タグ別アーカイブ: 修行者

スッタニパータ464

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第四六四、四六五詩は第四九七、四九八詩に同じ。
 
以上註記より引用した。

梭(ひ)については第二一五詩を参照して下さい。機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)のことです。

欲望を捨てる。あっさりと説かれていますが、これは口でいうほど簡単なことではありません。だいたいそういう人に、お目にかかったことがありません。自身を振り返ってみても欲望だらけです。欲望はしばしば煩悩と呼ばれますが、何のことはありません。普通の人の普通の感情です。感情のほとんどが欲望です。ああしたい、こうしたい、嫌だ、好きだ、暑い、寒い、冷たい、熱い、何もしたくない、眠い、疲れた、あらゆる欲望とはこうした気持ちのことです。あらためて申し上げるまでもありませんが、気持ちを捨てるということは、感情を殺すことではなく、さっと離れることです。

欲望の対象にとらわれない。見たまま聞こえたまま感じたままの感覚にこだわらない。こんなことが果たして可能でしょうか。可能です。家という一番気持ちが表れている欲望の具体的な対象から離れて住むこと。たとえば、豪邸や高級マンションをイメージしてください。こうした住まいに住みたいと思ったから、そこに住んでおられる。またそれを買ったり借りておられる。気持ちが表れているのが現在の生活です。これも当然のことですが、あっさりとその思い、気持ちを捨てれば、家から離れることは実に可能です。可能ではありますが、これがなかなか至難です。

そういう気持ちを捨て、家から離れて歩み、よく自らを慎んでいる人々にこそ、供物をささげなさい、と。それは梭のように真っ直ぐな歩みを続けている人々、つまり修行者にこそ供物をささげる、供養しなさいという意味です。例によって、もし貴方が功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と続きます。

これは明確にブッダがバラモンを試しておられるところだと思います。解脱を求めて出家し慎ましく生活している修行者に供養をささげなさい。それが祭祀を行う在家の勤めですと言わんばかりです。事実そう繰り返し説いておられる。祭祀を祈りと言い換えてもよいと思います。これからも供物をささげ祈りを続けるのであれば、その供物は立派に修行されている人々に捧げなさい。出家者に在家者が供養する、それは善きことなのです。そういう生き方ももちろんありますよ、と。

風強し幡が纏わる雪が飛ぶ(月路)

夜中にお腹がすいて目が覚めました。観音様ののぼり幡が千切れんばかりに風にあおられています。あれは風が動いているのか、幡が動いているのか。ある人は自分の心が動いているのだと言われた、という大河ドラマの一シーンが、なぜか腹減ったという夢でした。まったく意味がわからないのが夢ですが、欲望とか、気持ちというのも夢の様なものではないでしょうか。つじつまというか、理路整然とはいきません。結局、気持ち。この不可解な気持ちとまだ当分付き合うことになりそうです。

諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ412

第三 大いなる章

〈1.出家〉

412派遣された王の使者どもは、かれのあとを追って行った。──「この修行者はどこへ行くのだろう。かれはどこに住んでいるのだろう」と。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

一目で修行者とわかる人を追いかけて、使者たちは「行き先と住まい」を眼にします。何でもないような表現ですが、単なる説明ですが、わたしには遠い過去のことが思い出されました。

ほとんど忘れかけていたのですが、断片的に思い出されるのは、子供の頃近所にちょこちょこやってくる乞食を追いかけてみたことがあるのです。探偵気取りで追跡してみようと思って尾行?したのです。

怖かった。ときどきジロっと後ろを振り返る。こちらは知らん振り。どんどん離されていき途中で見失いました。あとで聞いたのですが、わたしのほうが後を付けられていたという落ちなのです。とても怖かった。やばいことをしてはならない教訓になりました。なんでもその乞食さん、質の悪い人であったらしく大人たちからさんざん叱られました。何されるかわかったものじゃないぞ、二度とそんな真似はするな、と。

子供のころの好奇心というものは単純ですが、大人になると猜疑心が絡んできて、とても複雑なものに変わっていきます。それはそれで成長なのでしょうが、目的が不明確なままで行動してしまうところは相変わらずです。王様の好奇心にも獏とした期待があったのでしょう。その期待は見事に・・・。これからのお楽しみです。

派遣された王の使者どもは、かれのあとを追って行った。──「この修行者はどこへ行くのだろう。かれはどこに住んでいるのだろう」と。

スッタニパータ221

第一 蛇の章
<12、聖者>
221 譬えば青頸(あおくび)の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。

<蛇の章>第一 おわる

まとめの句

蛇とダニヤと[犀の]角と耕す人と、チュンダと破滅と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、──
これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
青頸の――nilagiva.「孔雀の頸は、宝石で飾られた杖のようであるから、青頸と呼ばれるのである。」(中略)
「青頸」ということは、インドでは尊ばれるらしい。シヴァ神の別名は、「青頸」(Nilakantha)という。これが仏教に入って「青頸(しょうぎょう)観音」が考えられるようになった(『大悲心陀羅尼』の「のらきんじ」は、右の原語の音写である)。

以上註より引用した。

私の所属する曹洞宗では、毎日「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」というお経をお唱えいたします。「ナムクカラタンノートラヤーヤー」で始まる十一面観世音菩薩に帰依するいわゆる陀羅尼経なのですが、お経の内容は最初と最後以外がシヴァ神を尊び称えるかのように「青い頸のものよ、幸いあれ」(ノラキンジハーギャラヤソモコー)といった調子なのです。サンスクリットで書かれたものを漢字で音写しさらに日本的な音読みですからスーバーハーが「そもこー」になっています。それはともかく曹洞宗では最も多く読まれるお経であります。

なにしろこのお経を百万遍唱えれば大きな功徳になるとさえ言われているぐらいです。一日に一遍ぐらいでは、100年でも365,000回ですから届きません。重要なお経であることは間違いないのですが、シヴァ神はインドのヒンドゥー教では最高の神の一で破壊を司ります。最高の神を青頸の孔雀に擬え、白鳥の速さに及ばないと結んでいます。仏教がヒンドゥー教の影響を取り入れ、いささか迎合的に信仰を広めていったのかもしれません。

インドでは仏教が衰退しヒンドゥー教が圧倒的に多いのですが、中国や日本に伝わった北伝仏教(大乗仏教)ではヒンドゥー教の影響を受けた、あるいはヒンドゥー教を取り込んだとされる部分が多いように感じられます。それは人々に分かりやすい伝え方であろうと思うのです。良い悪いではなくして科学的で哲学的さらには道徳的な原始仏教の外観に対して、信仰的な大乗仏教の外観は一般の人々に受け入れられやすいのです。

阿弥陀仏であれ観音様であれ、非常に信仰的です。神といってもいいでしょう。ただし仏教の外観はともかく、中身はブッダの教えであります。本詩のように在家者は出家者・修行者に及ばないとはっきり言えば、気に食わない人々が多くなるでしょう。原始仏典が一般人の眼に触れなくなった事情もその辺りにありそうです。

譬えば青頸(あおくび)の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。

スッタニパータ216

第一 蛇の章
<12、聖者>

216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
これは、現代でも大きな意味をもっている生活信条であろう。
以上註より引用した。

自制は基本中の基本でありますが、これほど言うは易く行うは難しものはありません。自制をしていれば他人を悩ますことがないと同時に、他人に悩まされることもないのであります。他人から受けるいかなる刺激に対しても反応しないという修行を積み重ねることによって、自己を制御することが可能であります。ここに修行が一生続く所以があります。一時的な修行は訓練や練習といったものに過ぎません。もちろん練習期間は必要ですが、一生続ける覚悟でしっかりと身につける、言うなれば習慣化しなければならないと思います。「悪をなさず自己を制している」という現在進行形で表現されているところに着目したいものです。

さて、この「聖者」の節は終始一貫してブッダの偉大さを説いたものでありましょうか。私にはそう思えません。もちろん聖者はブッダや阿羅漢果に達したブッダの弟子たちのことを指しているのでしょうが、主語は「かれ」であります。彼とは誰を指すのかといえばブッダが教えようとしている対象の人々です。その「かれ」に対して聖者はかくあるべしと繰り返し繰り返し述べておられるのです、友よかくあれと。

「諸々の賢者」は後代に「善知識」と呼ばれることとなる智者のことです。知識として現実を適確に捉えることができる「善友」と申し上げてよいでしょう。諸々の賢者は知っているのであります、聖者となる道を。

ものごとをよく知っていることは大変重要な事ではありますが、それで聖者となるわけではありません。解っていただけでは善き理解者の域を脱することは決してありません。修行者の足元に及ばないのです。ブッダが説かれた教えのたった一つでも身につけて実践している者が、時間と空間を超えてブッダの側近くに生きることになります。永平寺の前貫主であられた故宮崎禅師はそれを「真理を黙って実行する」と常々申されておりました。

自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。