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スッタニパータ501

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

501 自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

自灯明法灯明の語源となった言葉であります。この洲というのは、河の中洲です。拠り所と訳されておりますが、まさしく寄り付く洲(しま)であります。辛い時、悲しい時、もう死んでしまいたいと思った時、そんな人生の苛酷な、どん底のときに、ふと顔を上げたときに、そこに洲があります。「あんたが死んでどうするんや。あんたの命はそんな安もんか。あんたしか出来んことがあるやろ。あんたにしか」そんな声が聞こえて、どこかから聞こえて今の自分がここにおります。言葉じゃないとは思いますが、さりげない、しかも心強い言葉によって、生きることを選んだ人々もたくさんおります。かくいう、わたしがそうであります。ある裏切りに言葉を無くし、これも吾が不徳の致すところと潔く死のうと心に決めた時、ある方の手厳しい言葉を頂きました。その場では反撥して、「あんたに何が解るんや」と詰りました。その晩、何度も、その人の言葉が頭の中で繰り返し繰り返し響きました。「あんたしか出来んことがあるやろ」。。。殺し文句とはこのことですね。今となっては、人生のターニングポイントでした。命の恩人。わたしの観音様です。

無一物で

何も持たない。そうして生れてきたのです。無一物で。ですから無一物になるのは、辛いことではありません。むしろ軽いのです。重荷をおろして、片意地はらずに生きていくことは辛くなんかないのです。これだけは声を大にして申し上げておきます。わたくしに今、所有するものは何もありません。本もその他の荷物も所有物ではありません。すべて記念品です。わたしがもし直ぐに死んだら、捨ててもらっていいものばかりです。金目のものはありません。何も惜しくはありません。ただ生きている間に慣れ親しんだ物があります。それを直ぐに捨てることもありません。申し訳ないのですが、もし死んだらどのように処分していただいても結構です。何の未練もありません。無一物というのは、執著を捨てることです。執著があれば、たとえば、盗まれたら腹が立つのです。盗まれても腹が立たない。殺されても文句は言えない。それが無一物です。何も持たない。何も考えないことです。

あらゆることに関して解脱している人々がいる。

かくありたいと心底おもいます。解脱するということは、何も輪廻からの解脱という訳のわかったようでわからないことではありません。あらゆる思いから解脱しているということです。達観とも違います。そんな高尚なことではありません。否、高尚だと思っている事自体が大きな勘違いです。この世とは頭の中で繰り広げられる仮想社会です。いわばヴァーチャルリアリティなのです。現実だと思っていることは全て架空のことです。そう言い切ってしまうとこれも違うのですが、そんな観念のことはどうでもいいのですが、間違っても目の前のあらゆる事柄に、眼を奪われてはならないということ。固執するなとだけは申し上げておきたいと思います。解脱する。これが仏教の目的です。これ以外ありません。いつも解脱のことを考えていてください。修行するのも解脱のためです。解脱の正体は、ずばり世間に居ながら世間から解脱している。仙人のようなものです。仙人は何も考えていません。考えることが必要のない人であります。

友ありて遠方より来ぬ西吉野(月路)

昨日檀家さんが切ってくれたアスナロの木。根本から切ってしまうには申し訳ない気がして、子供の背丈ほどに伐ってもらいました。これにノミを入れて「掃除小僧」を彫りたいと思っております。少し上を向いた顔が笑っているのでも泣いているのでもない、そんな顔つきにしたい。手には箒をもち、沙弥として寺に入った小僧さんの修行の様子を彫りたいと思いました。論語に、友あり遠方より来る亦楽しからずや、というのがあります。父の口癖でした。そう言って一杯やる、父の姿を想いだしておりました。いいやつだったんです、父も。父の亡くなった年をはるかに過ぎて、なんか可愛いく感じます。年を経て、父の年齢さえ越えて、いざ有り難や、坊主となれり。

自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ284

第二 小なる章

〈7、バラモンにふさわしいこと〉

わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者〉の園におられた。そのときコーサラ国に住む、多くの、大富豪であるバラモンたち──かれらは老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達していたが──は師のおられるところに近づいた。そうして師と会釈した。喜ばしい思い出に関する挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。
そこで大富豪であるバラモンたちは師に言った、「ゴータマ(ブッダ)さま。そもそも今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていたバラモンの定めにしたがっているでしょうか?」〔師は答えた〕、「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」「では、ゴータマさまは、昔のバラモンたちの守ったバラモンの法をわれらに話してください。──もしもゴータマさまにお差支えがなければ。」「では、バラモンたちよ、お聞きなさい、よく注意なさい。わたしは話してあげましょう。」「どうぞ」と、大富豪であるバラモンたちは、師に答えた。
師は次のことを告げた。──

284 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれらは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行なった。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
バラモンにふさわしいこと――この教えについては漢訳『中阿含経』第一五六経、梵波羅延経(大正蔵、一巻、六七八頁上以下)参照。最後の散文の部分は、「大いなる章」の第五の終り(一〇五―一〇六頁)と同じ内容である。

ここでは、真のバラモンとなることを教えているのである。「仏教徒」となることを教えているのではない。これは、仏教の発展の最初期の段階の教えだからである。

大富豪であるバラモンたち――その原語 brahumana mahasala は、直訳すると「大きな家屋のあるバラモンたち」の意。しかし財産のあることを意味する(jatiya brahmana mahasarataya mahasala,yesam kira nidahitva thapitam yeva asitikotisamkham dhanam atthi,te mahasala ti vuccanti.)。

昔のバラモンたちの守っていた――poranam brahmanam.
284 欲望の対象――kamaguna.第一七一詩に対する註記参照。

以上註より一部省略して引用した。

ブッダは仏教の開祖、創始者とされていますが、ブッダには新しい宗教を興すなどという野望を持ちあわせているはずもなく、ただ自らの覚ったことを当時の社会における常識や現状の中で教えを説かれたものです。当時のバラモン教社会の現状は、さしずめ現在の仏教社会の現状に酷似しているのかもしれません。当時のインドにはむろん仏教徒などはいないのですから、バラモン教徒について語るしかないのであります。註記にもありますように、真のバラモンとなることを教えているのであって「仏教徒」となることを教えているのではありません。これは、仏教創成の最初期の段階だからであります。

昔の仙人(バラモン)たちは自己をつつしむ苦行者であった――今のバラモンは、とても仙人と呼べないので昔の仙人という表現になっています。ここで重要なことは、自己をつつしむ苦行者であったことです。今のバラモンたちは自己を慎まない宗教儀式専門家であると断じておられるのです。こう申し上げると、どこかの国の職業僧侶を指しているとは思われませんでしょうか。嫌味ではなく現実のありのまま、事実として申し上げているのです。

五種の欲望の対象を捨てて、自己の理想を行った。――苦行の中身は煩悩を捨てることと自らが真実と信じるところ(本心)に従い理想を行う、つまりは真理の実践であります。教えの中身を実行していたので、自己を慎む苦行者たりえたのです。つまるところ尊敬に値する人々であり仙人の名に恥じない方々であったと述べられておられます。ブラフマン(梵天)に仕える祭祀者は清浄な道を歩んでおられたからこそでありました。日本に置き換えると神主さんたちが神に仕える奉仕者であるとともに清廉潔白であったように、あるいは僧侶が法要儀式を行いつつ清貧であり托鉢による生活で支えていたように、本分を忘れていないことが最低の条件でありました。いつの時代も神仏の近くに住むものが堕落しては世の中の不興を買うばかりか、社会がおかしくなる元凶ともなります。

この節のお話は決して昔話ではないことを強調しておきたいと存じます。まさに耳に痛い話であり、吾がこととして心すべき仏道の大前提であります。道元禅師様はこれを「学道はすべからく貧なるべし」と説かれております。宮崎禅師は、お師匠さまである小塩誾童(こしおぎんどう)老師について「いつも小僧と同じものを食べて、誰よりもはよう起きて坐禅しよる。偉い人やったなあ」と述懐されておりました。

昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれらは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行なった。