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スッタニパータ558

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは〈さとった人〉(ブッダ)である。バラモンよ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
仏教教学では、知、断、証、修の四つをまとめて説くのが型となっているが、ここでは「証」が説かれていない。つまり型式化する以前の段階のものであることを示す。

以上註記より引用しました。

仏教教学以前に釈尊の教えがあり、釈迦滅後に経・律・論が整備されてくると、いわゆる教学というものが次第に整然としたものになっていったのですが、いわゆる悟りというのは、証悟というように「証」そのものであります。そこからすると、さほど「証」が説かれていないともいえません。

四聖諦ししょうたいの真理を知り、八正道の実践を修め、妄執を完全に断ち、それ故に覚者と成ったのですから完璧であります。どこにも欠けたところがありません。さとりを開いた、ゆえに私は仏陀であると名乗らざるをえないのです。謙遜せざるを得ない我々とは天地ほどの差があります。ここを勘違いしてはなりません。これほど堂々と理路整然とした宣言はないのでありました。

 参拝記念ご朱印ガールならずとも

御朱印帳がインターネットでも買える時代です。「ご朱印ガール」なる女子たちがおられるそうで全国の寺社仏閣を訪れているとか。わたしもサンプルをパソコンで作ってみました。この御朱印には、ある程度の決まりがありまして、真ん中に御本尊を書いて、右上には奉拝と、その下に参拝日を書きます。左下に山号や寺院名を書きます。丁寧に書くも良し、太く細く特長を活かして揮毫する寺院が多いと思います。所定の箇所に三宝印や札所印あるいは山号印、寺院の印鑑を押して完成です。ご朱印帳に書きますから失敗は許されません。記念スタンプを自分で押してもらうのと違って、たいへん緊張します。慣れてくると一度に何十冊書いても平気なこともあるでしょう。参拝者が多い寺院や神社は大変です。平筆で書いている人も多いですね。横で見ている分には簡単そうですが、意外と同じように何枚も書くというのは難しいものです。慣れといえば慣れですが、考え事でもしていようものなら、これ以上は余りに恐ろしいことですから申し上げません(笑い)。

わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは〈さとった人〉(ブッダ)である。バラモンよ。

スッタニパータ471

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
最上の知見によって――註には「全知者の智によって」と解する(中略)。

最後の身体をたもっている――もはや生まれかわってさらに新たな身体を受けることがない、との意。ニルヴァーナに達した人のことをいう。ニルヴァーナに入ると、もはや身体をたもつことがない、と考えていたのである。

以上註記より抜粋して引用した。

ニルバーナ(涅槃)に入るまで

  1. こころをひとしく静かにして(正定、正しい禅定)
  2. 激流をわたり(解脱する)
  3. 最上の知見によって理法を知り(智慧による正見)
  4. 煩悩の汚れを滅しつくして(煩悩滅尽)
  5. 最後の身体をたもっている(涅槃寂静)

一日中坐禅していることは通常できませんが、身を正して坐る禅定というのは、時間的にはそれこそ五分かせいぜい二十分程度であっても集中している時間です。それこそ一息一息瞬間瞬間を何も考えないでいる。大変なことです。毎日毎日どんどん変わっていく。だから大変といいます。言葉の遊びではなく確実に成長していきます。昨日と今日ではほとんど成長が感じられません。植物の成長と同じです。しかし智慧が育まれていることは確かなのであります。

解脱するというのは、蛇が脱皮するようなものです。成長のたびに。覚りといってもいいのですが、言葉が先行してしまうきらいがありますので、ブッダが喩えられたようなイメージがぴったりかと思います。激流に飲み込まれることなく、河を渡り切ることです。具体的に申し上げれば、毎日いろいろな出来事に出会います。そのたびに渡るのです。大きな河を一跨ぎで渡ることなど出来ようはずがありません。中洲というものがあります。洲(しま)は自己であり理法です。自灯明法灯明ともいいます。そういう拠り所をもって激流を渡っていくのです。

渡りきったときにはじめて智慧が完成します。智慧を育むには禅定以外ないのです。ですから八正道の最後に正定が説かれており、また最初の正見へと続いているのであります。毎日の初めと毎日の終りに五分ずつでも良いのです。無理する必要は全くありませんが、毎日少しでも続けることが最も大事であります。

智慧は最上の知見(正見)です。あるがままを観るということです。目に映る姿は、耳に聞こえる音は、あるがままではありません。感覚に過ぎません。感覚にまどわされることなく、その実際を観察することです。空なりと観ずる。このことは説明すればするほど深みに足をすくわれてしまいますので、禅定によって体得(体解:たいげ)するより他にないと申し上げておきます。智慧の中身を説明できるものではないのです。すべての人々に共通する智慧などあり得ません。皆、ひとりひとりの中にしか無いのですから。摩訶般若波羅蜜。

バレンタイン翌日晴れて涅槃会に(月路)

今日はお釈迦様のご命日。涅槃に入られた日です。三仏忌の一つです。昔作った動画を貼り付けておきます。わたしが遷化したら(死んだら)この歌を歌ってやってください。お願いをしておきます。

こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ444

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
444-445 この二つの詩句から見ると、人々に対して教えを説くことが、義務とされているのである。

以上註記より引用した。

本詩と次の詩は、ブッダ釈尊がさとりを開いてから、人々に教えを説きながら遍歴された45年間を統括された内容となっています。後に八正道と呼ばれる実践の在り方を簡潔に示しておられます。ナムチを退け完全に解脱しています。前の詩句までは、精励の様子を克明に描かれているのに対し、本詩においてはすっきりと旅立ちの決意が述べられております。何も心にかかることがない晴れやかな様子であります。

自らの思いを制すること

自分の思い(思惟・考え方)を制御すること。人は皆、自らの思いによって生活します。仕事であれ趣味であれ日常生活のすべてが自らの思いによって立ちふるまいます。この思いをコントロールしていく。これが基本です。正見、正思に始まる八正道の最初の部分の原典ともいうべき簡潔な表現かと存じます。

念(注意)を確立すること

日常すべてにこの念(おもい)を確立する。いつも注意している。気をつけている。これは交通事故などに気をつけるといった漠然とした思いではありません。何をするにも、よく知り、よく気をつける。一息ごとの注意です。正知と正念といいますが、阿含経典の「如来は道を教える」に詳しく述べられておりますから、ぜひ今一度参考にしてみて下さい。漢訳では「算数目犍連経」と呼ばれる比較的古い層に属するお経で、ブッダがその弟子に最初に修行の具体的方法を教えるくだりが分かりやすく紹介されています。当時の修行指導の様子が目に浮かぶ内容です。ぜひご一読下さい。→ここから

国々を遍歴された理由

ブッダ成道より八十歳で涅槃に入られるまでの四十五年間はまさしく遍歴でありました。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の説話もありますが、神話的な話は脇におきまして、ブッダの悟りを極言すれば、慈悲、いつくしみに尽きると思います。もの凄い修行であったのですが、死をも顧みない壮絶な魔との戦いであったのですが、その結論は、人々にはこの深い真理は決して理解できないであろうが、それでも道を教え続けることである。いずれは多くの者があとに続くとの確信でありました。

事実、仏教は二千五百年続いております。八万四千の法門と幾千万巻の経典ことごとく、ブッダの智慧と慈悲を今に伝えています。教えを聞く人々をひろく導きながら。この発願に全ての思いが込められているような気が致します。このひろく導きながらは原文のままです。色んな弟子が居ていいのです。仏教徒はみんなブッダの弟子です。中にはそれこそ様々な人々がおります。そんなことブッダは、とうの昔にご存知でありました。

閑話休題

四九日や 浴司掃除が 残りおり (月路)

四九日(しくにち)と言いまして、四と九のつく日が浴司(よくす・風呂)であったり髪と鬚を剃る日でもありました。もちろん今では毎日のように浴びておりますが、誰かと会う時は極力鬚を剃りますが、原則は四九日、まあ修行僧の休日というか一休みの日です。坐禅をお休みするお寺も多いと思います。放参(ほうさん)とかいいましたが忘れてしまいました。

みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

スッタニパータ385

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

385(師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持(たも)て。目的をめざす思慮ある人は、出家人にふさわしいそのふるまいを習い行え。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
目的をめざす――atthadassi(=hitānupassi)

思慮ある人――mutimā(=buddhimā)

以上註記より抜粋して引用した。

お待ちかねのブッダの回答が始まります。ブッダの答えは、ダンミカさんの「どのように行うのが善いのですか?」という質問に真正面から答えておられます。それは煩悩を除き去る修行法です。これは出家の修行僧の修行法として話されたものです。

僧(比丘)の修行法と在家者では修行の中身が異なります。これは当初からはっきりしています。ダンミカさんは在家者でありながら出家者と同様の修行を行うことができそうですが、確実に相違することがあります。それは托鉢(乞食)以外の所得を得ることができるということです。つまり生産活動なり財産による果実を得る方法があることでした。当時の比丘は、兼業や財産の所有ということは許されていません。それは現在の日本では考えられませんが、南方仏教を持ち出すまでもなく本来の出家とはそうしたものです。

修行法というと、滝に打たれたり、火で身体を焼いたり、不眠不休などを想像される方もおられるかもしれませんが、最初期の仏教ではそうした荒行などは一切示されておりません。毎日の普通の生活(行住坐臥)を淡々と行うだけです。じつは大小便や沐浴あるいは睡眠、食事などを正念と正知をもって行うことが主です。儀式的なものはほとんど無かったといって良いかと思います。説法を聞くとき以外は、ほとんど樹下で坐す、禅定ばかりの毎日であったのです。つまり托鉢や食事のとき以外は四六時中坐禅ばかりしていたのです。

在家者には伝統的な斎戒(ウポーサタ)などの儀式的なものがありますが、本来の比丘には儀式的なものはほとんど見られません。もちろん後世になって読経というものが伝承されていきますが、ブッダ在世時にはもちろん読経もありません。一通り教えられたら、それを日々実践する毎日であったのです。このスッタニパータひとつ取ってみても、膨大な数の教えが織り込まれているように錯覚しがちですが、ここまで見てまいりましたように、ごくごく限られた内容です。難しい教理などは後世の「まとめ」から編み出された解説です。それは結果的にわかりやすくなったかもしれませんが、教科書に対する参考書みたいなもので、学問的また趣味的に深めていくのには役立ちます。ところがそうしたものはほとんど理論です。論より証拠といいます。知識を深めるのが目的ではありません。理解をたすけるようで逆にその知識が邪魔になることもあります。

結局、八正道を守り、坐禅するのが仏教の全道であります。

それはヨーガ(ヨガ)と同じスタイルで、瞑想でもマインドフルネスでもいいのですが、その人きりの「手放し」、何か考えたら、もうそれは余計なことです。煩悩を除き去るには、徹底してやるだけです。何も考えない、とらわれない、握りしめない、追いかけない、偏らない、こだわらない。こうした言葉さえ全部忘れる。それが坐禅の姿です。坐禅というのが面白くないならヨガでも瞑想でもいいです。言葉はネーミングみたいなものです。何しろ「坐ってみませんか」

yoga

(師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持(たも)て。目的をめざす思慮ある人は、出家人にふさわしいそのふるまいを習い行え。

 

スッタニパータ267

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
修養――tapo.一般に「苦行」と訳されるが、しかし仏教では身の毛もよだつような苦行、荒行を勧めているのではないから、便宜上「修養」と訳してみた。ブッダゴーサは「煩悩を焼きつくすこと」だと解している。(中略)

聖なる真理を――ariyasaccana.saccanamとあるべきなのに、metreの関係でこうなった。

安らぎを体得すること――原文ではニルヴァーナを体得すること(nibbana-sacchikiriya)となっている。世俗の生活をしている人が、そのままでニルヴァーナを体得できるかどうかということは、原始仏教においての大きな問題であったが、『スッタニパータ』のこの一連の詩句からみると、世俗の人が出家してニルヴァーナをを証するのではなくて、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる(しかし、のちに教団が発達すると、このような見解は教団一般には採用されなかった)。

以上註より抜粋して引用した。

この詩句は、現代仏教学の常識をひっくり返すほどの衝撃に満ちています。それはニルヴァーナ(漢訳では涅槃という)の境地を体得できるのは出家だけとは限らないということです。これは「安らぎ」の境地という表現と根本的に相違します。いわば「悟りの階梯」であるとか四向四果といったものは後世の仏教学者が伝えたものですが、それらとは全く別に原始仏教(一般に初期仏教と呼ばれているものは必ずしも最初期の仏教ではありません)すなわちブッダご在世のころには、出家在家の区別なくニルバーナに達しうるとされていたのです。ニルバーナに完全も不完全もないのですが、とにかく在家であっても涅槃の境地を体得できる可能性があるというのは大きな希望です。日本の僧侶の生活実態は、ほとんど在家と変わりありませんから、この詩句は励みになります。

修養とあるのは単に「修行」でよいでしょう。あまり言葉の表面的なニュアンスにこだわる必要はないと思います。清らかな行いとは、「八正道」のことです。聖なる真理を見るというのは「四諦」を理解・会得していることです。ようするに四諦の真理を知り、八正道を歩み、修行すれば涅槃に至ると説かれているのです。言葉としては実にシンプルですが、物足りなく感じる人も多いのです。そういう人に限って権威や地位・名誉に走ったり、修行そっちのけで学問的な追求を重ね、どんどん頭でっかちになっていきます。仏教知識の追求よりもっともっと大事な、自分の心の成長を阻害する壁の方が一大事なのであります。問題は自己の外にはありません。そして問題は自己の内に必ず存在します。これが課題であります。

修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。

スッタニパータ229

第二 小なる章

<1,宝>

229 城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えらるべきである、とわれは言う。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
城門の外に立つ柱――原語 inda-khila. 学者の指摘したところによると、この習俗は原始インド・ヨーロッパ民族にまで遡ることができるという。

諸々の聖なる真理――原語 ariyasaccani は恐らく「四種の真理」(四諦)に言及しているのであろう。

立派な人―― sappurisa.

以上注より抜粋して引用した。

四諦とは「苦集滅道」の真理です。理法と呼んでもいいでしょう。

これはブッダが、5人の修行仲間に最初に説法を行った(初転法輪)最も重要な悟りの内容です。ブッダの涅槃(死去)の直前にもアヌルッダ長老たちに何度も確認をされた最重要事項でありました。その内容は簡潔ですが、実践となると大変に厳しい修行の全容です。起承転結で表現されており、理論的で実践的な「真理」であります。

(苦)自己から観た森羅万象あらゆる出来事や感覚は全て苦であること。

(集)その苦(生老病死などの四苦八苦)には全て原因があり結果があること。

(滅)その原因をある方法で滅ぼせば苦は消えていくこと。

(道)この方法を実践すること。

この方法とは、じつに八正道(八支聖道)であります。

1、正見正しいものの見方(あるがままを観察して得た知見すなわち如実知見、智慧)

2、正思惟正しい思考(善悪の弁別と論理の内的検証)

3、正語正しい言葉(嘘をつかないこと、丁寧な言葉遣い)

4、正業正しい行い(生き物を殺傷しないこと、無駄な行動をしない)

5、正命正しい生活(規律ある生活をおくること、戒律を守ること)

6、正精進正しい努力(修行に怠りないこと、不放逸であること)

7、正念正しい記憶(教えを胸に刻むこと、念入り・集中)

8、正定正しい禅定(坐禅・瞑想、徹底的思考、呼吸など)

わが心に真理の柱を立てましょう、地中深くに根を掘り下げて。

城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えらるべきである、とわれは言う。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。