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スッタニパータ489

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〈まさに施与を受けるにふさわしい人々〉のことをわたしに説いてください。先生!」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

先生、施しの求めに応ずる在家の施主が、この世で他人に飲食物を与えるに当り、施与を受けるに相応しい人々のことを私に説いて下さい。福徳を求め福徳を目指して供物をささげるために。

日本語的に適当に並べ替えると意味がすっと入ってきます。ようするに「施与を受けるに相応しい人々」のことを質問しているのですが、ブッダの回答の言葉を受けて反復しながら質問しているので少々わかりにくいのかもしれません。

施与を受けるに相応しい人々

次の詩から合計で14詩句でもってブッダが回答します。例によって末尾に繰り返されるリフレインの言葉は「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば」です。質問に適確に回答しています。答えをはぐらかしていません。施与を受けるに相応しい人(応供)とはどのような人なのかを答え、そのような人に適宜供物を捧げなさい。在家のあなたが功徳を求めて 祈るのであれば、と繰り返し説くのでありました。

これはブッダ釈尊(如来)の十号の一つである「応供」について述べられた原典です。人類と生物(衆生)にとって飲み物と食べ物(飲食)は欠くことができませんし共通のものです。十号の筆頭は「如来」ですが次に「応供」が続きます。この順番も大事ですのであらためて列記しておきます。私たち曹洞宗の僧侶は色々な儀式でお唱えするので暗誦しております。

  1. 如来(にょらい、tathāgata)
  2. 応供(おうぐ、arhat)
  3. 正遍知(しょうへんち、samyak-saṃbuddha)
  4. 明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇa-saṃpanna)
  5. 善逝(ぜんせい、sugata)
  6. 世間解(せけんげ、loka-vid)
  7. 無上士(むじょうし、anuttra)
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ、puruṣa-damya-sārathi)
  9. 天人師(てんにんし、śāstā-deva-manuṣyāṇām)
  10. 仏世尊(ぶつせそん、buddho-bhagavān)

十号は続けてお唱えしますが8番目の調御丈夫のところで調御と丈夫の間にわずかな間を取って唱えるとリズミカルに覚えられます。これは一度聞けばその感覚はずっと残って忘れません。これが引っかかってきたら認知のうえで症状が出てきたものと思うようにしています。一日に一度はお唱えしたいものです。それこそ毎日食事を頂くようなものであります。

最も重要な持ち物

世間では変な話ですが、私たち僧侶のお葬儀において、弟子や遺族親類縁者寺院関係者が遷化された(亡くなった)亡僧の遺品を持って霊龕(棺桶)の前で円になって右回りするのですが、このとき後継者たる弟子の筆頭は裸足で師匠の生前に使われていた「応量器」を持ちます。三衣一鉢の鉢、すなわち食器です。お袈裟ではありません。このことが何を意味するかは説明を要しません。中でも頭鉢(ずはつ)というのは自分の頭蓋骨と同じです。本来は鉄鉢ですが中国や日本では漆塗りです。この頭鉢には口を付けることも許されません。匙で頂きます。

食べなくなったり飲めなくなったら死が近い。現在では点滴がありますから、回復することもあります。普通の老衰はわかりやすいのです。縁起でもないと思われるかもしれませんが、死を思えば生がわかる。生きていくというのは食べることに等しい。生存欲というのは飲みたい、食べたいに尽きます。与えられたもので慎ましく頂く。暴飲暴食はもっての他ですが、今日の声は「有り難きこと」でありました。

啓蟄や心の虫も蠕いて『月路』

昨日は横断溝の掃除をしました。十年以上も行っていなかったのか土砂がみっちり詰まっておりました。土建屋さんに成りきって工事?しておりました。法事でお寺に見えた方が「お寺きれいに成りましたね」と励ましてくださいました。嫌味で申されたのかもしれませんが、素直に嬉しくなって「とんでもございません」と恐縮するところなんざ我ながら呆れたものです。今日はモミジを玄関前に植える予定です。明日からは雨らしいので丁度いいかもしれません。ともかく外作務はお腹が空きます。まさに健康器具にはもってこいなのでありました。

マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〈まさに施与を受けるにふさわしい人々〉のことをわたしに説いてください。先生!」

スッタニパータ488

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

施与を受けるにふさわしい人々とともに――この人々とはブッダをはじめとする供養に値する人々、つまり解脱し聖人(阿羅漢)となった人のことです。

目的を達成することになる――福徳(功徳)になるということです。ささげた供物が清いものとなる、つまり供物は無駄にならないで尊い価値あるものとなるといった確認です。

福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人

施しの求めに応ずる在家の施主。前の句において、ブッダは「誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」と在家の施主を定義されています。

ここで重要なことは「施し」というのは、誰が求めてきたものであっても、惜しむことなく慈愛をもって与える行為であるということです。そういう人が施主であり、在家として善良な行為であります。世の中には貧困にあえぎ生活に困っている人がたくさんいます。自らが正当な手段で得た財産を分け与えることは誠に尊いことです。神社や寺院にお供えやお布施をすることだけが施しではありません。

この世で他人に飲食物を与えるならば。この世で善なる行い、善行をなしたものは善きところに生まれ変わる。これは未来永劫に変わらぬ理法です。他人に飲食物を与えることは、すばらしいことであります。福徳を求め福徳を目指すとは、同じことを繰り返しているようですが、「福徳を求める」は他者に対する思いやりの心であり「福徳を目指す」は己に対する志であります。思いやりと志をもって「供物をささげる」つまり供養している人が、その目的であるところの善所に転生すると述べておられるのであります。

マーガ青年とブッダの会話

二人の会話は続きます。この会話を眺めているとお互いの言葉をそのまま受けて、いわばオウム返しのように語っています。これは古代インドであっても現代日本においても人間関係のみならず会話の中身の確認になります。受け取り間違いのないかどうかの確認でもありますが、さらに肝に銘じる記憶の手段としても有効です。

それはさておき、ここでマーガ青年は一つの疑問を抱きます。それは彼がこの段階では「施与を受けるにふさわしい人々」とは、いったい誰であろうと思ったのです。これが次のマーガさんの質問になっていきます。会話は互いに質問と回答によって成り立ちます。話し上手は聞き上手。聞き上手は質問上手。質問上手が話し上手、と言われます。仏典はまさにこのような会話形式で語り伝えられています。

最優秀賞アニメで決まる時世かな『月路』

映画業界の力関係を越えて「この世界の片隅に」が今年度の日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞に輝きました。業界もさすがに名作を無視できなかったのではないでしょうか。ただし監督やスタッフの中に主演声優ののん(本名:能年玲奈)ちゃんの姿は見えませんでした。あれほどの功績を残しながら未だ芸能界から干され続けておりNHK以外の民放テレビでは顔も声も名前も出てきません。旧事務所の無言の圧力というか旧事務所に遠慮?忖度?している様子が伺えます。「あまちゃん」の時からなかなかどうして若いのに大したもんやと思って応援してきただけに残念です。ホンマに。

尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

スッタニパータ487

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ) は、王舎城の〈鷲の峰〉という山におられた。そのときマーガ青年は師のおられるところに赴いた。そこに赴いて師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。そこでマーガ青年は師に言った、──
「ゴータマ(ブッダ)さま。わたくしは実に、与える人、施主であり、寛仁(かんじん)にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、二人にも与え、三人にも与え、四人にも与え、五人にも与え、六人にも与え、七人にも与え、八人にも与え、九人にも与え、十人にも与え、二十人にも与え、三十人にも与え、四十人にも与え、五十人にも与え、百人にも与え、さらに多くの人にも与えます。ゴータマさま。わたくしがこのように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずるでしょうか。」

「青年よ。実にあなたはそのように与え、そのようにささげるならば、多くの福徳を生ずる。誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」そこでマーガ青年は詩を以て呼びかけた。

487 マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくしはお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
マーガ――この教えは漢訳『雑阿含経』第一一五九経(大正蔵、二巻、三〇九頁上以下)、『別訳雑阿含経』第八二経(大正蔵、二巻、四〇二頁中以下)に相当するが、漢訳は簡潔である。最後の散文の部分は「小なる章」第七節の終りの部分と同じ内容である。

487 福徳──puñña.恩返し、良いこと、名声など。paccupakāra-kalyāṇa-kitti-saddādi-apekho(Pj.p.415).功徳とも訳される。

清らかとなる──sujjhe(=dakkhiṇeyyavasena suddhaṃ mahapphalaṃ bhaveyya.Pj.p.415).

以上註記より引用した。

寛仁大度

▶寛仁とは慈悲深く心が広いこと。また大度とは度量が大きいことを指します。心が広く、情け深く、腹が太い人のことを古来より四字熟語で寛仁大度といいますが、日本語の「寛大」の語源ではないかと思います。健康の語源が健体康心というのと同様です。ここでは慈善ほどの意味でとらえておけば良いかと思います。原語はvadaññuṃで、寛大とか寛容といった意味もありますが、慈悲深いという意味もあり中村先生はあえて「寛仁」と訳されたものと思います。

他人からの施しの求めに応じ

これは誰にもできることではありません。もし家に浮浪者がやってきて何か食べ物を恵んで下さいと訪ねてきたとしましょう。その時に自分であればどうするかということです。わかりやすい話ですが、たいていの人は他所に行ってほしいと思い追い返してしまうものです。施しを求める者に施すことは立派な行為です。癖になるから与えてはダメだ。そういう考えが人々の中にある中で、ただ黙って差し上げる行為は善なる行為です。誰にもできることではありません。

正しい法によって財を求めます

▶これはビジネスマンの基本であります。このマーガ青年は若き事業家であったのでしょう。慈悲深く正当な方法で事業を行う立派な青年です。これほど明確に経営姿勢を語っているのですから文句のつけようがありません。正当な事業によって蓄財することは道理にかなった方法です。利益を求めることも当然であります。そうして集めた利益を分け与えている。ここまでは完璧です。

祀りにささげる供物は誰に

前節と同じ命題が提示されました。結論は少し違うのですが、これからブッダの回答がはじまります。マーガ青年の純粋な質問に対する答えは、青年にとって青天の霹靂でした。目からうろこの話が展開されます。自分では立派な事業を行って、求めに応じて人々にその利益を分け与えているという自負もありましたし、これが福徳になるという漠然とした思いもありました。その上で、神々の中で、どの神に供物をささげることが清らかなことであるのか。そうした素朴な疑問があったのでしょう。王族であった過去に知り合いであったゴータマさんが、修行を終えられ、今では立派な修行者となられたという話を聞いて、出かけて行ってお会いして想い出話をしながら、横に坐りながら、親しく話を聞いたのです。普通の会話のつもりであったことでしょう。ブッダはさりげなく彼の言葉を反復しながら賞賛しています。そういう雰囲気でざっくばらんに始まった会話でありました。

雛祭り彼のひなびなは今何処(月路)

子供たちが小さい頃うちにもお雛様セットがありました。毎年きちんと出して飾っていたわけではなかったのですが、行き遅れることなく(失礼)今のところ出戻ることもありません。迷信が文化になっているとまでは申しませんが、雛祭りという風習が残っていることが不思議です。たしか孫渡しに戴いたものと記憶しております。ということはわたしもお雛様を買って与えなくてはいけないのだろうか。そんなことを考えてもどうしようもありません。今のところ何も求められておりませんし、娘も期待していないでしょう。不甲斐ないとは思いません。少々情けないかもしれませんが。

マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくしはお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」

スッタニパータ476

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

476  煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余すところなく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
透明である――akāca.主として宝石に汚れや曇りのないことをいう。upakkilesābhāvato akāco(Pj.p.410).

以上註記より引用した。

煩悩の束縛を「」saṃyojanaといいますが、煩雑な仏教理論の見本のような話で、衆生が輪廻に結び付けられている理由がさまざまな煩悩であるとしたものです。

煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわり

輪廻。生まれ変わり。生きているということは前世の何かしらの縁で再びこの世に生まれ変わったとするものです。迷いの生存とは、ただいまの自己を見つめればよくわかります。何の迷いもないかといえば、そんな方はごくごく少数でありましょう。迷っていないと虚勢を張り、迷っていると現状を肯定しているものです。どうでもよいことに、いつまでもジクジクとこだわっていることが迷いの証拠です。

愛欲の道を断って

自らと他の人との間の愛欲を断つことは勇気のいることです。愛欲とは愛したい愛されたいと願うことです。これは人としての基本的な性質です。人間ならずとも他の動物もまた同じです。これは自分自身を一番愛しているからに他なりません。断定するわけではありませんが、自分を愛していない人はいないといってもいいでしょう。愛欲の道とは、その方向に向うということです。惚れて通えば千里も一里というではありませんか。恋しい人に逢うのに距離は関係ないのかもしれません。その道を断つ。辛いことは想像に難くありませんが、愛欲が迷いであり、とらわれであります。仏教では煩悩と呼んだ。文字通り煩わしく悩んでいる状態です。

清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である

人間関係を持つなということではありません。どのような人とも清らかで、過ちを犯すことなく、汚れのない、透明な関係を保つということです。どうしても一線を越えてしまいそうなときに、このフレーズを思い出しましょう。「一切空」透明な状態を指します。水をイメージします。透明です。波立つ心を鎮める。静かにすわってこころを鎮めましょう。固まる必要はありません。じっとしていることです。また何事かに精一杯打ち込むことです。静と動。微妙ですが、実感のあることばです。一線を越えたときは、真逆です。濁った水が、それこそ濁流が襲ってまいります。地獄の始まりといっていいでしょう。

温かき水よ空気よ君よ春(月路)

今日は天川村に行きます。一度行ってみたい所でした。天の川と書いて「てんかわ」と読みます。ここから一時間近くかかるのですが、トコトコと曲がりくねった道を川沿いに上がっていきます。▼劇場アニメ「この世界の片隅に」が大ヒットしています。クラウドファウンディングの手法で映画制作資金を集めたことでも知られています。日本の風景はそのままで絵になります。まいにち実物を見ているのですが、世界って丸いのでどこにも片隅なんてありません。どこも世界の中心上にあります。そんな屁理屈をこねながら、ちいさな春をいっぱい見つけに、トコトコと歩いていきます。ゆっくりゆっくり。

煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余すところなく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

スッタニパータ466

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

466  執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きている。そのような無私の人々にこそ供物をささげなさい。あなたが功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

今日は「功徳」ということを掘り下げてみたいと思います。功徳は利益という意味です。世間での利益も仏教での御利益も同じ利益です。利益(りえき)というと儲かった結果のようで、利益(りやく)というと何やら有難く感じますが、漢字としては全く同じです。じつはその内容も中身そのものも全く同じであります。

ビジネスで考えて「売上-仕入れ=利益」という簡単な式に当てはめれば、「善行ーおかげ=利益」となります。商売であれ一般的な仕事であれ、それが世の中で正しいことであれば、熱心に精をだして働けば必ず結果が出ます。その結果である売上から協力業者からの仕入れや人件費などの経費を差し引いたものが純利益でありましょう。精進して修行に励めば、戴いたものを差し引いても利益があるわけです。何も変わりありません。道理に適った法則、つまり理法であります。

功徳も功を為して徳を得ることですから、その結果は利益です。これは当然であり必然です。何の不思議もありません。世の中の仕事はすべからくこの道理にかなっているかどうかが問われます。精進なくして得られる利益、功徳というものは全くございません。当り前です。すなわち欲望が先ではないのです。まず自分が「何を為すか」が最初であり全てであります。努力に努力を重ねて今日があります。そこに他の人々の協力や支援があります。その結果のジャッジが利益であると申し上げたいと存じます。

儲けようと思ってやるようでは商売はうまくいきません。「利益=売上ー経費」と考えるか「売上ー経費=利益」と考えるかどうかです。数学では全く同じですが、利益を先に考えてやるようでは、おそらく一時的でありましょう。長続きはしないと思います。目的を利益にするか、結果を利益と呼ぶかの違いです。

今日のブッダの声も最初に「執著することなくして」と始まります。功徳(利益)を求めて、ではありません。執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きていく。見返り報酬を期待してかかるようでは、大したことは出来ません。世間の仕事も言い換えればほとんどが修業であります。多くの熟達した職業人は例外なく「一生修業」といいます。修業も修行も変わりありません。毎日毎日休むことなく本気で働いている人々は、みんな功徳を積んでいるのであり、みんな利益を上げているのであります。ことさら特別扱いすることではありません。

何がため修行をなすや六地蔵(月路)

昨日はお寺の総代さんの家の法事でした。観音経は比較的に長いお経ですが、最初はゆっくりと重々しく始まります。そして徐々にスピードが増していき、最後の方の偈文ではハイスピードで突っ走ります。お唱えする声にも熱が帯びてきて終いにはものすごく熱くなります。声のトーンは同じですが、終わってジーンとくるものがあります。法話では「利益」の話をさせていただきました。車中で株の話を聞いていましたので、また総代さんの会社の壮大さを拝見しましたので、とっさに用意していた話を代えて、利益も御利益も同じだという話を致しました。最後に生前にこそ戒名をご夫婦そろって頂きましょう。仏門に入ることですと結びました。

何の為に。何を為すか。功徳のためか。利益のためか。それとも、人々や社会のためか。自分のためか。家族のためか。何をするのか。何をやればいいのか。何がしたいのか。何を成し遂げたいのか。そういう根っこの部分を掘り下げてしっかりと腰を据えて坐りましょう。腹の坐った人。梵天ならぬ凡天丸もかく在りたい。

凡天丸

執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ465

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われるとのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ラーフ――ラーフ(Rāhu)はインド神話に出てくる鬼神の名である。この鬼神が月や太陽を呑むので、月蝕や日蝕が起ると考えられていた。
 
以上註記より引用した。

「月がラーフの捕われから脱したように」というのは、月食が終わったように、という喩えです。この時代の人々は月の満ち欠けは知っていても、日食や月食はそう頻繁にあるものでもないので、これはきっと鬼神ラーフの仕業である、何か良くないことが起る前兆であるかもしれないといった迷信に捕らわれていたのでしょう。結局は何事もなかったので、月はラーフの捕らわれから脱した。そのように「捕らわれから脱しなさい」ということをさらりと説かれたのです。

現代的にいえば、地震とか台風といった自然災害は大きな恐怖です。日中に真っ暗闇になったり、夜に煌々と光り輝く月が雲もないのに見る見る欠けていくと、地震でも起きるのではないかという余計な心配をするようなものです。これに信仰が輪をかけて脅す。すると迷信の輪が広がる。あながち古代人を馬鹿にできません。余計な心配で一日中頭を回転させていると、静かに過ごせないのです。もともと頭の中が貪欲でありますから、自分だけは何とか安全でいたい。すぐに動揺します。あっという間にパニック。何があっても不思議ではないという、どっしりした静けさを保ちたいものです。

「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ」このフレーズも前回に引き続いて説かれています。何度も述べるということは大事な話だからです。「適当な時に」(Kālena)は「時に応じ」ほどの意味ですが、つまりタイミングですね。時を逸するなということです。昨日の動画「母への思いを届けよう」では、このわたしでも胸が熱くなりました。届ける中身はともかくも、生きておられるうちは精一杯親孝行してください。亡くなっておられたら、あなたが母親です。お母さんの分までも、365日24時間尽くしましょう。報酬はナッシング。0です。無しです。これが一番の親孝行です。出来ない人はせめて、お菓子を供えましょう。お菓子は嗜好物ではありません。まごころです。

孫の手にバレンタインのチョコ一つ(月路)

昨日、近所のよろず屋さんに買い物にいきました。おまけにお菓子を頂きました。お墓参りのついでに寺に寄られた檀家さんが、お昼ごはんにとお寿司を持ってきて下さいました。御本尊様にお供えしてからそのお下がりをおいしく頂きました。なんでもないことのようで、すごく有り難いことではないかと人々の真心に直接ふれた心地がいたしました。

昨日の友のコメントを読みながら、またまた胸が熱くなりました。年のせいか涙もろくなってきています。ひとことの愚痴もいわずに、お母さんを病院に連れて行かれている。これって意外と大変です。坐禅、読経、掃除、洗濯、会社の仕事、ご飯ごしらえ、数々の心配、地域の役、バンドの付き合い、相談事、電話、LINE、コメント、エトセトラの毎日。お父さんとお母さんの二役。まるで観音様。頭が下がります。365日24時間働きづくめ。歯が痛くなるのは当然です。何度少し楽したいと思ったことでしょうか。できることはこれぐらいと謙遜されていましたが、どうか御身ご自愛ください。ダディーマミー。かか父ちゃん

貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われるとのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ463

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ヴェーダの奥義に達し――vedantagu.叙事詩にも同様の語がある(Vedapāraga,MBh.Ⅻ,243,8)。

以上註記より引用した。

真理を知って自己を制し、感覚による反応を慎んで、聖典の奥義であるところの「清らかな行い」を修行している人に、適宜、供え物をささげなさい。もし貴方が、功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

功徳を求めて祭祀を行う

これから幾つか同じフレーズが続きます。それはこの「バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば」というリフレインです。お経はこのリフレインというのでしょうか、繰り返し同じ文句をしばしば使って、耳に慣れるよう工夫してあるように思います。なにしろ紙に書いて残すというようなことをしなかった。つまり口承、口伝でありましたから、絶対に間違わない必要があって、また重要なポイントでもあったのです。

われわれ僧侶がお経を唱えた直後に、回向というものを行います。これはお経を唱えた功徳を何に対して回向するか、つまり功徳を振り向けるかということです。たいていは自分のために回向するなどということはありません。誰かの功徳、それはご先祖さんだったり、ご家族であったりするわけです。もちろんご本尊やその他の仏菩薩、祖師、歴代住職、檀家各家先祖代々に回向するのは毎日の日課です。

ようするに何がしかの功徳を求めているわけです。それが勤めだといえばそれまでですが、かんたんにいえば功績を讃えている。これ自体が功徳です。尊敬をし、感謝をしている報恩の行いです。祭祀といった仰々しいものを行わなくても良さそうなものですが、花を立て燭を灯し蜜湯やお茶お菓子などを供えて勤めます。朝課、晩課はもちろん法事法要はすべからく功徳を求めて行うものです。

ところが、ブッダはどうもそういうことを全部肯定しているとは思えません。どこか方向性が違うよと、当時のバラモンであったスンダリカさんに説くのです。そうした雰囲気がこの詩からうかがえます。それが「真実もて自ら制し、慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人」を冒頭に述べられたのです。

そのような人にこそ供物を

はっきりいってしまえば、「清らかな行いを修めた人」にこそ供物を捧げるべきだと断言されているのです。つまりブッダやブッダの教えを実践して修行している人に、食べ物を捧げなさいと大変やわらかく断言しています。托鉢に修行僧がやってきたら、彼らは自分で食べ物を買うことができないから、供養してあげてほしいといった意味も含まれているように思います。

真理を知り自己を制し慎む

ここに修行の全容を端的に述べられています。まず正しく知ることから、そして自己を制御する。清らかな行いとは何かということを暗に問いかけておられます。ますます更に聞きたくなるように言葉を巧みに使っておられます。お見事というより他ありません。

ほとほとと寒の戻りやホトトギス(月路)

一日置きに寒かったり暖かかったりで、風邪を引いてしまいそうです。鼻水が出てくるような寒さをこらえながら法要の準備に余念がありません。これが済んだら、あれをして、ああこれもせんならん。ほとほと後回しの性分に手を焼いています。たしか去年の春にはホトトギスが鳴いていました。北陸は雪だろうなと思いながらチラチラまた降ってきそうですが、時おり日差しがあり、有り難いことだと。

昨日三時間ほどかけて、無料ホームページとやらでお寺のホームページを作りました。写真を並べただけですが一度御覧くださいませ。→禅龍寺

真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ458

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
(師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
効果をもたらす――偉大な果報をもたらす、の意。
神々に供物をささげて祭祀を実行し得るのは実際問題として王族やバラモン、仙人などであり、シュードラは祭祀にあずかることが禁ぜられていたので、このように言うのである。
 
以上註記より引用した。

当時、人々は、神々に供物をささげて祭祀を行っていました。それは何のためですか、どのような功徳があるのですかと、スンダリカさんはブッダに質問しました。それに対しブッダは、「究極に達したヴェーダの達人」である解脱した修行者に供物を捧げれば「果報をもたらす」すなわち功徳があると説かれた(答えた)のであります。

現代においても仏さまに供物(くもつ)を献供するのは、そうした理由が主です。ブッダの十号の一つに「応供」という尊称があります。応供諷経(おうぐふぎん)という毎朝のお勤めでは、仏菩薩をはじめ阿羅漢や天上の神々など修行されて解脱された方々に、尊敬と敬意をもってお経を唱えます。禅宗では主に般若心経などをお唱えいたします。諷経もまた供物であります。また実際に献茶献湯し菓子や果物などを供えます。供え物に値する、供物を受ける資格があるかどうか。応供、供に応ずることの本意を噛みしめるべきであります。

「何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか」という質問に対するブッダの答えが以外な内容であったという驚きを隠せません。崇拝ではなく尊敬なのだということを明確に示されたからです。やみくもに訳が分からずに、ただ伝統を踏襲していただけの崇拝から目覚めた瞬間でもありました。

先祖供養とて同じ理由であります。亡くなった父母や先亡(せんもう)の霊に供養するのは、先人の苦労を偲び、その遺徳に深く敬意を表するからでありましょう。ましてやブッダ釈尊の大徳に最大限の尊崇をもって、その菩提(ぼだい・悟りのこと)を荘厳(しょうごん)することは仏教徒の勤めであります。お経を唱えるということは、教えを自らの耳に聞かせ、口で覚え、姿勢を保つことに他なりません。まことに有り難き教えであります。

有り難や 声が聞こえる 音がする (月路)

昨日、突然の断水でした。近くの工事が原因だったのですが、水が出ないというのは大変不便ですね。当り前ですが蛇口をひねれば普通に水が出るということは凄いことだとあらためて強く意識しました。普段の何気ないことであっても、確かに生きているという実感があります。こうしてものが見え、音がきこえ、話すことができる。手も足も動く。思うことも感じることも考えることだってできる。今日も五感というものがあって、人間を継続しております。

「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
 (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

スッタニパータ428

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし……――ここでは独身の学生として師のもとでヴェーダ聖典を学習する第一の時期と、次に家に帰ってから結婚して家長となり祭祀を司る第二の時期とに言及している。いずれもバラモン教の律法書に規定されていることであり、その規定を守るべきことを、ここで悪魔が勧めているのである。
 
供物――火を燃やして、その中に牛乳、油、粥などをそそいで火神を祭ることをいう。
  
以上註記より引用した。

ナムチは手強い。この詩句で悪魔ナムチが説いているのは、当時のバラモンのあるべき姿そのものです。これは四住期と呼ばれるアーシュラマ(āsrama)の前半の学生期と家住期について述べたものです。現代日本で言えば、神職や僧侶の学校で勉強し、つぎに神社や寺院に戻ってそれぞれの祭祀を勤めなさい、それが多くの功徳を積むことになりますと従来からの規定を守っていくことを強く勧めています。

また、坐禅や様々な苦行に励んだところで、それが何になるのかと常套文句で迫ります。よく言うではありませんか。心のこもった供え物をしてありがたい儀式を行って祈祷しているほうがよほど人々の心の安寧になる。人はそれを聖職者に望んでいるのだから、それが君の仕事なんだから、黙って先輩の言うとおりにしておればいいのだよ、と。お叱りを受けるのを覚悟で、ややひねくれて申し上げておりますが、それが世間の常識であり、修行者からすれば、悪魔ナムチのことばです。

初の付く 言葉に飽きて 三が日 (月路)

自分のために修行(坐禅)をする。これもまた観念であります。ブッダのこころを突き動かしたものは、そういう世間並みの修行ごっこではありません。使命感。これもまた違います。こんな気概では、おそらく六年も七年も一刻もたじろがず修行し続けることなど到底無理であったことでしょう。では何か。これが今日のテーマだと思います。出離あるいは解脱という言葉で説明するほかないのですが、この世のどうでもよいことに囚われている世間と自分、この世のどうでもよいことに拘っている世間と自身に、気がついたのであります。

テレビでもネットでも世間の人々や社会を観ていると、朧気ながらその輪郭が見えてまいります。あまりにも妄想を繰り広げ、執著に執著を繰り返している現状をつぶさに観て、飛び出した。抜け出した。脱出した。では何をしたのかといえば、猛烈な修行だった。解脱したい。純粋にそう願った。シンプルにこの世から脱出したい。それは当時の求道者に共通する目標でありました。現代もそうです。あらゆる観念から逃れて精神世界に身を委ねたいと願う純粋な若者がたくさんいます。なかには、あまりにも純粋に考え過ぎて自ら命を断つ人さえいます。命をも顧みない。そんな純粋な人々がいるのです。

彼らを死なせてはならない。真理というものを知れば、死なないで済みます。彼らの流した涙は七つの海の水よりもはるかに多い。真理を得たい。これは当時においても競争でした。ブッダ在世当時、幾人もの賢者が現われます。その賢者の頂点に立った者、それがブッダその人でありました。超人だと思います。あれから二千五百年。ブッダの教えが続いてきたことがその証拠です。明日は悪魔ナムチの最後通牒であります。ご期待下さい。

あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

スッタニパータ223

第二 小なる章

<1,宝>

223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダは人類以外の全ての生きものたちに、君たちの至高の使命とは「慈しみ」であると呼びかけます。毎日供物(そなえもの・くもつ)を捧げている人間を、どうか見捨てないで、「慈しみ」の心で守ってやってほしいと懇請したのであります。

この詩句が護呪と呼ばれる所以です。呪というのは別途咒とも書きます。どちらもマントラのことで音訳して曼荼羅、意訳すれば真言と呼ばれる仏様の本当の言葉という意味ですが、仏様の肉声なので訳さないでそのまま唱えることとされています。たとえば般若心経でいえば「ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャテー、ボージーソワカ」の部分がマントラです。

それはともかく、これで人類以外の全ての生きものの大事な仕事が決まりました。ここで「生きもの」というのは、人間社会で一般に生物と分類している動物や植物などのこととは限りません。生命体というのも外観だけのことであります。眼には見えなくとも確かに息づいている命というものがあります。微生物のことでもありません。人間が勝手に死んだと思っている「命」や人類が遭遇したことのない「霊」というものが確かに生きています。

精霊や鬼神と呼ばれる人類以外の「生きもの」に対して、「慈しみ」の心が与えられ、「人類を護る」という至高の使命が与えられました。「施食(せじき)」という仏教の習慣があります。彼らに現実に食べ物を供えて供養することを指しますが、その優しさが慈しみの根本であります。考えてもみてください。だれも食べないのに供え物の習慣は無駄ではないかと思いませんか。ですがそれこそ最古の人類でさえ供え物をしてきた歴史があります。単なる伝統と呼ぶにはあまりにも不思議な継続的風習です。

生きている人間に対して「陰膳」をする心、言葉に表せない感謝の気持ちをプレゼントで表す、例えればきりがないほど人々は捧げてきました。やさしく暖かい気持ちを。その心に応えて「人類以外の生きもの」は必死に守ろうとしています。現代の世の中で、ややもすればなおざりにされがちな供える心、いわば「供養」というのは「慈しみ」以外のなにものでもないことを、この詩句が警告しているように感じております。

それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。