。ブッダに誤魔化しはありません。誰もが納得できる言葉で明瞭に完璧にお答えになるのです。今は信じられないかもしれませんが、それこそ疑ってかかっていいのですが、あなたご自身が質問していると仮定して、試しにブッダの代わりに回答してみてください。さて何と答えられますか?

智慧豊かな人、あまねく見る人、この上ない人よ、と最上の敬意をもって懇請するのですが、如来十号の原型がここに見て取れます。この尊称は決して大袈裟なものではなく儀礼ではないのです。正にこのような形容に値する人物であった。だからこその尊称であり質問であることを確認しておきたいと存じます。

さて今日は、わたしの発願(ほつがん)の日であります。昨年の今日、このブログを始めようと決意しました。そして二週間後の10月27日より第一日目をアップしたのです。まもなく一年経とうとしています。あの頃と今は全く違う生活を送っています。マイクロサンガを毎日更新するということは、毎日欠かさず日記を書くということでもありました。そんなことが出来るとは思っていなかった。続けられたのは友の厳しくも優しい眼があったからです。毎日二人だけが見て下さいました。ここに改めて厚く御礼申し上げます。こうなったら命の続くかぎり続けます。

われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが全く亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

スッタニパータ273

第二 小なる章

〈5、スーチローマ〉

273 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起るかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかつて渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本節締めの詩は、神霊(夜叉)に向って仏法の何たるかを高らかに宣言されています。人間が煩悩の原因である妄想そして執著の元をはっきりと知って除き去る。それは煩悩という名の激流を渡り、再び人間として生まれてくることのない「不生」に至ることであり、それゆえに「不滅」であると。

生存というものが真に価値あるのであれば、何度でも再生を願うべきでありましょう。生まれ変わりという輪廻が真の幸福であるならば「不死不生」を目指す必要とてありません。

私たちの一生は苦しみと悲しみに満ち溢れています。一時的な満足感や幸福感あるいは克服によって乗り越えることはできても、また新たな波に襲われ最後にかならず死の時を迎えます。どのような財宝や資産があっても、愛しい人々との別れは必然であります。

このことをどう捉えるかによって生き方が変わります。二度と生存を受けない道を選ぶのか、それとも縁をもって再生を望むのかであります。これは自由選択に委ねられています。ただオール・クリアの再生などはあり得ません。それが輪廻の理法であります。

つぎの節ではその「理法」について詳しく説かれています。

神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起るかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかつて渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。

 

スッタニパータ166

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

166 諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行くかれに近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

「死の縛(いまし)め」とは生まれたものは必ず死ぬという苦しみであります。これほど苦しいものはないのであります。素直に観れば死という縛めは生の代償でもあるかのようです。この縛めを解くには、生まれてこない以外ないのです。この世に生まれることは、いずれ死ぬということを免れない事実であります。二度と生まれ変わらないことを不生と呼び、不生なるゆえに不死と言います。ブッダはまさに不死の身であります。

地震で吾が家が倒壊し家族が死ぬなどとは今日の今日まで信じられなかったかもしれません。しかしながら地震国ニッポンに住んでいる以上、明日はどこであっても大地震の被害に遭う可能性があります。また車社会であることなどから交通事故に遭う可能性もあります。じつに私たちは死と隣り合わせであり、老若男女決して例外はありません。

その厳粛な事実を目の当たりにせず、眼を背け、他人事にしているのが普通の人々であります。だから死に直面すると驚くのです、何故と。生まれたものが死ぬのは必然であり、それがいつであっても何の不思議もないということを骨身に沁みていなければなりません。言うなればそれが仏教の最大の智慧です。生と死を生死(しょうじ)と呼んで、これを心の底から理解すれば、人生は見事に明るくなります。なぜならば日々を自分らしく精一杯生きていくことが「自然」にできるようになるからです。恐れるものは何もありません。

生きながら一度死んで見る。死んで死んで死んで死にきってみると、生きていることに漸く気づきます。これが修行であります。修行は一生続くものですが、現実に辛い修行はせいぜい3年ぐらいのものでしょう。そのあとは辛いのが当たり前、死ぬまで楽はないことに気づいて慣れてまいります。そうなれば何があっても平常心、へっちゃらなのであります。

諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行くかれに近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」

スッタニパータ162

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

162 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
煩悩の汚れ――第八二詩に対する註参照。
明知(vijja)があり、行いが全く清らかである(samsuddhacarana)ということから、後には、仏は「明行足」(vijjacarana-sampanna)であるとされて、それが仏の十号の一つとなった。
以上註より

明知とは、はっきりと知ることです。はっきりと知っていて、清らかな行為を行っている人のことを「明行足」(みょうぎょうそく)と呼びます。ブッダの別名であります。如来十号の一つであり、もっともわかりやすいブッダの別名であります。

また本詩では、煩悩の汚れの消滅ということを説いています。煩悩は誰にでもありそれに心が汚れている状態であるのが普通ですが、その汚れを消滅しているというのです。大変分かりやすい表現かと思います。修業によって煩悩は消えませんが、煩悩による心の汚れはきれいに掃除できるのです。あたかも誇りやチリは積もりますが、雑巾やタオル一つでピッカピカになるようなものであります。

さらに「もはや再び世に生まれるということがない」という再誕しないことが確認されます。ブッダが再び世に出現することはないのです。自分はブッダの生まれ変わりだという人は、ブッダと認めていないことになり、自己矛盾していることが明白であります。いずれそのような邪教は自ら崩壊していきますから、何も心配いらないのですが、今現在囚われている方々が気の毒で仕方がありません。とにかくブッダは二度と母胎に戻ることがないのです。生まれ変わらないのです。これを不生と呼びます。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」