第三 大いなる章
〈七、セーラ〉
569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。
師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。
そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、精励し専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極を現世においてみずからさとり、体得し、具現していた。「〔迷いの生存のうちに〕生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。
そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて〔右肩をあらわして〕、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

月は……最上のものである――Bh G.X,21 参照。 修行僧の集い――saṃgha.音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは、原義からの転用であって、この場合には適合しない(cf.Dnp.190)。 これはヒンドゥー教のほうで説いていたことが、たまたま仏典にすがたを現わしているだけで、その逆ではあり得ない。そのわけは、後代の仏典『提婆菩薩破外道小乗涅槃論』によると、右の所説はマータラ(Māṭhara)という外道の論師の所説となっているが、マータラは『バガヴァッド・ギーター』などを含む『マハーバーラタ』の編者ヴィヤーサ(Vyāsa)の別名であるからである。 以上註記より引用しました。
▶ここまでの詩句の内容は、結髪(有髪)の行者つまり在家の修行者であるケーニヤさんが、ブッダやブッダの弟子たちに食事の供養を行うことは、王・海・月・太陽のように最上であることであるということを示しています。
▶功徳を望んで供養を行う人々にとって、サンガ(修行僧の集い)は最上であると述べられています。これは重要なことでありますが、今日はなぜ功徳を望み、供養を行う必要があるのかを考えてみたいと思います。
▶修行僧は修行に専念するわけです。当然に生産をしません。するとお腹が空くわけです。修行僧とて人間ですから食べなければ身体が衰えます。そこで何より有り難いのが、飲み物と食べ物です。その飲み物と食べ物を供養する。供養とは栄養を提供するというほどの意味です。それでまた修行に専念できるのです。
▶供養は食べ物だけとは限りません。身に纏う布を施すこともあります。これが本来の布施です。「無財の七施」と申しまして、財産でないものを施すことも優れた供養であり布施であります。たとえば「和顔」という優しい顔も布施ですし、「愛語」という優しい言葉をかけることも布施であります。
▶修行者に供養を施すことが功徳となるのは、仏の教えを弘め伝えていくための原則であります。お寺や托鉢のお坊さんに供養することが、そのまま功徳になります。そのままというのは、財法ニ施と申しまして、互いに功徳を積むことなのです。事情によって在家に留まらざるをえない人々が財を提供し、出家して修行に専念できる人が法を提供するという両方向の「ニ施」なのです。
▶セーラさんは出家して怠ること無く修行に専念し、ほどなくして究極の境地に達しました。二度とどこにも生まれない聖者となりました。彼岸に至ったわけです。聖者となった人々も人間には変わりありません。それらの聖者に供養することは最大の功徳になります。功徳は善き処に生まれ変わるためです。地獄に堕ちないためです。かんたんに言えばそうなります。功徳を望むことは欲望ではありません。人間として当然ですし、それが正解であります。
今日の結論は