タグ別アーカイブ: 出家

スッタニパータ275

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚(ちりけが)れを増す。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
荒々しいことばを語り――註にしたがって解した。(mukharajatiko=pharusavacano)

自分の塵汚れを増す――ジャイナ教でも同様にいう。(veram vaddhei appano.)

最初期の仏教においては、「出家」とは文字通り、家から出て家の中に住まぬことであったらしい。「家から出て家なきに至る pabbajito……agarasma anagariyam」という句は、古い仏典に現れてくるが、「家なき」というのは「農耕・牧畜などの家業を行わぬことである」と註解されている。(中略)ここで「家」(agara)という語は、家柄・家系・家庭の意味ではなくて、「家屋」「建物としての家」の意味に用いられるのがインド一般の通例である。原始仏教および原始ジャイナ教(中略)の古い経典では修行者を「家なき人」(anagara)と呼んでいる。古い仏典をみても、修行者は少なくとも一年のうちの或る時期には実際に家の中に住まなかったらしい。出家したあとのゴータマは一時王舎城のパンダヴァ山の山窟(girigabbhara)の中に坐していた。そうしてこのような生活が実際に修行者たちに勧められている。

以上註より抜粋して引用した。

 

他人を苦しめあるいは悩ますことを好む者は、獣のような性質であります。そういう人は自分で自分の首を締めるようなものであり、どんどん生活が悪化し、自己に付着する塵汚れが増すとされています。その先は申すまでもありません。悪道へと落ちていくのです。

この詩句での重要なポイントは「もしもかれが」という箇所です。誰でもそうなるのではなく、もしもという仮定であります。これは最悪の仮定です。ほとんどの人は自分はそうではないと思っているでしょうし、実際それほどの悪人はそうそういないのですが、人間貧すれば鈍すると言われるように、心が貧しくなるとそういったことにも気づかないでどんどん悪化していくものです。これは心の方向に問題があります。真に慈悲の心で行う言動は、たとえそれが荒々しい言葉であっても人を傷つけるものではありません。ところが優しい言葉であっても、その言葉の奥に嫌悪があれば、人は簡単に傷つきます。陰湿なイジメがそうでありますし、体罰と称するものの多くは傲慢であり嫌悪感情のなせるものでありましょう。

ただし極力荒々しい言葉、暴言を吐かないようにいつも注意することは最も大事です。言葉ひとつで人は傷つき、言葉一つで人は勇気づけられるものです。もう少しで危ないところを救われた、そうした救いの言葉、たかが言葉されど言葉であります。修証義に「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」とあります。まさに愛語の力は計りしれません。

道元禅師さまの御詠歌に「水鳥の往くも帰るも跡絶えて、されども道は忘れざりけり」とあります。水鳥たちの行ったり来たりの動きは水面にも空中にもその跡が残りません。しかしながらその往復の道を忘れることはありません。同様に私たち修行者の修行の跡は何も残りませんが、修行の道が消えることはございません。仏仏祖祖の残された道はしっかりと受け継がれていきます。それが日日の行持であり、仏道であります。

もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚(ちりけが)れを増す。

スッタニパータ263

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
施与――贈与と言いかえてもよい。物質的なものであってもよいし、精神的、無形のものであってもかまわないが、他の人々に何ものかを与えることによって、人々を助けることができるのである。”自分のものだ”と言ってにぎりしめるのではなく、他人に何かを与えるところに人生の深い喜びがあるのではないだろうか。

以上註より引用した。

「理法に適った行い」とは、自然体であるばかりではなく、慈悲の心から為す一切の行為を指すものと考えられます。人々を慈しみあわれむ優しい気持ちが「施与」という奉仕(無償の行為)となってあらわれ、家族や親族を愛し守ることにつながり、決して非難を受けることのない行為として不朽であります。俗に「情けは人のためならず」と申しますが、見返りを求めてする行為は他人も自分も気持ちの良いものではありません。そういう打算をこえて、善きことと思ったことを、ただ素直に行う中に何ものにも代えがたい深い喜びがあります。暑い中にひとしきり汗をかいて、誰にほめられるでもなく、黙々と作務に親しむこともまた、こよなき幸せであると。きっとブッダも人々や神々の幸せを考えた時に、そういう感慨をもたれたのでありましょう。

幸せは何も出家しなければ得られないというものではありません。在家であっても神々であっても幸せであることは可能であります。しかしながら幸せである行為を続けていることは、また非常に困難であることも事実であります。それは思わぬ出来事に必ず遭遇するからであります。平常が続かない、言い換えれば「無常」であることに誰もが気づくことになります。それが老病死であり、生きることの本質的な実態であります。そうした時に人々は救いを求めます。「衆生済度」の願い(誓願)をもって救いに立つ生き方を「出家」と申します。自未得度先度他、上求菩提下化衆生の道を選ぶのであります。

施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

スッタニパータ252

第二 小なる章

<2、なまぐさ>

252 目ざめた人(ブッダ)のみごとに説きたもうた――なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る――ことばを聞いて、(そのバラモンは)、謙虚なこころで、全き人(ブッダ)を礼拝し、即座に出家することをねがった。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人――tathagata.

以上註より引用した。

全き人(タターガタ)は一般に「如来」(にょらい)と訳されています。釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、阿閦如来など日本に伝わったブッダの尊称(十号)の一つです。主にご本尊を称するときの尊称に用いられております。それはともかくこの詩ではカッサパ・ブッダ(迦葉仏)のことです。

この「なまぐさ」の節は、この詩で完結です。「なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る」一連の言葉を聞いて、ティッサというバラモンは、謙虚な心で即座に出家することを願ったとあります。ここに「出家」という言葉が出てまいります。文字通り家を出るという意味であります。ただしこの「家」とは「執著」の代名詞でもあります。出家とは執著から離れることを本分といたします。愛する家族から離れることは辛く苦しいことであります。愛著から執著は始まります。この執著によって苦悩が深まります。最も根本的な執著を断つ道が出家といえるでしょう。

出家しないで覚りに至った先人(阿羅漢)はいません。出家の功徳はどのような功徳よりもはるかに大きいとされています。一人の出家者の七世の尊属(父母)が往生するともいわれております。仏法僧という三宝に僧伽があります。僧伽は出家在家の信者(仏教徒)の集まりですが、中でも出家の存在は欠くことができません。在家信者だけの僧伽ということはありえないのです。

そのバラモンは現実の地位や名誉を完全に捨てて、ブッダを師と仰ぎ出家することを願ったのであります。その心のうちは澄み切った青空のようであったことでしょう。現代においてブッダにお会いすることはできませんが、わたしたち僧侶はブッダの代理人から得度の儀式を受けます。そのブッダの代理人はその儀式の時だけは、偏袒右肩(お袈裟を右肩を現してかけること)を通肩(両肩にかける)にいたします。要するにブッダの直接の弟子となる儀式が得度なのであります。

目ざめた人(ブッダ)のみごとに説きたもうた――なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る――ことばを聞いて、(そのバラモンは)、謙虚なこころで、全き人(ブッダ)を礼拝し、即座に出家することをねがった。