タグ別アーカイブ: 仏道

スッタニパータ587

第三 大いなる章

〈八、矢〉

587 見よ。他の〔生きている〕人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世でふるえおののいている。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

業論というものがあります。これは、非常に危険な、取扱注意のしろものです。悪しき業論ともいわれています。

今日の言葉には、「人々は自分の造った業に従って死んでいく」とあります。生まれ変わったら、こうなるということではありません。

悪所へ行くか、善所に行くか。これは生前に為した善悪の業による報いを受けるということでありますが、人智では計り知れません。恐れおののく前に、為すべきことがあります。それが何かは、自分でわかります。何をしてならないかも自分が知っています。では、どうしたら良いかという方法は、道といいます。教えがあって、これを実践していく。実践をしなければ、それは道ではありません。仏道の仏道たる所以です。

スッタニパータ490

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人──kevalin.完全に束縛を離れ解脱した人のことを、ジャイナ教ではkevalinと称する。仏典一般ではそういう呼称を用いることはないのであるが、ここでは例外的にジャイナ教と共通な呼称を用いていることから見ると、この詩を作った人はジャイナ教と共通な精神的雰囲気のうちに生活していたことを示す。或る場合には「なすべきことを完了した人」と解せられている。pariniṭṭhitakiccatāyakevali(Pj.p.427,ad Sn.519).

実に執著することなく

世間に暮らしていながら全てにおいて執著しないということは実に至難であります。否、至難というよりも殆んど不可能なことでしょう。これを実行している。世間のどのような眼に晒されていようとも、何事においても動揺することなく毅然と歩みを続けている。これは誰にもなかなか真似ができません。その真似をする。一日真似すれば一日の真似。二日しても三日しても、それは真似であります。ところが、それを一生やっておったらそれは本物や、と教えられています。

一生やる。そうした心がけ。志。具体的には「日常底(にちじょうてい)」に努力を重ねる以外にありません。普段の日常に不断の努力を行っていく。日常こそ修行であるとする所以であります。「修行というと何か特別なものがあると思っておる。そうではなくして、ふつうの毎日の勤め、毎日のなすべきことを黙ってやる。それ以外にないんだ。面倒だとか意味がないとか余計なことを考えておったら、それはみな妄想(もうぞう)や。妄想することが執著(しゅうじゃく)やね。何か考えたらそれは余計や。余計なものはさっさと捨てるほかない。久修練行(くしゅれんぎょう)。それが日常底でなければ仏祖が歩まれた道とは言わんのや」と。

無一物

久修練行とは久しく修行することです。修行という言葉はこの四字熟語が語源です。修行は英語でプラクティスと訳されています。突き詰めれば「日常が修行」ということです。修行に余計なものは何も持たない。だから無一物といえます。無所有ともいいます。人間本来無一物。何も持たない。何も握りしめているものはない。無執着が無一物であるわけです。これが修行の目的です。無一物になれば、無常が「常」となる、つまり解脱するということです。

翻って我々は、余計なものをいっぱい携えて歩んでいます。だから重たい。徳川家康は「重荷を背負いて遠き道を行くが如し」と結んでいますが、これが家康の人生を振り返ったときの実感であったのです。重荷ならば捨てればよろしい。重荷とは責任でありましょう。世間ではそれが常識です。当時トップの座にありながら組織や部下の責任がほとんどで自分は裁可の責任しかないと強弁した自称武士(もののふ)とは大違いです。重荷なら捨てればいい。プライドだとか意地だとか見栄とか、そんなものが重荷です。家康と、ある元知事とは似ても似つかない。重荷を果たした人と重荷から逃げる人。重荷の扱いがまるで逆です。他人事ではありません。誰もが、ある意味、ある元知事と同じなのです。

「仏道を歩む」とかんたんにいいますが、それは仏仏祖祖の道を歩むという重い責任があります。自己が自らの責任で無一物となることが他己の福田となるのだという責任です。重荷かもしれません。重い責任があるということです。できなければただの物乞い、我執です。無一物、かんたんなことではありませんが「捨ててこそ」。何を捨てるべきかは今更申すまでもありません。

自己を制した人

自制。これを完全に出来る人が「全き人」如来であります。宇宙人。全宇宙の尊き人です。めったにお目にかかれません。ですが、おられたのです。ブッダその人です。自己を制したものが全宇宙を制した人であります。己を制することができれば、それは我慢でもなく、辛抱でもありません。耐え忍ぶことが修行の中身です。あの人がこういった。そんな余計な小さなことで目くじらを立てているようでは自制には程遠い。こだわらない、とらわれない。無執着で無一物が自制の姿であります。

発心・修行・菩提・涅槃は仏道の四大要門とも言われています。けだし、正しい発心によって仏門に入り、戒律にしたがって修行し、仏祖の教えを究め解脱して、一切の苦を滅するというものです。今日だけというものではありません。仏門に入った以上は毎日毎時間が全て修行であり、修行以外にはありません。

桜植え紅葉を植えて腰掛けて(月路)

昨日は戴いたモミジの苗木を檀家さんといっしょに玄関先に植えました。寒椿、梅花、桜花、紫陽花エトセトラ、秋には紅葉と季節の彩りが豊かになってまいりました。落ち花もまた風情です。玄関横の階段に腰掛けながら、ちょっと一服。いいものです。ほんの御礼の気持ちでお寺から線香を差し上げました。線香投資。くだらんことを言っている場合ではありません。今日からは福井に戻って引っ越しの準備とか何やらいっぱいあります。ただいま午前三時半。さあ今日も坐禅にはじまり坐禅に終わる如常(日常)が始まりました。さあ、やるぞ。

実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ282

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

282 次いで、実は〈道の人〉ではないのに〈道の人〉であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

外の作務で便利な電動器具のひとつに落ち葉集塵兼吹き飛ばし機能のついたブロアバキュームというのがあります。別に落ち葉が悪い奴らではないのですが、砂利敷きの上に落ち葉があるとスカッとしません。逆にこの落ち葉くんたちを吸い取ったり吹き飛ばしてやると庭も見違えるように整然となるのです。ひとつひとつ手で取るのは大変時間がかかりますので、お寺などの比較的ひろい場所は、この集塵機があるととても重宝します。

この落ち葉くん、放おって置くとだんだん枯れて粉々になり腐葉土として雑草の栄養分になります。ところがこの落ち葉や塵などを日頃こまめに取り除いておくと、明年は草むしりがとても楽になります。何事も日頃の手入れが肝心でありまして、日常の作務の大半がこの草むしりや庭木の手入れであります。掃除・清掃・片付け・処分が外作務(そとざむ)の中心です。お寺もお店と同じで、そこを預かる者の姿勢が問われます。反省しきり、今日は自身への警告としてこれを書いております。

道の人というのは、ここでは仏道を歩む者と解しておきます。いやしくも仏道を歩むと志した以上、世間と同じような贅沢は慎むべきであります。一生楽はないと腹をくくることです。世間が求める楽しみと出世間(しゅっせけん)の安楽とは外観からすれば全く違います。ただ手をこまねいて坐っているようにみえて、その実、坐ることだけに徹しておる様子であります。心の波を鎮めるには、やはり坐禅が一番です。道元禅師様は普勧坐禅儀で、心・意・識の運転を停(や)め、念・想・観の測量(しきりょう)を止(や)めて……、非思量。坐禅の要術なりと説かれました。宮崎奕保禅師は、「何も考えない、思ったことはその場かぎり、握りしめない、いわゆる前後際断や」と申されました。宮崎禅師の禅師号は「黙照天心禅師」(もくしょうてんしんぜんじ)であります。

道元禅師様の和歌の中で、坐禅の境地と思われる有名な歌をご紹介して今日の声と致します。『濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる』

次いで、実は〈道の人〉ではないのに〈道の人〉であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。

スッタニパータ146

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

生物生類――panabhuta.第一の解釈は、pana即bhutaと解する。第二の解釈は、panaとは、呼吸をなし、五つの気質(vokara)より成る生きものを意味し、bhutaとは、一つの気質より成り〔乃至〕四つの気質より成る生きものを意味する。
生物生類であっても――pana-bhut’atthiとあるのはmetreの関係でbhutaの最後のaが省略されたのである。またatthiと単数になっているが、普通のパーリ語では複数形を用いるべきである。主語が中性複数であるときには、動詞が単数で示され得るという現象は、古代ギリシャ語にも見られるが、何らかの心理的根拠があるのであろうか。
怯えている――第三九四詩参照。以上は註より抜粋し引用したものである。

本詩は次の第一四七詩に続いて一句をなすものであります。一切の生きとし生けるものは幸せであれ、との願いであります。これ以外そしてこれ以上の慈悲はありません。一切の衆生の幸せを願うことは、上座部であれ大乗であれ何ら変わりはありません。

大乗仏教、漢訳経典の法華経、化城喩品の偈文の言葉では

願以此功徳
普及於一切
我等与衆生
皆共成仏道

願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを、です。衆生とは生きとし生けるもののことです。また仏道とは幸せの道、仏とは幸せそのものであります。功徳とは修行すなわち努力のことであります。