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スッタニパータ516

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

どうしたら比丘は自制できるか。サビヤさんの三番目の質問に対して、ブッダは感覚器官を修養しなさいと言われています。この感覚というのは、外面的な五官により内面的な五感がもたらされるので、そこに意識を向けて修行しなさい、それが心の修養つまり心構えであり、現実的な対応だということです。もっと簡単にいうと、目や耳に入ってくる情報に好き嫌いの感情が生じます。これは好ましいとか好ましくないとか、あるいは快・不快といった気持ちのことです。この気持ちを冷静に観察するのです。すると「好き」が貪欲となり「嫌い」が怒りにつながっていく様子がはっきりします。また「どうでもいい」と無関心でいると虚無に陥ります。ではどうしたら良いかといえば、ここが修養、修行の要ですが、黙って「全て妄想」であると気づくことです。感覚に実態はないというしっかりした心構えがなければ、そのまま感情に流されていきます。その感情の激流に流され溺れれる前に、激流を渡るのです。どのように渡るか。空を知ることです。色即是空。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、臭覚、味覚、触覚の感覚の全ては空であり、それによって思うことは全て妄想であり、実態のないものであり、とらわれるものではないという真理を実行するのです。今までに学んだ仏法が現実の生活の中で活かされなければ、ただのお話です。他人事です。いつまで経っても自分事になりません。を積極的に意識する。それは虚無ではありません。キーワードは色即是空。それが般若の智慧です。般若心経のなかの中心です。

身を修めて

このを身体で知り覚えるのが坐禅です。いつも背筋を伸ばしている。これは無意識になるまで訓練が必要です。姿勢や態度に気を付けていると、余計なことを思わず考えずにおれます。妄想が少なくなるのです。道元禅師が著した「普勧坐禅儀」を読むとよく分かるのですが、徹底して姿勢に注意することが事細かに述べられています。坐禅中に無心になるにはどのようにすれば良いかではありません。もうそういうレベルは超えましょう。ただただきちんと坐る。正身端坐といいますが、まさに身を正す以外無いのです。何か考えたらそれは余計なこと。妄想しそうになったら背筋を伸ばすのであります。これは道場以外の場所でもすぐに出来ます。首筋に意識を向けることです。なんにも考えないということは、身体の芯が真っすぐにならないと実現できません。そういうのが心構えです。この世とかあの世とか、そういうものも離れて、身を修める。きちんとするということです。

片付ける物の置き場を片付ける(月路)

整理整頓。これが私の今日的課題です。物がやたらと多いことに、引っ越しの際に嫌というほど気付かされました。困ったものです。土木工事に掛かる前に建築工事ということで、道具類を片付ける物置場を作ることにしました。友の倉庫を見た時にきちんと整理されているなあと思いましたし、とにかく勝手口が道具だらけで通行不能に近くなってきました。ここからやらねばと思っています。

どうもわたしは一言も二言も多い。これは昨日の総会でも自身で気づきました。あとから考えれば云わなくてもいいことまで、ついつい説明のために言ってしまう。自分の嫌いな部分です。これも観念なんですが、ここはいい年になったんだから少しは是正しなきゃならんと思っています。ただし若いうちは自分が正しいと思ったことは言うべきだと思います。またどんどん思う存分行動すべしといいたい。胸のうちにしまって、言いたいことを封鎖していると、どこかで暴発します。そういう怖さを感じます。引きこもりが相変わらず多いそうです。引きこもって何もしていないのが一番怖い。せめて遊びに行ってほしい。そんな風に思いました。

全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

スッタニパータ490

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人──kevalin.完全に束縛を離れ解脱した人のことを、ジャイナ教ではkevalinと称する。仏典一般ではそういう呼称を用いることはないのであるが、ここでは例外的にジャイナ教と共通な呼称を用いていることから見ると、この詩を作った人はジャイナ教と共通な精神的雰囲気のうちに生活していたことを示す。或る場合には「なすべきことを完了した人」と解せられている。pariniṭṭhitakiccatāyakevali(Pj.p.427,ad Sn.519).

実に執著することなく

世間に暮らしていながら全てにおいて執著しないということは実に至難であります。否、至難というよりも殆んど不可能なことでしょう。これを実行している。世間のどのような眼に晒されていようとも、何事においても動揺することなく毅然と歩みを続けている。これは誰にもなかなか真似ができません。その真似をする。一日真似すれば一日の真似。二日しても三日しても、それは真似であります。ところが、それを一生やっておったらそれは本物や、と教えられています。

一生やる。そうした心がけ。志。具体的には「日常底(にちじょうてい)」に努力を重ねる以外にありません。普段の日常に不断の努力を行っていく。日常こそ修行であるとする所以であります。「修行というと何か特別なものがあると思っておる。そうではなくして、ふつうの毎日の勤め、毎日のなすべきことを黙ってやる。それ以外にないんだ。面倒だとか意味がないとか余計なことを考えておったら、それはみな妄想(もうぞう)や。妄想することが執著(しゅうじゃく)やね。何か考えたらそれは余計や。余計なものはさっさと捨てるほかない。久修練行(くしゅれんぎょう)。それが日常底でなければ仏祖が歩まれた道とは言わんのや」と。

無一物

久修練行とは久しく修行することです。修行という言葉はこの四字熟語が語源です。修行は英語でプラクティスと訳されています。突き詰めれば「日常が修行」ということです。修行に余計なものは何も持たない。だから無一物といえます。無所有ともいいます。人間本来無一物。何も持たない。何も握りしめているものはない。無執着が無一物であるわけです。これが修行の目的です。無一物になれば、無常が「常」となる、つまり解脱するということです。

翻って我々は、余計なものをいっぱい携えて歩んでいます。だから重たい。徳川家康は「重荷を背負いて遠き道を行くが如し」と結んでいますが、これが家康の人生を振り返ったときの実感であったのです。重荷ならば捨てればよろしい。重荷とは責任でありましょう。世間ではそれが常識です。当時トップの座にありながら組織や部下の責任がほとんどで自分は裁可の責任しかないと強弁した自称武士(もののふ)とは大違いです。重荷なら捨てればいい。プライドだとか意地だとか見栄とか、そんなものが重荷です。家康と、ある元知事とは似ても似つかない。重荷を果たした人と重荷から逃げる人。重荷の扱いがまるで逆です。他人事ではありません。誰もが、ある意味、ある元知事と同じなのです。

「仏道を歩む」とかんたんにいいますが、それは仏仏祖祖の道を歩むという重い責任があります。自己が自らの責任で無一物となることが他己の福田となるのだという責任です。重荷かもしれません。重い責任があるということです。できなければただの物乞い、我執です。無一物、かんたんなことではありませんが「捨ててこそ」。何を捨てるべきかは今更申すまでもありません。

自己を制した人

自制。これを完全に出来る人が「全き人」如来であります。宇宙人。全宇宙の尊き人です。めったにお目にかかれません。ですが、おられたのです。ブッダその人です。自己を制したものが全宇宙を制した人であります。己を制することができれば、それは我慢でもなく、辛抱でもありません。耐え忍ぶことが修行の中身です。あの人がこういった。そんな余計な小さなことで目くじらを立てているようでは自制には程遠い。こだわらない、とらわれない。無執着で無一物が自制の姿であります。

発心・修行・菩提・涅槃は仏道の四大要門とも言われています。けだし、正しい発心によって仏門に入り、戒律にしたがって修行し、仏祖の教えを究め解脱して、一切の苦を滅するというものです。今日だけというものではありません。仏門に入った以上は毎日毎時間が全て修行であり、修行以外にはありません。

桜植え紅葉を植えて腰掛けて(月路)

昨日は戴いたモミジの苗木を檀家さんといっしょに玄関先に植えました。寒椿、梅花、桜花、紫陽花エトセトラ、秋には紅葉と季節の彩りが豊かになってまいりました。落ち花もまた風情です。玄関横の階段に腰掛けながら、ちょっと一服。いいものです。ほんの御礼の気持ちでお寺から線香を差し上げました。線香投資。くだらんことを言っている場合ではありません。今日からは福井に戻って引っ越しの準備とか何やらいっぱいあります。ただいま午前三時半。さあ今日も坐禅にはじまり坐禅に終わる如常(日常)が始まりました。さあ、やるぞ。

実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ441

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ナムチの軍隊に埋没してしまって姿の見えない修行者とバラモン。欲望を先陣とする数々の軍隊にすっかり滅ぼされた者たちは、もう修行者でもバラモンでもない。それで姿が見えない。攻撃に破れ沈み消されてしまったわけであります。

なんとも凄い言い方ですが、結局ナムチ軍に勝てるものはほんの一握り、いや勇者というのは全く稀有であります。これは現実をありのまま表現しているのでありますから誰もこれを否定しえません。

修行などと軽く口にも出せないのか?

後に仏教は聖道門と浄土門に大別されることになります。私はこの分類にはほとんど意味がないと思っておりますが、とにかく自力と他力といった考え方が現れることになります。そもそもブッダ釈尊は自力や他力どころか、そういう仏教的なことは何も仰っていないのです。ブッダの話を聞いた人が、私はこのように聞きましたという話を体型的に分類整理していったものが後代に仏教として伝えられたわけです。それを否定しようというのではありませんが、肯定しすぎると的が外れていきますよということだけは申し述べたいと思います。

今日の詩句だけを見れば、欲望や妄執などに打ち勝てる者はほとんどいないのが現状なのですが、それでは修行に意味が無いのかといえば、それは全く違います。爪の垢でも煎じて飲めばよろしい。完全な人など居ないというのは事実ですが、完全なものを求めているのも事実です。だれだっていい加減な人間を信用しないのと同じことです。素晴らしい人がいる。そういう人が現実にこの世に居た。それだけでも救いであります。宗教はそういう完全な人、あるいは絶対的な存在に帰依したいという欲望であります。それは一言でいえば幸せになりたいとか幸せでありたいといった純粋な希望でありましょう。

聖道門というのは悟りの仏教、これを自力といっています。浄土門というのは救いの仏教、これを他力といっています。この分類に意味が無いと思うのは、悟りも救いも自力も他力も分ける必要がないと思うからです。たとえば南無阿弥陀仏と念仏するのは自力であり他力であります。念仏をお唱えするということ自体が自力ですし、それで救われるのですからこれは他力である。坐禅や唱題とて同じ。やらなければ何にもならないし、決して自己満足ではないでしょうし、坐禅や唱題をしたからといって何にもならないなら誰もしないでしょう。

全て意味はあるのです。ただわからないだけです。真理がわかったということは何も解っていない証拠です。わかるわけがない。そう思って正解。小難しい理屈や妙に説得力のある解説に少し気分がよくなる程度だと思っておきましょう。自惚れや他惚れ?に気をつけましょう。徳行ある人々の行く道というのは、いわゆる天上、極楽、お浄土への道のことです。そうした道も知らない、知っていない、知ろうともしないナムチの下僕になるなと申されております。しかしナムチは知っているのです。だからそれを断念させようと躍起です。

一つでも 貫けば善し 寒の入り (月路)

ブッダのように完全を貫くことは無理です。しかしながらブッダの爪であるところの優しさ、慈悲のかけらでも実行しましょう。それだけでも凄いことなんですよ、実際。謙遜というのは、自分を小馬鹿にした言葉ではありません。こんな私でも何か出来ることをさせてもらいたいという謙虚で慎ましい姿勢と態度であると思います。うちの檀家さんで、金銭的には何も出来ないと言われつつ、奉仕作業に朝早くから熱心に取り組まれる方がおられます。頭が下がります。指先の感覚がなくなるほどの冷たい水で洗い物をされている姿。人が見ていないなか神社の落ち葉をかき集めておられる姿。いつのまにか、お地蔵さんに供えられている野に咲く花。観音様に供えられていた十円玉。どれも真心。これが信心。年いったのでしょうか、やたらと涙もろくなってきました。不言実行。徳行。やっぱいい言葉やね。

或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

スッタニパータ426

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

426(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ナムチ――Namuci.ヴェーダ聖典並びに叙事詩『マハーバーラタ』では或る悪魔の名で、インドラ神と戦って征服された。この名がここにとり入れられているのであるが、原子仏教聖典では一般には魔(Māra)と呼ばれている。

いたわりの――karuṇa.この形容詞は「悲しい」という意味ではなくて、明らかに「あわれみの」という意味である。(中略)

悪魔が「ナムチ」という名で登場しているのは、この一連の詩句がヴェーダの神話にむすびついていて、他の多くの仏典よりも古いことを示している。ナムチ(Namuci)殺害物語はMBh.9,42,29-1に述べられている。
 
以上註記より抜粋して引用した。

よりによって新年早々元旦に「あなたの死が近づいた」ときました。従来のわたしなら即座に「縁起でもない」と違う記事に差し替えていたかもしれません。ところが今のわたしときたら正月にこそ相応しい始まりではないかとむしろ喜びをもって迎えています。今年もどうぞよろしくお願い致します。じつは今年は昨年末に当寺の前住職が御遷化されましたので、喪中でございます。つきましては世間並みに喪に服したいと存じます。

さて、昨年も魔多き年でありました。魔が差すということも多々あったことでしょう。加害者であれ被害者であれ悪魔の仕業と思いたくなるのもやむを得ないことかもしれません。魔(マーラ)というのは、自己の深層心理に存在する否定的な感情を擬人化した表現だとは思いつつも、案外実際に、この世に魔というものが存在するやもしれません。一般に神の対極にいる悪魔というものは想像上の存在と信じられていますが、宗教を超えて悪魔が語り継がれてきた最大の理由は、人間が悪魔に成り得る現実を直視したからでありましょう。キリスト教は言うに及ばず、日本の神道においても邪気という罪科穢れをもたらす存在が知られています。それはさておき、本詩に出てくるナムチは強敵であります。

あわれみを込めた、いたわりの言葉でそっと囁くのです。日本語で表現すれば「大丈夫ですかゴータマさん」といった調子でしょうか。こういう手合は気をつけたほうがいいのです。「顔色が悪いよ。もうすぐ死んでしまうよ、そんなに無理したら」言葉だけを聞いていれば、なんと情のある良い人だと思ってしまうことでしょう。言葉は重宝です。何とでも言えます。心に思っていなくても同情する人はたくさんいます。大変うがった見方ではありますが、修行している者に向って、「そんなに厳しい修行していたら病気になっちゃうよ。適当にしておけばいいよ」という甘い言葉をかけるのです。大きなお世話です。命がけで修行している者に、甘言は禁物です。もちろん崖の上で坐禅している人には声もかけられませんが、悪魔は近づきます。この近づいてくるというところが臨場感たっぷりです。

門松や 用心なされと 一休み (月路)

今日は元旦ですから明るいニュースも提供したいと存じます。このマイクロサンガというブログが一年以上も一日も欠かさず続けられました。パチパチパチ。風邪で寝込むこともなく、尿管結石で入院中も、狭心症で救急搬送も乗り越えて、死なずに続けることが出来たのです。この無精者のわたしが今日も投稿できた。これは友の厳しくも優しい眼のおかげですが、友と共に手にした勝利ですが、我が事としても大変嬉しい限りです。その成果は、いずれ近いうちに発表しますが、今年はこのまま行けば大変ユニークな一年になります。また私事で恐縮ですが、一層責任が重くなる年でもあると覚悟いたしております。

なにはともあれ、スタートいたしました。この記事がアップされる午前0時には除夜の鐘と相まって元旦のおつとめが始まります。修正会(しゅしょうえ)という正月三が日の行持では毎朝祈祷太鼓を打ち鳴らしながら、一年の安穏を祈ります。祈祷札と立春大吉と鎮防火燭の札を仏前に供えて、三日の朝から檀信徒宅へ持って配るのですが、雪の降らないことを祈っております。もちろん雪が降っても歩いてでも配るのですが、はたして今年は暖冬という話もありますから・・・。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

スッタニパータ275

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚(ちりけが)れを増す。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
荒々しいことばを語り――註にしたがって解した。(mukharajatiko=pharusavacano)

自分の塵汚れを増す――ジャイナ教でも同様にいう。(veram vaddhei appano.)

最初期の仏教においては、「出家」とは文字通り、家から出て家の中に住まぬことであったらしい。「家から出て家なきに至る pabbajito……agarasma anagariyam」という句は、古い仏典に現れてくるが、「家なき」というのは「農耕・牧畜などの家業を行わぬことである」と註解されている。(中略)ここで「家」(agara)という語は、家柄・家系・家庭の意味ではなくて、「家屋」「建物としての家」の意味に用いられるのがインド一般の通例である。原始仏教および原始ジャイナ教(中略)の古い経典では修行者を「家なき人」(anagara)と呼んでいる。古い仏典をみても、修行者は少なくとも一年のうちの或る時期には実際に家の中に住まなかったらしい。出家したあとのゴータマは一時王舎城のパンダヴァ山の山窟(girigabbhara)の中に坐していた。そうしてこのような生活が実際に修行者たちに勧められている。

以上註より抜粋して引用した。

 

他人を苦しめあるいは悩ますことを好む者は、獣のような性質であります。そういう人は自分で自分の首を締めるようなものであり、どんどん生活が悪化し、自己に付着する塵汚れが増すとされています。その先は申すまでもありません。悪道へと落ちていくのです。

この詩句での重要なポイントは「もしもかれが」という箇所です。誰でもそうなるのではなく、もしもという仮定であります。これは最悪の仮定です。ほとんどの人は自分はそうではないと思っているでしょうし、実際それほどの悪人はそうそういないのですが、人間貧すれば鈍すると言われるように、心が貧しくなるとそういったことにも気づかないでどんどん悪化していくものです。これは心の方向に問題があります。真に慈悲の心で行う言動は、たとえそれが荒々しい言葉であっても人を傷つけるものではありません。ところが優しい言葉であっても、その言葉の奥に嫌悪があれば、人は簡単に傷つきます。陰湿なイジメがそうでありますし、体罰と称するものの多くは傲慢であり嫌悪感情のなせるものでありましょう。

ただし極力荒々しい言葉、暴言を吐かないようにいつも注意することは最も大事です。言葉ひとつで人は傷つき、言葉一つで人は勇気づけられるものです。もう少しで危ないところを救われた、そうした救いの言葉、たかが言葉されど言葉であります。修証義に「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」とあります。まさに愛語の力は計りしれません。

道元禅師さまの御詠歌に「水鳥の往くも帰るも跡絶えて、されども道は忘れざりけり」とあります。水鳥たちの行ったり来たりの動きは水面にも空中にもその跡が残りません。しかしながらその往復の道を忘れることはありません。同様に私たち修行者の修行の跡は何も残りませんが、修行の道が消えることはございません。仏仏祖祖の残された道はしっかりと受け継がれていきます。それが日日の行持であり、仏道であります。

もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚(ちりけが)れを増す。

スッタニパータ269

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗(やぶ)れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがかれらにとってこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
幸福――sotthi.ここに述べられている幸福論は、必ずしも体系的とはいえない。原文は詩句のため韻律の関係もあり、論理的に筋道たてて述べられているわけではない。ただ、幸福に喜び満ちあふれている心境がつぎからつぎへとほとばしっている。その喜びの気持――それは現在の私たちのものでもあるといえる。

以上註より引用した。

この詩句が本節の結びであります。結論として、以上に述べた数々の行いを『修行』と申します。修行していれば、どのようなことがあっても負けることがなく、どのようなことについても『幸福』であり続けます。なぜならば修行の価値はそれが幸福そのものであるからです。修行しているという誇りは、大きな自信となり、それ自体で完全であります。欠けるところがないのです。これを「円成」(えんじょう)と申します。 この言葉の意味を調べて、「円満に仏の心を成就すること」と辞書に書いてあるのを読んでも、一生かかっても解りません。ところが、修行の喜びを知っているものは、たとえ草むしり一つであっても、みごとに円成するのであります。

これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗(やぶ)れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがかれらにとってこよなき幸せである。

スッタニパータ238

第二 小なる章

<1,宝>

238 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<つどい>を礼拝しよう。幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

三宝(さんぼう)の三つ目は、サンガ(僧伽)であります。ブッダの教えを実行する仲間のことです。偉大なるブッダを心から尊敬し、そのブッダが説かれた最高の教えを聞き、それを素直に実践していたとしても、一人ではなかなか続かないことがあります。そのような時に、仲間の存在は頼もしい力となります。仲間に依存するのではなくして切磋琢磨する戦友のようなものです。道元禅師様は「勝友」と申されました。勝れた友であり、共に勝つ仲間であります。誰か他の人に勝つのではなくして最も手強い自己との戦いの勝利者となるを目指し合うお互いであります。

宝が自己の内にある確信を「信念」と呼びます。信念なくして何事も続きません。それは修行を続けることが如何に困難なことであるかという実感であります。修行道場(僧堂)などでの集団生活での修行は案外続くものです。それは身近に修行仲間がいるからです。ところが一人で生活していると怠慢というものが絶えず襲ってまいります。まあこれぐらいいいだろうという甘えが修行を阻むのであります。この甘えとの戦いが文字通りの修行であると存じます。そんなときに師匠とか先輩や修行仲間の声が内に聞こえてまいります。

宮崎禅師は「誰かが見ておろうが、いまいが、そんなことは関係なしに、いつでも行儀よくせんならんのや。そういう日常の何気ない姿勢とか行いが、修行であり、努力だ」と常々申されておりました。

われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<つどい>を礼拝しよう。幸せであれ。

スッタニパータ212

第一 蛇の章
<12、聖者>

212 智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ここでは、心の統一と瞑想(禅定)について考察してみます。禅定は戒律や智慧とともに仏教の三学と呼ばれています。もとより後世の仏教一般における分類であり、戒と定(じょう)と智慧は分けて捉えるべきものではありません。

戒は自己の戒めであり、定は別名「果」と訳されるように四向四果とか四沙門果の果でありまして、悟りの階梯を指す言葉ですが、これもまた仏滅後何百年も経ってから後世の仏教学者の研究によるものです。

あまり学問的なことに拘らずあっさりと申し上げますと、実際の修行段階であります。その中身は外観からは瞑想とか坐禅といったスタイルです。何もしていないように見えるのが特徴です。ただ寝そべっているのではありません。きちんと坐って修行しているのであります。これはブッダ以前のインド社会でヴェーダ以来もしくはそれ以前からの最もポピュラーな修行スタイルなのです。ヨーガも源流は同じです。坐るだけが修行ではありませんが、一番安定した身体に負担の少ない精神統一に最も適した姿勢であります。

形式は結跏趺坐という足を組んで手をその上に乗せて法界定印という両親指をつける手の組み方をします。仏像(坐像)でおなじみでありましょう。

こうして坐ってからすることは呼吸ぐらいのものです。これもことさら作り事をしないで息を長いなら長いまま短いなら短いまま、いわゆる特別な呼吸法を用いずに、ただ坐って一息一息を刻々とありのまま気をつけるだけで何も考えません。最初のうちは色々と頭に浮かんできますが、それに執著しないであっさりと手放します。

よく精神統一を精神集中と勘違いすることがありますが、心の統一とか精神統一というのは、簡単に言えば普通の人でもバラバラになってしまっている心の意識の運転を完全に止めることです。いわば思考停止するわけです。考えない努力と言ってもいいでしょう。まあそれさえも考えない。考えないということも考えない。何かに集中することもしない。

たとえば念仏でも唱題でも読経であっても集中していると間違います。余計なことを思っても当然間違います。集中することなく集中すると言ったら変ですが、頭を空っぽにするような感じで、とにかく無心になって坐禅なら坐禅、読経なら読経になりきる。無念無想と申しますが、大宇宙のど真ん中にポツンと坐っている、そういう姿勢と心が一つになっている状態が心の統一ということです。

心と身体が別々になっているというのは、今ここに居ながら坐っておきながら、過去や未来に心が向いてしまっている状態です。大便をするときは大便になる。小便のときは小便そのもの、他の余計なことを頭に置かない。

この方法が正しいとか、あれが間違っているとか余計なことばかり考えて今ここに居ない。心ここにあらずの状態から、今、心ここにあり、ありのまま、あるがままを修行いたしましょう。

智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

 

スッタニパータ204

第一 蛇の章

<11、勝利>

204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

平安ーーsanti

ニルヴァーナは漢訳では「涅槃」と呼ばれています。ニルヴァーナの定義は不死・平安・不滅の境地に達していることだと明言されています。では不死・平安・不滅とは具体的にどういうことでありましょうか?

不死とは死なないということではありません。二度と生まれ変わらない、すなわち今生が最後の生という永遠の存在となることです。不環果とも言います。

平安とは読んで字の如しであり、心の平和が安定している状態ともいえます。清浄であり全くの清寂であり寂滅とも呼ばれます。

不滅とは不死すなわち不生不滅と言い習わされておりますが、永遠の命、永遠の存在と申し上げてよいでしょう。

ニルヴァーナを言葉で捉えようとすると仏教の理想としてしまうきらいがあります。この世において愛欲を離れた修行者はニルヴァーナの境地に達したと申されております。ブッダ御自身だけのことで、これを不可能に近い理想的な境地として誇られたのでありましょうか?

この世においてというのは、生きている内にということであります。生きている内に「愛欲」を離れること。目指すはこの一点に尽きます。自己を含めた一切に対する執著を断つことは決して不可能なことではありません。

この一瞬にニルヴァーナの境地を味わうことはできます。静かに坐り、今この一瞬一瞬に何も考えないことです。一息一息しかないのです。そうした修行をしている瞬間はまさにニルヴァーナの境地であり、夢でも理想でも目的でもなく、あるがままであり、瞬間瞬間のぎりぎりの過去も未来も関係なく独立した、今この瞬間だけであります。

今ここ一瞬一瞬が命であります。生も死も一瞬であり、一時の位すなわち一時的なものであります。何ものにもとらわれない命の瞬間を全身全霊で生きることを修行と申します。

この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。