タグ別アーカイブ: 五戒

スッタニパータ399

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

399 けだし諸々の愚者は酔(よい)のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。この禍いの起るもとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、しかしひとを狂酔せしめ迷わせるものである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
以上において、五戒〔(1)生きものを殺すなかれ、(2)盗むなかれ、(3)邪淫を行うなかれ、(4)いつわりを言うなかれ、(5)酒を飲むなかれ〕が簡単に述べられているのである。仏教徒である限り、必ず守らねばならぬ最初の戒律規定である。

以上註記より引用した。

この五戒は全て「殺すなかれ」に包含されると思うと申してまいりました。その訳は、生きものは、かならず死ぬからです。

五戒について

  1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)
  2. 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
  3. 不邪淫戒(ふじゃいんかい)
  4. 不妄語戒(ふもうごかい)
  5. 不酤酒戒(ふこしゅかい)

並べてみて改めて気づいたのは、水滸伝という物語のテーマは、もしかして五戒ではないだろうか?と誤解してしまったからです。どうもすみません。北方謙三の水滸伝が流行っていることに驚きます。なぜだろうか?と思って読んでみました。あれは原作と全く違う物語ですね。ただしテーマは全く同じです。

人生というドラマに「殺・盗・婬・嘘・酒」は付きものであります。人類の歴史といっても過言ではありません。「酒と涙と男と女」歌の文句じゃないけれど、悲しい現実ではありませんか。ブッダは現実を適確にとらえて、その結論を端的に述べられたものと承知いたします。

不。何々をしない。戒。いましめは自らを戒めることです。誓いとは違います。何かをしないと自らを戒めながらも、やってしまうことだってあります。その結果、地獄に落ちる。

「南無地獄大菩薩」たしか白隠禅師の晩年に掲げられた到達点であったと思います。地獄に落ちて、地獄の者たちと一緒に這い上がる気概というか、祈りというか、誓いを強く感じました。

「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」悪人正機という親鸞聖人の歎異抄のことばです。私は正しい、あいつが間違っているという人が善人。私が悪い、あいつは悪くないという人が悪人。世の中善人ばかり。悪人が少ない。勘違いかもしれませんが、善き教えであると心底思います。

ある村を去って次の村へ旅立とうとされたブッダ釈尊を、村の長をはじめ村中の者たちがもうしばらくお留まり下さいと懇願しましたが、ブッダの意思は堅く、まもなく立ち去ろうと準備されておりました。そのときスードラ(奴隷の身分)の少女が、私もお願いをしたいと申し出ました。村の者たちは、私らが供養の品をもってお願いしてもお留まり下さらぬものを、スードラの娘がいったい何を差し上げるというのだと皆で嘲笑しました。それでも彼の少女は、おそるおそるブッダの前に出て額ずき申し上げました。

五戒をまもります

ブッダが村に留まれたことは申すまでもありません。わたしはこの話を初めて聞いたとき、涙が止まりませんでした。今でも胸が熱くなります。理屈じゃない。教えは実行してなんぼです。何も差し上げる物がない、貧乏の極みの少女がブッダの心を動かしました。ブッダの衣の裾をとって差し上げ、直接お会いして教えを受けることの出来ない私たちは、ブッダの教えを実行する他ありません。何万巻のお経を読破しようと、仏教の本をどれだけ読もうと、たった一つの実践には遠くおよびません。当たり前です。

泣きながら 富有柿ひとつ 買いにゆく

三つ上の姉が叱られて、近所の八百屋に小銭をもってお使いに行く、五十年も前の姿を思い出しました。貧乏だった我が家は、子供たちにおやつを買ってやれませんでした。その時の亡き父や母のこころを想うと、目頭がまた熱くなります。

けだし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。この禍いの起るもとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、しかしひとを狂酔せしめ迷わせるものである。

 

スッタニパータ161

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

161 七岳という神霊は答えた、「かれは欲望の享楽に耽らない。またその心は濁っていない。すべての迷妄を越えている。目ざめた人として諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
欲望の享楽に耽る――kamesu rajjati.物に執著して欲しがったりしない、という意味に註釈は解している。(中略)しかしvyapadena云々は本文の中に出てこない。ここでは、男女間の性の享楽に言及しているのではなかろうか。
以上においては、〈これこれのことをしてはいけない〉という教えが雑然と説かれている。まだ体系化されていない。五戒や十善の体系ができる以前のものであることが解る。
以上註より抜粋して引用した。

ここで重要な事は、仏教の教理は後の比丘や仏教学者が原始仏典をもとに些か論理的に体系化したものであるということです。これは論理的な理解を扶けるものではありますが、反面ブッダの生の声の迫力であるとか情景といった実感が削ぎ落とされるきらいがあります。最初期の仏典は、現実の中から心のあり方、生き方、歩み方をそれこそ現実感を持って今に伝えてくれています。この節の神霊たちの質問と回答にしても心配しながら問いかける神霊に対し、安心してほしい彼は間違いない覚者であると答えるスタイルをとっています。まるで映像のように伝わってくる文面から、箇条書きの教えにないリアルな教え、生の声として心の内に聞こえてくるようであります。

七岳という神霊は答えた、「かれは欲望の享楽に耽らない。またその心は濁っていない。すべての迷妄を越えている。目ざめた人として諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている。」

スッタニパータ159

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

159 七岳という神霊は答えた、「かれは嘘をつかない。また粗暴なことばを発しない。また中傷の悪口を言わない。くだらぬおしゃべりを言わない。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダの説かれた戒めには44条あるとされています。Sallekha-suttaサッレーカ・スッタ「戒め」と題されたお経があります。弟子であるマハーチュンダ長老(尊者)に44条の具体的な戒を授けられています。以下に英訳と邦訳を掲げておきます。仮に「戒経」と呼ぶことにします。

戒めは何のためかと申せば仏教の目的である「慈しみ」を保つための具体的な方法であります。現代的に申せば人間性の向上のための指針と捉えることもできます。慈しみをもった人間でなければ人々を導いていくことができないからであります。闇を照らす明かりとなるのは自らを戒めて向上している人だけと申し上げておきましょう。

Sallekha-sutta(英訳)

  1. Others will be harmful; we shall not be harmful here — thus effacement can be done.
  2. Others will kill living beings; we shall abstain from killing living beings here — thus effacement can be done.
  3. Others will take what is not given; we shall abstain from taking what is not given here — thus effacement can be done.
  4.  Others will be unchaste; we shall be chaste here — thus effacement can be done.
  5. Others will speak falsehood; we shall abstain from false speech here — thus effacement can be done.
  6. Others will speak maliciously; we shall abstain from malicious speech here — thus effacement can be done.
  7. Others will speak harshly; we shall abstain from harsh speech here — thus effacement can be done.
  8. Others will gossip; we shall abstain from gossip here — thus effacement can be done.
  9. Others will be covetous; we shall not be covetous here — thus effacement can be done.
  10. Others will have thoughts of ill will; we shall not have thoughts of ill will here — thus effacement can be done.
  11. Others will have wrong views; we shall have right view here — thus effacement can be done.
  12. Others will have wrong intention; we shall have right intention here — thus effacement can be done.
  13. Others will use wrong speech; we shall use right speech here — thus effacement can be done.
  14. Others will commit wrong actions; we shall do right actions here — thus effacement can be done.
  15. Others will have wrong livelihood; we shall have right livelihood here — thus effacement can be done.
  16. Others will make wrong effort; we shall make right effort here — thus effacement can be done.
  17.  Others will have wrong mindfulness; we shall have right mindfulness here — thus effacement can be done.
  18. Others will have wrong concentration; we shall have right concentration here — thus effacement can be done.
  19.  Others will have wrong knowledge; we shall have right knowledge here — thus effacement can be done.
  20. Others will have wrong deliverance; we shall have right deliverance here — thus effacement can be done.
  21. Others will be overcome by sloth and torpor; we shall be free from sloth and torpor here — thus effacement can be done.
  22.  Others will be agitated; we shall be unagitated here — thus effacement can be done.
  23. Others will be doubting; we shall be free from doubt here — thus effacement can be done.
  24. Others will be angry; we shall not be angry here — thus effacement can be done.
  25. Others will be hostile; we shall not be hostile here — thus effacement can be done.
  26. Others will denigrate; we shall not denigrate here — thus effacement can be done.
  27.  Others will be domineering; we shall not be domineering here — thus effacement can be done.
  28. Others will be envious; we shall not be envious here — thus effacement can be done.
  29. Others will be jealous; we shall not be jealous here — thus effacement can be done.
  30.  Others will be fraudulent; we shall not be fraudulent here — thus effacement can be done.
  31. Others will be hypocrites; we shall not be hypocrites here — thus effacement can be done.
  32.  Others will be obstinate; we shall not be obstinate here — thus effacement can be done.
  33. Others will be arrogant; we shall not be arrogant here — thus effacement can be done.
  34. Others will be difficult to admonish; we shall be easy to admonish here — thus effacement can be done.
  35. Others will have bad friends; we shall have noble friends here — thus effacement can be done.
  36. Others will be negligent; we shall be heedful here — thus effacement can be done.
  37.  Others will be faithless; we shall be faithful here — thus effacement can be done.
  38. Others will be shameless; we shall be shameful here — thus effacement can be done.
  39.  Others will be without conscience; we shall have conscience here — thus effacement can be done.
  40. Others will have no learning; we shall be learned here — thus effacement can be done.
  41. Others will be idle; we shall be energetic here — thus effacement can be done.
  42. Others will be lacking in mindfulness; we shall be established in mindfulness here — thus effacement can be done.
  43.  Others will be without wisdom; we shall be endowed with wisdom — thus effacement can be done.
  44.  Others will misapprehend according to their individual views, hold on to them tenaciously and not easily discard them;[18] we shall not misapprehend according to individual views nor hold on to them tenaciously, but shall discard them with ease — thus effacement can be done.

戒めの経(邦訳)

  1. 他の人は他者を害するが、私たちは加害者であってはならない。 このように戒めることができます。
  2. 他の人は生きものを殺すが、 私たちは殺生しないようにしなければならない。このように戒めることができます。
  3. 他の人は与えられていないものを取るが、私たちは与えられていないものを取らない。このように戒めることができます。
  4. 他の人は不貞を行うが、私たちは貞淑なものでなければならない。このように戒めることができます。
  5. 他の人は虚偽を話すだろうが、 私たちは虚偽の発言を慎しむ。このように戒めることができます。
  6. 他の人は悪意を持って(悪口を)話すが、私たちは悪意のある発言を(悪口を)控えるものとする。このように戒めることができます。
  7. 他の人は厳しく話(暴言)するが、私たちは厳しい発言(暴言)を控えるものとする。このように戒めることができます。
  8. 他の人は無駄話をするが、私たちはこれを避けなければならない。このように戒めることができます。
  9. 他の人は強欲になるが、私たちは強欲であってはならない。 このように戒めることができます。
  10. 他の人は激怒するが、私たちは激怒してはならない。このように戒めることができます。
  11. 他の人は間違った見解(邪見)を持っているが、私たちは正しい見解(正見)を持っていなければならない。このように戒めることができます。
  12. 他の人は間違った意思(邪思惟)を持つが、私たちは正しい意思(正思惟)を持っていなければならない。 このように戒めることができます。
  13. 他の人は間違った言葉(邪語)を用いるが、私たちは正しい言葉(正語)を用いなければならない。このように戒めることができます。
  14. 他の人は罪を犯すが(邪業)、私たちは正しいことを実行しなければならない(正業)。このように戒めることができます。
  15. 他の人は間違った生活(邪命)をするが、私たちは正しく生計を立てるようにしなければならない(正命)。このように戒めることができます。
  16. 他の人は間違った努力(邪精進)をするが、私たちは正しい努力(正精進)をしなければならない。このように戒めることができます。
  17. 他の人は間違ったマインドフルネス(邪念)を持っているが、私たちは正しいマインドフルネス(正念)を持っていなければならない。-このように戒めることができます。
  18. 他の人は間違った精神の統一(邪定)をするが、私たちは正しい精神の統一(正定)をする。このように戒めることができます。
  19. 他の人は間違った知識を持っている(邪智者)が、私たちは正しい知識を持っていなければならない(正智者)。このように戒めることができます。
  20. 他の人は間違った解脱を目指すが、私たちは正しい解脱を目指していなければならない。このように戒めることができます。
  21. 他の人は怠け(だらけ)と無気力(眠気)に陥るであろうが、私たちは怠惰(だらけ)と無気力(眠気)があってはならない。このように戒めることができます。
  22. 他の人は混乱しているが、私たちは混乱しないようにしなければならない。 このように戒めることができます。
  23. 他の人は懐疑的であるが、私たちは疑いから自由でなければならない。このように戒めることができます。
  24. 他の人は怒っているが、私たちは怒ってはいけない。このように戒めることができます。
  25. 他の人は(怨み)敵対するが、私たちは(怨み)敵対しない。 -このように戒めることができます。
  26. 他の人は他者を過小評価するが、私たちは他者を侮辱してはならない。このように戒めることができます。
  27. 他の人は横暴になるが、私たちは横暴であってはならない。このように戒めることができます。
  28. 他の人は嫉妬するが、私たちは嫉妬してはならない。 -このように戒めることができます。
  29. 他の人は物惜しみするが、私たちは物惜しみしてはならない。このように戒めることができます。
  30. 他の人は見栄を張るが、私たちは見栄を張らない。 このように戒めることができます。
  31. 他の人は偽善者になるが、私たちは偽善者であってはならない。このように戒めることができます。
  32. 他の人は頑固であるが、私たちは頑固にはならない。 このように戒めることができます。
  33. 他の人は傲慢になるが、私たちは傲慢であってはならない。このように戒めることができます。
  34. 他の人は訓戒するのが困難(反抗的)であるが、 私たちは訓戒しやすい(素直な)ものでなければならない。このように戒めることができます。
  35. 他の人は悪友とつきあうが、私たちは善友とつきあうようにしなければならない。このように戒めることができます。
  36. 他の人は怠るが、私たちは怠らないようにする。 このように戒めることができます。
  37. 他の人は不安であるが、私たちは確信をもつ。このように戒めることができます。
  38. 他の人は恥知らずであるが、私たちは悪を恥じる(慙愧) 。このように戒めることができます。
  39. 他の人は悪を怖れないが、私たちは良心をもたなければならない。 このように戒めることができます。
  40. 他の人はあまり学ばないが、私たちはよく学ぶ。このように戒めることができます。
  41. 他の人は怠けているが、私たちは熱意をもって励む。このように戒めることができます。
  42. 他の人は不注意であるが、-私たちはマインドフルネス(念・気付き)を絶やさない。このように戒めることができます。
  43. 他の人は無智であるが、私たちは智慧を備える。 このように戒めることができます。
  44. 他の人は自らの主観にとらわれ、しがみつき、捨てられないでいるが、私たちは自らの主観にとらわれることなく、しがみつくことなく、簡単にそれらを捨てられる。このように戒めることができます。

以上の戒めは具体的であり、後世の金科玉条的な戒律とは明確な一線を画す、修行の実践方法であります。何度も読み返し、その現実的な意味を体に覚えさせたいものです。

七岳という神霊は答えた、「かれは嘘をつかない。また粗暴なことばを発しない。また中傷の悪口を言わない。くだらぬおしゃべりを言わない。」

スッタニパータ158

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

158 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
粗暴なことば――註釈にしたがって解した。
中傷の悪口――vebhutiya.註解に言う。
以上註より抜粋して引用した。

本詩と次詩もまた対をなして問答が繰り返されていきます。今回は言葉に関しての特集です。

①嘘をつかない②粗暴な言葉を発しない③中傷の悪口をいわない④くだらぬおしゃべりを言わない、以上の4つを確認しています。いかがでしょうか。

これには誰もが耳が痛いのです。普通の人々は平気で①嘘をつき②粗暴な言葉を発し③中傷の悪口をいい④くだらぬおしゃべりを交わすのであります。自分にとって都合の良いとか悪いとかの問題ではありません。これらの資質は人間性のうえでの善悪であります。人間性の悪い者が幸せに豊かに暮せるはずがないのです。人間性の善い者が不幸になっても貧乏であっても、少しも傷つかないのです。それは人間としての誇りです。崇高な人々は、自分に誇りをもっています。静かであって心が安らかで堂々と生きているのです。何も食べなくても、ただ水だけ飲んで、おいしいと満足する余裕であります。武士は食わねど高楊枝といった痩せ我慢ではありません。何も食べるものがなかったら、何とかしようと努力するのです。それまでは水を飲んでいたら大丈夫だという明るいこころです。そうなのです。生きものや人々に対する慈しみは、まずもって自己への慈しみからはじまります。自分を誰よりも大事にするが故に慈しみの心は育まれます。そうやって少しずつ弛まぬ努力をすることが向上のための努力です。

他人のこころと自分のこころを一つにはできないかもしれません。そういう無駄な努力を行わずに、自分のこころを一つにする。慈しみの心で満たす努力を続けていきましょう。今日の言葉の四つの戒めは、自分を縛るものではありません。自己を向上させる大事な道具だと思って積極的に身につけてまいりましょう。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」

スッタニパータ156

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

156 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

与えられないものを取らない。生きものを殺さない。怠惰から遠ざかっている。精神統一を行っている。すべて基本的な姿勢と態度であります。後代において戒律として徐々に箇条的に整えられるのですが、原始仏典では戒律というよりも生活身上(信条)といった色彩が強い感じがいたします。

「与えられていないものを取らない」というのは「盗まない」というよりも厳格です。盗むという意思に拘わらず、所有する権限がないのに、他人のものを手にしないということです。たとえば置き引きはもちろん盗みですが、だれのものか分からないからといって勝手に自分のものにしないことです。

「生きものを殺さない」というのは大変厳格なことであります。虫一匹殺さない、魚や鳥などを捕って食べない、家畜を飼わないことであります。ただし魚や肉を食べないということではありませんでした。すでに食肉となったものを頂きそれを食べることは問題なかったのであります。それは自らが殺していないからです。後代には肉食そのものも禁止されていきます。

怠惰から遠ざかることは、現実的な戒めであります。人が見ているところでの怠惰というのは普通ほとんどありません。そのような人は何かに囚われているか病的なことでありますから医師や臨床心理士など専門家の診察と治療が必要です。問題は誰も見ていないところでの怠惰です。これによって人生や人が決まると申し上げてよいでしょう。積極的な毎日の努力なしにこの怠惰から遠ざかる術はありません。

精神の統一、後に禅定と呼ばれることとなるこのメニューは、坐禅や瞑想といった外観のことではありません。ブッダは心を統一しなさいと教えられているのです。静かに姿勢を整えてリラックスした状態で、慈しみのこころをまとめていく作業です。生きとし生けるものが幸せであるようにと、ただその一念に心を統一することなのです。すべては慈しみのために思い感じ考え観じていくことなのです。

このようにブッダの教えは、非常に前向きな生き方、もっとも優しい姿勢、自分に厳しく公正であるといった成功の条件でもあるといえます。戒律といった消極的な捉え方ではなく、ブッダのように「立派な心」を持とうという積極的な捉え方をすれば、仏教がもともと明るい宗教、前向きな哲学であったことを知ります。

「人の心を照らす教え」それが仏教の醍醐味でありましょう。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?

スッタニパータ150

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

150 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
障害なく――asambadham(=sambadhavirahitam,bhinnasiman ti vuttam hoti,sima nama paccatthiko vuccati).場所に関しても限界を設けることなく、分け隔てをしないことである。以上註より

この詩句は丁度スッタ・二パータの150番目に当りますから、ぜひ憶えておきましょう。なぜならブッダの布教姿勢を端的に言い表しているからであります。まず全世界に対してと宣言されています。2500年前のインドの一地方において堂々と全世界に無量の慈しみの意を起すべしとあります。

さらに上に下に横にというのは世間の身分や年齢の上下、地位や立場に関係なく、だれに対しても、どのような存在(動物だろうが植物だろうが)であっても、時間や空間さえも超えて過去の様々な思い(怨み・憎しみ・敵意等々)をもつことなく、慈しんでいくべしであります。

こういう姿勢の原則からブッダ成道の35歳より入滅の80歳に至るまで、ずっと旅されていました。まさにブッダの旅は慈しみの旅であったわけであります。

あるときブッダはある村をもうそろそろ出て旅に出ると仰られました。その時むらの者たちはこぞって何度もお留まり頂くようお願いしましたが、ブッダの決意は固く出発の準備をされていました。そこへ一人のスードラ(奴隷の身分)の小さな娘が「わたしがお願いします」と申し出たのですが、むらの者たちは、長老たちがお願いしても無理なものをお前がと笑っていました。その娘はブッダの前に額ずくと「私は五戒を守ります。どうか残って教えをお説き下さい」と。ブッダはそれからまた暫らく滞在されたとのことです。

わたしはこの話を最初聞いたとき涙が止まらず、いまこうして思い出しながら書いていますが涙が止まりません。お話の詳細は覚えていませんが、五戒を守るという心に、ブッダさえも心が動き、そして2500年の後までも時間と空間を超えて、ブッダの慈しみが伝わっているのであります。この慈しみを多くの方々に伝えたい、その一心であります。

また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

スッタニパータ132

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

132 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑(いや)しくなった人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
卑しくなった──nihino.
これを後代の漢訳仏典では「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)という。自分をほめて他人をそしってはならぬ、というのである。
以上註より抜粋して引用した。

自画自賛の自讃です。自惚れともいいます。また毀誉褒貶(他人をほめたり、けなしたりすること)の毀に他人の他と書いて毀他、他人を貶すことです。不(何々)戒は五戒では例えば不殺生戒のように何々してはならないというほどの意味です。これは誰かに命令されてこれを守るといった隷属的なものではありません。神の戒めを守るというような信仰的なことでなくして、決して何々をすまいといった自己誓約に近いと思います。日本語でいえばまさしく「いましめ」であります。

自惚れや嘲りをする人間を思い浮かべてください。それが自己であれ他者であれ恐らくは好ましく思わないことでしょう。高慢ちきな人間ほど分際を忘れております。お坊さんの場合は立場や地位のことを、身分とは言わず、分限(ぶんげん)と呼んでいます。身の程です。身の程を知り、向上のために努力すること、それ以外じつは何もないのであります。

自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑(いや)しくなった人、──かれを賤しい人であると知れ。

 

 

スッタニパータ129

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

129 バラモンまたは〈道の人〉、または他の〈もの乞う人〉を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
バラモンまたは道の人……
──第100詩参照
以上訳注にありました。

これは「破滅への門」と同じです。

嘘をつかないことは五戒にも謳われた最重要な戒めでありますが、中でも修行者などの乞食(こつじき)に対して、嘘をついて騙すことはもっての他だと説いておられます。考えても見てください。世間のしがらみを捨てて、修行に専念している人は生活の糧である食(じき)を人々に乞うしか方法がないのです。お金を得ようとして仕事をすればもう修行者(沙門)とは呼べないからです。ですから鉢(はつ)をもって食を乞う乞食行(こつじきぎょう)托鉢(たくはつ)をするわけです。その修行者の鉢の中に道端の石ころ(価値のないもの)を入れたとしたら、破滅であり賤しい人であると断定されるのであります。これは例えでありますから、このように修行者に嘘をついて騙すことを強く戒められていることを、しっかりと認識しておきましょう。

バラモンまたは道の人、または他のもの乞う人を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。

スッタニパータ123

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

123 或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
相愛して──sampiyena.男も女も両者ともに愛情を以って、の意(中略)
親族……の──n-atinam.
友人の──sakha-nam
交わる──patidiasati.不法な、逸脱した交際をする、という意味である。
では「親族または友人の妻でない人」と交わるのはかまわないのか、という問題が起る。仏典では一般に、父または夫の保護下にある女人と交わることをきびしく禁じている。それ以上には、範囲の問題にはあまり触れることなく、むしろ男女関係そのものに対して一般的に禁遏(きんあつ)的であった。以上註より抜粋しました。

禁遏とは禁じてやめさせることを謂います。仏教の三大原則は戒律(かいりつ)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)略して「戒・定・慧」(かいじょうえ)の三学と申します。その第一が戒であり、仏弟子となるにはまずもって受戒する必要があります。受戒は主に佛・法・僧の三宝に帰依することであります。すなわちブッダとその教えとその教えを実践する仲間に帰依(心の拠り所と)することであります。

ですから教えを守ることが戒めであり、教えを実行することが禅定であり、教えを活かすことが智慧であって、禁遏的ではありますが禁遏そのものではありません。ブッダは「ただ道を教える」のが原則的な態度なのです。強制ではなく自らが教えを守り実践していく徹底した自主性のうえに成り立っております。

そうした大原則を理解したうえで、この邪淫の戒め「不邪淫戒」(五戒の一つ)を捉えてみましょう。邪淫の中でも、もっとも賤しいものとされている行為に至る者が、破滅を免れないことはいうまでもありません。

或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、──かれを賤しい人であると知れ。

スッタニパータ108

第一 蛇の章

<6、破  滅>

108 「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、──これは破滅への門である。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
では、他人の妻でもなく、遊女(vesiya-)でもない女たちを玩ぶことはどうなのか?ガール・ハントをしてもよいか、どうか。恐らく当時は若い男女の交際はあまり自由ではなかったので、そのことは問題とされなかったのだろう。現代のインドにおいても、若い男女の交際に関する制約は、一般に厳しい。と註にあります。

現代の日本においては、若い男女の交際に関する制約は、一般に?です。

この詩句にみるブッダの警告は、限定的なものというより、例示的にいわゆる不倫行為や邪淫な行為を強く戒められたものでありましょう。ふつうに偏見なく解釈すればそうなります。昨日それこそ例示的に掲げたケース以外にも、性病や様々な病気に感染することもあれば、覚醒剤や麻薬といった悪の道に陥る(おちいる・ハマる)原因ともなりかねません。

仏教一般の五戒の中にも不邪淫戒(不道徳な性行為を慎むこと)として掲げられております。夫婦間の性交だけに満足せず、買春や不倫をしていれば知りませんよということです。思った以上に大変なことになる可能性が高いのです。想定の範囲を超えるかもしれません。それほど怖いことです。破滅というのは文字どおり破滅です。単なる失敗なら誰でもあるでしょうし、立ち直ることもあるでしょうが、破滅というのはおよそ回復ができない、文字どおりの破滅を意味します。地獄といってもいいでしょう。

破滅への門は、地獄の入り口、悪魔のささやきが聞こえてくるのです。

「ちょっとぐらいいいだろう、だれも見ていないし、これぐらいは」