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スッタニパータ569

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳くどくを望んで供養くようを行う人々にとって最上のものである。

師はこれらの詩をとなえて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座からって、去って行かれた。

そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、ひとりで他人から遠ざかり、おこたることなく、精励せいれいし専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極きゅうきょくを現世においてみずからさとり、体得し、具現していた。「〔迷いの生存のうちに〕生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて〔右肩をあらわして〕、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
月は……最上のものである――Bh G.X,21 参照。

修行僧の集い――saṃgha.音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは、原義からの転用であって、この場合には適合しない(cf.Dnp.190)。
 これはヒンドゥー教のほうで説いていたことが、たまたま仏典にすがたを現わしているだけで、その逆ではあり得ない。そのわけは、後代の仏典『提婆菩薩破外道小乗涅槃論』によると、右の所説はマータラ(Māṭhara)という外道の論師の所説となっているが、マータラは『バガヴァッド・ギーター』などを含む『マハーバーラタ』の編者ヴィヤーサ(Vyāsa)の別名であるからである。
以上註記より引用しました。

ここまでの詩句の内容は、結髪(有髪)の行者つまり在家の修行者であるケーニヤさんが、ブッダやブッダの弟子たちに食事の供養を行うことは、王・海・月・太陽のように最上であることであるということを示しています。

功徳くどくを望んで供養くようを行う人々にとって、サンガ(修行僧の集い)は最上であると述べられています。これは重要なことでありますが、今日はなぜ功徳を望み、供養を行う必要があるのかを考えてみたいと思います。

修行僧は修行に専念するわけです。当然に生産をしません。するとお腹が空くわけです。修行僧とて人間ですから食べなければ身体が衰えます。そこで何より有り難いのが、飲み物と食べ物です。その飲み物と食べ物を供養する。供養とは栄養を提供するというほどの意味です。それでまた修行に専念できるのです。

供養は食べ物だけとは限りません。身に纏う布を施すこともあります。これが本来の布施です。「無財の七施」と申しまして、財産でないものを施すことも優れた供養であり布施であります。たとえば「和顔わげん」という優しい顔も布施ですし、「愛語あいご」という優しい言葉をかけることも布施であります。

修行者に供養を施すことが功徳となるのは、仏の教えを弘め伝えていくための原則であります。お寺や托鉢のお坊さんに供養することが、そのまま功徳になります。そのままというのは、財法ニ施ざいほうにせと申しまして、互いに功徳を積むことなのです。事情によって在家に留まらざるをえない人々が財を提供し、出家して修行に専念できる人が法を提供するという両方向の「ニ施」なのです。

セーラさんは出家して怠ること無く修行に専念し、ほどなくして究極の境地に達しました。二度とどこにも生まれない聖者となりました。彼岸に至ったわけです。聖者となった人々も人間には変わりありません。それらの聖者に供養することは最大の功徳になります。功徳は善き処に生まれ変わるためです。地獄に堕ちないためです。かんたんに言えばそうなります。功徳を望むことは欲望ではありません。人間として当然ですし、それが正解であります。

今日の結論は

供養は双方向の功徳である。

スッタニパータ505

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食物を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

マーガ青年はさらに尋ねます。理法を説いて下さった釈尊に、つぎに具体的には在家の施主はどのように供養したら良いのかを率直に尋ねます。ここが一番聞きたかったのではないでしょうか。誰に供養したら良いのかは理解しても、その方法がわからないのです。相撲の力士が何をしたら良いのかを質問したようなものですが、ここは黙って聞いておきましょう。笑い話のようで、非常に単純で明解な質問だと思います。勘違いしてしまうところです。明日はこれに対するブッダ釈尊の意外な回答があります。どうか今日の段階では、このマーガ青年学徒の気持ちになって、静かに答えを待ってみて下さい。

花粉症お構いなしの人もいる(月路)

昨日までの三日間は大変暖かく良いお天気でしたが、花粉症の症状で眼が痒くなりくしゃみはするは、鼻水は出るは、何となく頭は重いように感じられて、困ったちゃんになっております。昔はこんなことは無かったのに、何故だろうと思います。杉やヒノキの花粉は昔も今と変わらないはずですが、人間が弱くなったのか、それとも花粉の量が増えたのか。ところが友は全く平気とのこと。黄色い花粉が目に見えて頭から降ってきても、なんともないとのこと。訳がわかりません。やはり体質でしょうね。花粉との付き合いがまだしばらく続きそうです。

マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食物を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

スッタニパータ485

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

485 かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

▶ブッダのスンダリカさんに対する回答は以上です。托鉢に外見上みすぼらしい修行者がやってきたら、彼に対して怪訝な顔をせずに、合掌低頭(がっしょうていず)しなさい。食べ物や飲み物をもって彼を供養しなさい。このような施しは、彼のためではなく、供養した者が将来において善き結果を得る原因となります。これが功徳であり果報というものです。このことが何を意味するかは明瞭です。

供養が成就し、もたらす果報。

▶これは布教のシステムを暗に説明しているものです。単に修行者に供養すれば功徳がありますよと言っているように聞こえますが、この程度の認識で、スンダリカさんの激変ぶりは説明できません。じつはこの後スンダリカさんはブッダの弟子になることを申し出ます。君子は豹変す。まさにこの言葉で彼は確信したのです。

▶仏教の布教システムは、まずブッダという目覚めた人がいます。このブッダの説かれた教えがあります。そしてこの教えを実践する人々がいます。教えを実践する人の中には、ブッダのように出家して解脱を目指す者と在家として日々の実践を重ねる人々がいます。ともに教えは共通であり教えに何の違いもありません。映画や音楽を作る人とそれを楽しみながら応援(サポート)する人がいるようなものです。

▶スンダリカさんは自分も究極に達したいと念願したのです。供養する側に立つか供養される側に立つかです。これを此岸と彼岸といいます。かの岸に渡るか、この岸に留まるか。河の流れは何も変わりありません。この河を渡ることを得度といいます。出家することです。心配ですが心配はいりません。得度した者を支えるシステムが完成しているからです。得度した者は供養に値するよう努力し、いまだ得度していない人も、得度した者を供養することによって、いずれは必ず得度する縁ができるからです。これが最大の果報であります。功徳というものです。

▶「供養が成就する」という何気ない言葉にはこのような深い意味があります。事実、現代においても出家者は、教えを実行し教えを伝え教えを守ることが課せられます。これを強く望んだからです。希望どおりの採用です。願いが叶った以上努力することは義務であり責任です。当然の道理です。また供養している人々には得度の因縁ができます。生を変え身を換えても得度の因縁は付いていきます。

曹洞宗のお経のフルバージョンがアマゴンというサイトからPDFで提供されています。オリジナルの経本を作製するサービスです。仏垂般涅槃略説教戒経(遺教経)も全文掲載されています。わかりやすいお経ですし、枕経でお唱えするものですから、ぜひダウンロードして読んでみて下さい。この遺教経の最後の方に「汝等比丘、悲悩を懐くこと勿れ。若し我世に住すること一劫するとも、会うものは亦た当に滅すべし。会うて而も離れざること終に得べからず。自利利人の法は皆具足す。若し我久しく住するとも更に所益無けん。応に度すべき者は、若しは天上人間皆悉く已に度す。其の未だ度せざる者には、皆亦た已に得度の因縁を作す。自今已後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身常に在して而も滅せざるなり。是の故に当に知るべし。世は皆無常なり、会うものは必ず離るることあり。憂悩を懐くこと勿れ。世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の痴暗を滅すべし。」とあります。

▶このブッダの声を聞いてスンダリカさんは答えます。明日はいよいよ本節のクライマックス。スンダリカさんの得度の瞬間をつぶさに見てまいりたいと存じます。

この河を渡る人見てただ泪(月路)

▶得度の儀式というのはある意味残酷です。何度もその儀式に随喜致しましたし、わたしも得度式をしてもらった日のことは一生忘れません。父も母も位牌での出席でした。縁ある人々の前で髪を落とし、白い衣に黒い直綴(じきとつ)を着せられお袈裟を頂戴しこれを掛け、さらに応量器を戴き、血脈(けちみゃく)を受けて・・・。あるお坊さんの得度式で、奥様と娘さんの泣かれている姿を見て、胸が詰まりました。幼い子供の目から一筋の泪。何と説明されていたのか知りませんが泪が全てを物語っていました。これは理屈で説明できません。説明するまでもないのでした。

かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」

スッタニパータ482

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

482「先生!わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

スンダリカさんは重ねてブッダに尋ねました。私のようなバラモンの祭祀(儀式)を行う際に、供養を受け得る資格のある人とは、私が供養すべき人とは、いったいどのように探したらよいですか。知りたいのです。どうか教えてください。といった感じであったことでしょう。施しというのは、祭祀そのものです。祭祀の主催者を施主といいます。いわば施主をどう探したらいいですかということを聞いているのです。

供養を儀式(祭祀)で行う伝統

昨日は月遅れの大般若会(だいはんにゃえ)に随喜(ずいき)いたしました。お坊さんが法要に出席することを随喜といっています。本来は釈尊の話を聞いて感激し至福に浸り歓喜した様子であります。現代では釈尊をはじめ仏菩薩を讃える法要に参加することが随喜といえるでしょう。今日のテーマは何故儀式を行うのかということです。伝統行事だからといえばそれまでかもしれませんが、ここはもう少し突っ込んでみたいと思います。

結論からいえば、今後も続けるべきであると思います。儀式不要論というものがあります。仏教の目的はそもそも個々人の心の平和にあるのだから集団で祭祀を行うことは必要ないし、むしろ害悪であるとさえいえるという立場です。これは極論かも知れませんが、今日の社会でそのように考えておられる人は意外と多いと思います。とくに仏教を学んだことのある人のほうが反ってそのような思考になるかもしれません。比較的若い方がお寺の法要に参加することは、仕事や遊びの関係もありますが、ほとんど無いのもよくわかります。爺さん婆さんの行く所がお寺だと何となく思っている人がほとんどでしょう。

昨日お寺の大般若会にお参りされた方の中で最年少の中年女性が「はじめてお参りしましたが感動しました。こんな凄いのは初めてみました。ぜひ皆に伝えます」という感想を話してくれました。たしかに祈祷太鼓や大般若経の転飜法(てんぱんほう)、経本をパラパラと右に左にと翻して転読する様や大声で「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と唱えるシーンなどは圧巻でしょう。お坊さんになったら一度はやってみたいと思ったのは私だけではないかもしれません。やってる本人が一番燃えます。

それはともかく、お葬式にせよ法事にせよ葬儀会場や個人宅でお経を唱えることも儀式、祭祀と言えば祭祀です。修正会、涅槃会、春秋のお彼岸、花祭り、お盆、成道会、除夜の鐘。お寺での法要も一年を通して数多いものです。さらにはお墓参り。最近では家族だけのご主人や奥様だけの法事も増えてきました。お盆に棚経でお参りに寄せて頂いても昔に比べて集まる方が少なくなったことは否めません。こうした現状にどうしたものかと考えるお寺さんも多いのですが、これは時代の流れもありますが、多くは主催者の「伝え方」の問題であろうと思います。現に今でも沢山のお参りで賑やかなお寺もあります。仏教ブームでもあるともいわれています。先程のご婦人の感想の通り、知らないだけかもしれません。

お釈迦様にせよ、キリスト様にせよ、多くの偉大な聖人は丘に登って、大衆に向って話を説かれました。人々が集まり熱心に話を聞いたのです。真剣に道を求める人はさらに仏陀と一対一で話をしました。これが仏教における集会の原点です。キリスト教も同様でしょう。このスタイルを踏襲したものが儀式であります。多くの宗教で儀式は営まれます。本尊を定め儀式を行わない宗教は宗教法人法では宗教法人と認められません。朝晩の勤行とて儀式であります。儀式とは人のなす義(まこと)を形で表現したものです。

どうやって儀式の参加者を集めるか。スンダリカさんの本音でしょう。どのような人に供養するのか。ブッダの回答は鮮明でありました。明日からいよいよ本節の核心が始まります。この両者の会話の中身が布教の原点です。目をこらして読み進めてまいりましようか。

東京マラソン走る人観る人(月路)

マラソンといえばアベベ。今朝の東京マラソンも第一集団は黒人集団。このあとどうなるかわかりませんが、ほとんど興味ないのですが、見ている暇はないのですが、テレビを付けたらマラソンでした。今朝はいいお天気です。洗濯もの干さなきゃ。今日は主夫します。

「先生!わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは――あなたの教えを受けて――どうか知りたいのです。」

スッタニパータ464

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第四六四、四六五詩は第四九七、四九八詩に同じ。
 
以上註記より引用した。

梭(ひ)については第二一五詩を参照して下さい。機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)のことです。

欲望を捨てる。あっさりと説かれていますが、これは口でいうほど簡単なことではありません。だいたいそういう人に、お目にかかったことがありません。自身を振り返ってみても欲望だらけです。欲望はしばしば煩悩と呼ばれますが、何のことはありません。普通の人の普通の感情です。感情のほとんどが欲望です。ああしたい、こうしたい、嫌だ、好きだ、暑い、寒い、冷たい、熱い、何もしたくない、眠い、疲れた、あらゆる欲望とはこうした気持ちのことです。あらためて申し上げるまでもありませんが、気持ちを捨てるということは、感情を殺すことではなく、さっと離れることです。

欲望の対象にとらわれない。見たまま聞こえたまま感じたままの感覚にこだわらない。こんなことが果たして可能でしょうか。可能です。家という一番気持ちが表れている欲望の具体的な対象から離れて住むこと。たとえば、豪邸や高級マンションをイメージしてください。こうした住まいに住みたいと思ったから、そこに住んでおられる。またそれを買ったり借りておられる。気持ちが表れているのが現在の生活です。これも当然のことですが、あっさりとその思い、気持ちを捨てれば、家から離れることは実に可能です。可能ではありますが、これがなかなか至難です。

そういう気持ちを捨て、家から離れて歩み、よく自らを慎んでいる人々にこそ、供物をささげなさい、と。それは梭のように真っ直ぐな歩みを続けている人々、つまり修行者にこそ供物をささげる、供養しなさいという意味です。例によって、もし貴方が功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と続きます。

これは明確にブッダがバラモンを試しておられるところだと思います。解脱を求めて出家し慎ましく生活している修行者に供養をささげなさい。それが祭祀を行う在家の勤めですと言わんばかりです。事実そう繰り返し説いておられる。祭祀を祈りと言い換えてもよいと思います。これからも供物をささげ祈りを続けるのであれば、その供物は立派に修行されている人々に捧げなさい。出家者に在家者が供養する、それは善きことなのです。そういう生き方ももちろんありますよ、と。

風強し幡が纏わる雪が飛ぶ(月路)

夜中にお腹がすいて目が覚めました。観音様ののぼり幡が千切れんばかりに風にあおられています。あれは風が動いているのか、幡が動いているのか。ある人は自分の心が動いているのだと言われた、という大河ドラマの一シーンが、なぜか腹減ったという夢でした。まったく意味がわからないのが夢ですが、欲望とか、気持ちというのも夢の様なものではないでしょうか。つじつまというか、理路整然とはいきません。結局、気持ち。この不可解な気持ちとまだ当分付き合うことになりそうです。

諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ403

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

403 ウポーサタを行なった〈ものごとの解った人〉は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物と飲物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

托鉢僧への供養のことが述べられています。修行僧の集いとは、サンガのことです。現在でいえばお寺がそれに該当するのですが、お布施を差し上げることは、この慣習が基礎となっています。

出家者は生産をしないので、在家者から供養を受けます。換言すれば在家者は出家者に分かち与える(供養)のであります。

先日、ある檀家宅で一周忌の法事を終えてその家を出ようとしたとき、施主様をはじめ子供たちも皆で駐車場のところに一列に並んでお見送りをしていただきました。お布施や記念の品もさることながら、この光景に深い感謝の念を抱かずにはおれませんでした。今わたしたちが結構に暮らしていけるのも先人のおかげであると、しみじみ感じ入った次第でございます。

「今の一当は昔の百不当の力」と申します。先人の歩みによって現在の私たちが生かされております。なおのこと、精進してまいらねば、それこそ罰(ばち)が当たります。

百不当の一老

菩提心をおこし、仏道修行におもむく後よりは、難行を懇ろに行うとき、行うといえども百行に一当なし。しかあれども、或従知識、或従経巻して、ようやく当たることを得るなり。

いまの一当は、むかしの百不当の力なり、百不当の一老なり

道元禅師 『正法眼蔵 説心説性の巻』より

ウポーサタを行なった〈ものごとの解った人〉は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物と飲物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。

スッタニパータ286

第二 小なる章

〈7、バラモンにふさわしいこと〉

286 かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物、を求める(バラモンたち)に与えようと、かれら(信徒)は考えていた。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句はバラモンに供養される「托鉢」の様子を示しております。現在の仏教界でも北伝南伝を問わず托鉢の慣習は続いています。ここ日本においても僅かではありますが修行僧は托鉢(乞食行)によって食(じき)を得る場合もあります。ただし、ほとんど鉄鉢に入れられるものは金銭であります。

本来のバラモンたちもこうして信徒の家々の玄関先におかれた食物(じきもつ)を受けとり、それのみを食する毎日であったわけです。みずから生産活動を行わないわけですから人々に供養していただく他ないのであります。また信徒の人々もバラモンに供養することは、ヴェーダに対する信仰心からでありました。

人から与えられたものだけで生活することは、みずから生産したり購入しないことを意味しております。ところが中国に仏教が伝来すると様子は一変します。働かざるもの食うべからずの伝統でしょうか、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という禅師さまは、「一日為(な)さざれば一日食(くら)わず」という教えを徹底されました。掃除・洗濯・野菜米作り・調理などなど山林深くの僧堂の生活は近所の信徒からの供養を期待できませんので、みずから耕し、みずから調理したものを食するようになりました。

その伝統がやがて金銭の布施を受けるようになり、それでも僅かな糧を元に質素な生活はずっと守られてきました。これから先はご想像通りです。このあとの詩句のとおりバラモンの生活が徐々に変わっていくことになるのです。

かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物、を求める(バラモンたち)に与えようと、かれら(信徒)は考えていた。

 

スッタニパータ223

第二 小なる章

<1,宝>

223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダは人類以外の全ての生きものたちに、君たちの至高の使命とは「慈しみ」であると呼びかけます。毎日供物(そなえもの・くもつ)を捧げている人間を、どうか見捨てないで、「慈しみ」の心で守ってやってほしいと懇請したのであります。

この詩句が護呪と呼ばれる所以です。呪というのは別途咒とも書きます。どちらもマントラのことで音訳して曼荼羅、意訳すれば真言と呼ばれる仏様の本当の言葉という意味ですが、仏様の肉声なので訳さないでそのまま唱えることとされています。たとえば般若心経でいえば「ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャテー、ボージーソワカ」の部分がマントラです。

それはともかく、これで人類以外の全ての生きものの大事な仕事が決まりました。ここで「生きもの」というのは、人間社会で一般に生物と分類している動物や植物などのこととは限りません。生命体というのも外観だけのことであります。眼には見えなくとも確かに息づいている命というものがあります。微生物のことでもありません。人間が勝手に死んだと思っている「命」や人類が遭遇したことのない「霊」というものが確かに生きています。

精霊や鬼神と呼ばれる人類以外の「生きもの」に対して、「慈しみ」の心が与えられ、「人類を護る」という至高の使命が与えられました。「施食(せじき)」という仏教の習慣があります。彼らに現実に食べ物を供えて供養することを指しますが、その優しさが慈しみの根本であります。考えてもみてください。だれも食べないのに供え物の習慣は無駄ではないかと思いませんか。ですがそれこそ最古の人類でさえ供え物をしてきた歴史があります。単なる伝統と呼ぶにはあまりにも不思議な継続的風習です。

生きている人間に対して「陰膳」をする心、言葉に表せない感謝の気持ちをプレゼントで表す、例えればきりがないほど人々は捧げてきました。やさしく暖かい気持ちを。その心に応えて「人類以外の生きもの」は必死に守ろうとしています。現代の世の中で、ややもすればなおざりにされがちな供える心、いわば「供養」というのは「慈しみ」以外のなにものでもないことを、この詩句が警告しているように感じております。

それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。

 

スッタニパータ217

第一 蛇の章
<12、聖者>

217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
上の部分からの食物――瓶から最初に取り出した食物。
中ほどからの食物――中ほどまで取り出された瓶から取り出した食物。
残りの食物――瓶の中に一匙か二匙か残っているのを取り出した食物。
おとしめて罵る――nipaccavadi (=dayakam nipatetva appiyavacanani.).
以上註より引用した。

他人から与えられたもので生活するというのは出家者の本来の姿であります。自ら生産をしないのが大原則です。托鉢(たくはつ)と申しまして朝から家々を回って食(じき)を乞うのであります。これを乞食行(こつじきぎょう)と申します。鉄鉢を片手に村々を回ると在家の方々が鉢(はつ)を満たしてくれます。これを寺に持ち帰り皆で分けて頂くのです。また着るものは布施された布を用いて三種類のお袈裟といたします。これを三衣一鉢(さんねいっぱつ)と呼んでいます。

現在の日本でも一部で托鉢は行われておりますが、ほとんど応量器という鉄鉢に因んだ漆塗りの鉢にお金を受け取ることが多いと思います。これも布施として有り難く頂戴しております。金額や食物の質と量にかかわらず黙って受け取ることが習わしです。これは食を与えてくれた方の功徳となるとされています。供養というのは供え養うと書きますが、仏道修行者に供養することは、また布施をするということは、「施与」という在家者にとっての大きな功徳になるとされているからであります。

もちろん供養、布施に値しない者がこれを受け取ることは大変な罪であります。修行をしてもいないのに修行者と名乗り、応供(おうぐ)といって供(く)に応じることは最も恥ずかしく愚かで悪道に落ちる原因となります。所謂似非僧侶には気をつけて頂きたいと存じます。

ここでは食を受け取る順番や中身には一切頓着することなく、供養者に対して平滑に扱うこと、すなわち褒めたり罵ったりしないことが強調されております。現代でも仏家には布施を受け取るときの態度として慇懃(人に接する物腰が丁寧で礼儀正しいこと。)であることが伝えられております。

布施する側にしてみればもっとペコペコと頭を下げてほしい、もっと感謝してほしいなどと思われる方もいるかもしれません。また受け取る側はなんだこれっぽっちかと憤慨する輩がいないとも限りません。慇懃無礼な奴だとか、僧侶を何だと思っているのかなどと考え違いも甚だしいものがあります。それを予め見越した本詩であると思えてなりません。

他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。