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スッタニパータ569

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳くどくを望んで供養くようを行う人々にとって最上のものである。

師はこれらの詩をとなえて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座からって、去って行かれた。

そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、ひとりで他人から遠ざかり、おこたることなく、精励せいれいし専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極きゅうきょくを現世においてみずからさとり、体得し、具現していた。「〔迷いの生存のうちに〕生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて〔右肩をあらわして〕、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
月は……最上のものである――Bh G.X,21 参照。

修行僧の集い――saṃgha.音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは、原義からの転用であって、この場合には適合しない(cf.Dnp.190)。
 これはヒンドゥー教のほうで説いていたことが、たまたま仏典にすがたを現わしているだけで、その逆ではあり得ない。そのわけは、後代の仏典『提婆菩薩破外道小乗涅槃論』によると、右の所説はマータラ(Māṭhara)という外道の論師の所説となっているが、マータラは『バガヴァッド・ギーター』などを含む『マハーバーラタ』の編者ヴィヤーサ(Vyāsa)の別名であるからである。
以上註記より引用しました。

ここまでの詩句の内容は、結髪(有髪)の行者つまり在家の修行者であるケーニヤさんが、ブッダやブッダの弟子たちに食事の供養を行うことは、王・海・月・太陽のように最上であることであるということを示しています。

功徳くどくを望んで供養くようを行う人々にとって、サンガ(修行僧の集い)は最上であると述べられています。これは重要なことでありますが、今日はなぜ功徳を望み、供養を行う必要があるのかを考えてみたいと思います。

修行僧は修行に専念するわけです。当然に生産をしません。するとお腹が空くわけです。修行僧とて人間ですから食べなければ身体が衰えます。そこで何より有り難いのが、飲み物と食べ物です。その飲み物と食べ物を供養する。供養とは栄養を提供するというほどの意味です。それでまた修行に専念できるのです。

供養は食べ物だけとは限りません。身に纏う布を施すこともあります。これが本来の布施です。「無財の七施」と申しまして、財産でないものを施すことも優れた供養であり布施であります。たとえば「和顔わげん」という優しい顔も布施ですし、「愛語あいご」という優しい言葉をかけることも布施であります。

修行者に供養を施すことが功徳となるのは、仏の教えを弘め伝えていくための原則であります。お寺や托鉢のお坊さんに供養することが、そのまま功徳になります。そのままというのは、財法ニ施ざいほうにせと申しまして、互いに功徳を積むことなのです。事情によって在家に留まらざるをえない人々が財を提供し、出家して修行に専念できる人が法を提供するという両方向の「ニ施」なのです。

セーラさんは出家して怠ること無く修行に専念し、ほどなくして究極の境地に達しました。二度とどこにも生まれない聖者となりました。彼岸に至ったわけです。聖者となった人々も人間には変わりありません。それらの聖者に供養することは最大の功徳になります。功徳は善き処に生まれ変わるためです。地獄に堕ちないためです。かんたんに言えばそうなります。功徳を望むことは欲望ではありません。人間として当然ですし、それが正解であります。

今日の結論は

供養は双方向の功徳である。

スッタニパータ505

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食物を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

マーガ青年はさらに尋ねます。理法を説いて下さった釈尊に、つぎに具体的には在家の施主はどのように供養したら良いのかを率直に尋ねます。ここが一番聞きたかったのではないでしょうか。誰に供養したら良いのかは理解しても、その方法がわからないのです。相撲の力士が何をしたら良いのかを質問したようなものですが、ここは黙って聞いておきましょう。笑い話のようで、非常に単純で明解な質問だと思います。勘違いしてしまうところです。明日はこれに対するブッダ釈尊の意外な回答があります。どうか今日の段階では、このマーガ青年学徒の気持ちになって、静かに答えを待ってみて下さい。

花粉症お構いなしの人もいる(月路)

昨日までの三日間は大変暖かく良いお天気でしたが、花粉症の症状で眼が痒くなりくしゃみはするは、鼻水は出るは、何となく頭は重いように感じられて、困ったちゃんになっております。昔はこんなことは無かったのに、何故だろうと思います。杉やヒノキの花粉は昔も今と変わらないはずですが、人間が弱くなったのか、それとも花粉の量が増えたのか。ところが友は全く平気とのこと。黄色い花粉が目に見えて頭から降ってきても、なんともないとのこと。訳がわかりません。やはり体質でしょうね。花粉との付き合いがまだしばらく続きそうです。

マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食物を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

スッタニパータ488

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

施与を受けるにふさわしい人々とともに――この人々とはブッダをはじめとする供養に値する人々、つまり解脱し聖人(阿羅漢)となった人のことです。

目的を達成することになる――福徳(功徳)になるということです。ささげた供物が清いものとなる、つまり供物は無駄にならないで尊い価値あるものとなるといった確認です。

福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人

施しの求めに応ずる在家の施主。前の句において、ブッダは「誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」と在家の施主を定義されています。

ここで重要なことは「施し」というのは、誰が求めてきたものであっても、惜しむことなく慈愛をもって与える行為であるということです。そういう人が施主であり、在家として善良な行為であります。世の中には貧困にあえぎ生活に困っている人がたくさんいます。自らが正当な手段で得た財産を分け与えることは誠に尊いことです。神社や寺院にお供えやお布施をすることだけが施しではありません。

この世で他人に飲食物を与えるならば。この世で善なる行い、善行をなしたものは善きところに生まれ変わる。これは未来永劫に変わらぬ理法です。他人に飲食物を与えることは、すばらしいことであります。福徳を求め福徳を目指すとは、同じことを繰り返しているようですが、「福徳を求める」は他者に対する思いやりの心であり「福徳を目指す」は己に対する志であります。思いやりと志をもって「供物をささげる」つまり供養している人が、その目的であるところの善所に転生すると述べておられるのであります。

マーガ青年とブッダの会話

二人の会話は続きます。この会話を眺めているとお互いの言葉をそのまま受けて、いわばオウム返しのように語っています。これは古代インドであっても現代日本においても人間関係のみならず会話の中身の確認になります。受け取り間違いのないかどうかの確認でもありますが、さらに肝に銘じる記憶の手段としても有効です。

それはさておき、ここでマーガ青年は一つの疑問を抱きます。それは彼がこの段階では「施与を受けるにふさわしい人々」とは、いったい誰であろうと思ったのです。これが次のマーガさんの質問になっていきます。会話は互いに質問と回答によって成り立ちます。話し上手は聞き上手。聞き上手は質問上手。質問上手が話し上手、と言われます。仏典はまさにこのような会話形式で語り伝えられています。

最優秀賞アニメで決まる時世かな『月路』

映画業界の力関係を越えて「この世界の片隅に」が今年度の日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞に輝きました。業界もさすがに名作を無視できなかったのではないでしょうか。ただし監督やスタッフの中に主演声優ののん(本名:能年玲奈)ちゃんの姿は見えませんでした。あれほどの功績を残しながら未だ芸能界から干され続けておりNHK以外の民放テレビでは顔も声も名前も出てきません。旧事務所の無言の圧力というか旧事務所に遠慮?忖度?している様子が伺えます。「あまちゃん」の時からなかなかどうして若いのに大したもんやと思って応援してきただけに残念です。ホンマに。

尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

スッタニパータ485

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

485 かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

▶ブッダのスンダリカさんに対する回答は以上です。托鉢に外見上みすぼらしい修行者がやってきたら、彼に対して怪訝な顔をせずに、合掌低頭(がっしょうていず)しなさい。食べ物や飲み物をもって彼を供養しなさい。このような施しは、彼のためではなく、供養した者が将来において善き結果を得る原因となります。これが功徳であり果報というものです。このことが何を意味するかは明瞭です。

供養が成就し、もたらす果報。

▶これは布教のシステムを暗に説明しているものです。単に修行者に供養すれば功徳がありますよと言っているように聞こえますが、この程度の認識で、スンダリカさんの激変ぶりは説明できません。じつはこの後スンダリカさんはブッダの弟子になることを申し出ます。君子は豹変す。まさにこの言葉で彼は確信したのです。

▶仏教の布教システムは、まずブッダという目覚めた人がいます。このブッダの説かれた教えがあります。そしてこの教えを実践する人々がいます。教えを実践する人の中には、ブッダのように出家して解脱を目指す者と在家として日々の実践を重ねる人々がいます。ともに教えは共通であり教えに何の違いもありません。映画や音楽を作る人とそれを楽しみながら応援(サポート)する人がいるようなものです。

▶スンダリカさんは自分も究極に達したいと念願したのです。供養する側に立つか供養される側に立つかです。これを此岸と彼岸といいます。かの岸に渡るか、この岸に留まるか。河の流れは何も変わりありません。この河を渡ることを得度といいます。出家することです。心配ですが心配はいりません。得度した者を支えるシステムが完成しているからです。得度した者は供養に値するよう努力し、いまだ得度していない人も、得度した者を供養することによって、いずれは必ず得度する縁ができるからです。これが最大の果報であります。功徳というものです。

▶「供養が成就する」という何気ない言葉にはこのような深い意味があります。事実、現代においても出家者は、教えを実行し教えを伝え教えを守ることが課せられます。これを強く望んだからです。希望どおりの採用です。願いが叶った以上努力することは義務であり責任です。当然の道理です。また供養している人々には得度の因縁ができます。生を変え身を換えても得度の因縁は付いていきます。

曹洞宗のお経のフルバージョンがアマゴンというサイトからPDFで提供されています。オリジナルの経本を作製するサービスです。仏垂般涅槃略説教戒経(遺教経)も全文掲載されています。わかりやすいお経ですし、枕経でお唱えするものですから、ぜひダウンロードして読んでみて下さい。この遺教経の最後の方に「汝等比丘、悲悩を懐くこと勿れ。若し我世に住すること一劫するとも、会うものは亦た当に滅すべし。会うて而も離れざること終に得べからず。自利利人の法は皆具足す。若し我久しく住するとも更に所益無けん。応に度すべき者は、若しは天上人間皆悉く已に度す。其の未だ度せざる者には、皆亦た已に得度の因縁を作す。自今已後、我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、則ち是れ如来の法身常に在して而も滅せざるなり。是の故に当に知るべし。世は皆無常なり、会うものは必ず離るることあり。憂悩を懐くこと勿れ。世相是の如し。当に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の痴暗を滅すべし。」とあります。

▶このブッダの声を聞いてスンダリカさんは答えます。明日はいよいよ本節のクライマックス。スンダリカさんの得度の瞬間をつぶさに見てまいりたいと存じます。

この河を渡る人見てただ泪(月路)

▶得度の儀式というのはある意味残酷です。何度もその儀式に随喜致しましたし、わたしも得度式をしてもらった日のことは一生忘れません。父も母も位牌での出席でした。縁ある人々の前で髪を落とし、白い衣に黒い直綴(じきとつ)を着せられお袈裟を頂戴しこれを掛け、さらに応量器を戴き、血脈(けちみゃく)を受けて・・・。あるお坊さんの得度式で、奥様と娘さんの泣かれている姿を見て、胸が詰まりました。幼い子供の目から一筋の泪。何と説明されていたのか知りませんが泪が全てを物語っていました。これは理屈で説明できません。説明するまでもないのでした。

かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」

スッタニパータ481

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

481 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者の(福)田であるからである。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き者である大仙人……――第四八一、四八二詩=第八〇八一詩。

悪行――kukkuca.異本にはkukkucca.(1)悪行と(2)悔恨と、二つの意味がある。

悪行による悔恨の消滅した――kukkucavūpasantaṃ…….kukkucaという語は、前述のように二義あるが、vūpasantaという語が付せられていると、「悪行による悔恨が消滅した」という意味のほうが適合するように思われる。
他の飲食をささげよ――annena……annena pānena upaṭṭhahassu(481)というのは、呪句を唱えたことに対する布施としての飲食物ではなくて、他の飲食物を真の求道者に(=仏教の修行者に)ささげよ、というのである。「他の」といっている(四八一)のは、「呪句を唱えて得たのとは異る、すなわち他の」という意味である。

以上註記より引用した。

功徳を積もうと望む者の福田である

詩を唱えた報酬として、あるいはお経を唱えた役務(サービス)の代価として支払うのではありません。功徳を積もうと望む者(在家信者)の福田(ふくでん)なのであると説かれています。仏教修行者が托鉢などによって得るのは、供養として施した金品という種が福田に蒔かれているのであると考えるものであります。それでは仏教の修行者とはどういう人かというのが「煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人」であるということです。これは意外と難しいのでちょっとだけ解説しておきます。

煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人

煩悩による汚れは、さまざまな感情にとらわれ、こだわることです。これを汚れということは今までとくと勉強してまいりました。肝心なことはこの感情にとらわれなくなる。またこだわらなくなる。煩悩の汚れを滅ぼし尽くすということは、こだわりととらわれを捨てることに尽きるのです。コトです。コダワリとトラワレです。事あるごとにこの「コト」を思い出して忘れないことです。

また、悪行による悔恨の消滅ですが、過去の悪行にいつまでもトラワレずにコダワリ続けないことです。いつまでもクヨクヨせずに懴悔して終わればいいのです。二度と悪行を作さないと心に強く誓うことが懴悔です。謝罪を繰り返すことではありません。これなら修行できるでしょう。自分にできないことを無理する必要は全くありません。コダワリとトラワレの二つを常に気付いておればいいのです。

福田

田んぼを説明するまでもありませんが、福田となるとご存じないかもしれません。僧侶がかけているお袈裟を別名「福田衣(ふくでんえ)」といっています。毎朝お袈裟を頭の上に乗せて、合掌しながら「搭袈裟偈」を唱えます。 大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生。またこのお袈裟は田んぼを見て釈尊があのように作りなさいと、田の畦のように布をつなぎ作製するものです。人々の福田となるように、解脱という実りを得るために、修行する者が福田そのものであります。

予定では今日が今頃大般若(月路)

この記事は敦賀に戻る前に奈良で起したものです。今日は2月25日のはずですが、書いているのは21日です。予定では今日25日の午前11時から▼大般若祈祷を敦賀のお寺で行っているはずです。4日分も予約投稿をしておりますので、頭が変になりそうです。こんなことならパソコンを持っていけばいいのではないか。どうせなら今回は車で戻ろうかと思っています。今朝(21日)はチラチラ雪が毎秒5センチメートルで落ちてきておりました。峠は大丈夫かなと思いながら、ゆっくり戻ろうと思います。

全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者の(福)田であるからである。」

スッタニパータ466

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

466  執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きている。そのような無私の人々にこそ供物をささげなさい。あなたが功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

今日は「功徳」ということを掘り下げてみたいと思います。功徳は利益という意味です。世間での利益も仏教での御利益も同じ利益です。利益(りえき)というと儲かった結果のようで、利益(りやく)というと何やら有難く感じますが、漢字としては全く同じです。じつはその内容も中身そのものも全く同じであります。

ビジネスで考えて「売上-仕入れ=利益」という簡単な式に当てはめれば、「善行ーおかげ=利益」となります。商売であれ一般的な仕事であれ、それが世の中で正しいことであれば、熱心に精をだして働けば必ず結果が出ます。その結果である売上から協力業者からの仕入れや人件費などの経費を差し引いたものが純利益でありましょう。精進して修行に励めば、戴いたものを差し引いても利益があるわけです。何も変わりありません。道理に適った法則、つまり理法であります。

功徳も功を為して徳を得ることですから、その結果は利益です。これは当然であり必然です。何の不思議もありません。世の中の仕事はすべからくこの道理にかなっているかどうかが問われます。精進なくして得られる利益、功徳というものは全くございません。当り前です。すなわち欲望が先ではないのです。まず自分が「何を為すか」が最初であり全てであります。努力に努力を重ねて今日があります。そこに他の人々の協力や支援があります。その結果のジャッジが利益であると申し上げたいと存じます。

儲けようと思ってやるようでは商売はうまくいきません。「利益=売上ー経費」と考えるか「売上ー経費=利益」と考えるかどうかです。数学では全く同じですが、利益を先に考えてやるようでは、おそらく一時的でありましょう。長続きはしないと思います。目的を利益にするか、結果を利益と呼ぶかの違いです。

今日のブッダの声も最初に「執著することなくして」と始まります。功徳(利益)を求めて、ではありません。執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きていく。見返り報酬を期待してかかるようでは、大したことは出来ません。世間の仕事も言い換えればほとんどが修業であります。多くの熟達した職業人は例外なく「一生修業」といいます。修業も修行も変わりありません。毎日毎日休むことなく本気で働いている人々は、みんな功徳を積んでいるのであり、みんな利益を上げているのであります。ことさら特別扱いすることではありません。

何がため修行をなすや六地蔵(月路)

昨日はお寺の総代さんの家の法事でした。観音経は比較的に長いお経ですが、最初はゆっくりと重々しく始まります。そして徐々にスピードが増していき、最後の方の偈文ではハイスピードで突っ走ります。お唱えする声にも熱が帯びてきて終いにはものすごく熱くなります。声のトーンは同じですが、終わってジーンとくるものがあります。法話では「利益」の話をさせていただきました。車中で株の話を聞いていましたので、また総代さんの会社の壮大さを拝見しましたので、とっさに用意していた話を代えて、利益も御利益も同じだという話を致しました。最後に生前にこそ戒名をご夫婦そろって頂きましょう。仏門に入ることですと結びました。

何の為に。何を為すか。功徳のためか。利益のためか。それとも、人々や社会のためか。自分のためか。家族のためか。何をするのか。何をやればいいのか。何がしたいのか。何を成し遂げたいのか。そういう根っこの部分を掘り下げてしっかりと腰を据えて坐りましょう。腹の坐った人。梵天ならぬ凡天丸もかく在りたい。

凡天丸

執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ465

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われるとのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ラーフ――ラーフ(Rāhu)はインド神話に出てくる鬼神の名である。この鬼神が月や太陽を呑むので、月蝕や日蝕が起ると考えられていた。
 
以上註記より引用した。

「月がラーフの捕われから脱したように」というのは、月食が終わったように、という喩えです。この時代の人々は月の満ち欠けは知っていても、日食や月食はそう頻繁にあるものでもないので、これはきっと鬼神ラーフの仕業である、何か良くないことが起る前兆であるかもしれないといった迷信に捕らわれていたのでしょう。結局は何事もなかったので、月はラーフの捕らわれから脱した。そのように「捕らわれから脱しなさい」ということをさらりと説かれたのです。

現代的にいえば、地震とか台風といった自然災害は大きな恐怖です。日中に真っ暗闇になったり、夜に煌々と光り輝く月が雲もないのに見る見る欠けていくと、地震でも起きるのではないかという余計な心配をするようなものです。これに信仰が輪をかけて脅す。すると迷信の輪が広がる。あながち古代人を馬鹿にできません。余計な心配で一日中頭を回転させていると、静かに過ごせないのです。もともと頭の中が貪欲でありますから、自分だけは何とか安全でいたい。すぐに動揺します。あっという間にパニック。何があっても不思議ではないという、どっしりした静けさを保ちたいものです。

「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ」このフレーズも前回に引き続いて説かれています。何度も述べるということは大事な話だからです。「適当な時に」(Kālena)は「時に応じ」ほどの意味ですが、つまりタイミングですね。時を逸するなということです。昨日の動画「母への思いを届けよう」では、このわたしでも胸が熱くなりました。届ける中身はともかくも、生きておられるうちは精一杯親孝行してください。亡くなっておられたら、あなたが母親です。お母さんの分までも、365日24時間尽くしましょう。報酬はナッシング。0です。無しです。これが一番の親孝行です。出来ない人はせめて、お菓子を供えましょう。お菓子は嗜好物ではありません。まごころです。

孫の手にバレンタインのチョコ一つ(月路)

昨日、近所のよろず屋さんに買い物にいきました。おまけにお菓子を頂きました。お墓参りのついでに寺に寄られた檀家さんが、お昼ごはんにとお寿司を持ってきて下さいました。御本尊様にお供えしてからそのお下がりをおいしく頂きました。なんでもないことのようで、すごく有り難いことではないかと人々の真心に直接ふれた心地がいたしました。

昨日の友のコメントを読みながら、またまた胸が熱くなりました。年のせいか涙もろくなってきています。ひとことの愚痴もいわずに、お母さんを病院に連れて行かれている。これって意外と大変です。坐禅、読経、掃除、洗濯、会社の仕事、ご飯ごしらえ、数々の心配、地域の役、バンドの付き合い、相談事、電話、LINE、コメント、エトセトラの毎日。お父さんとお母さんの二役。まるで観音様。頭が下がります。365日24時間働きづくめ。歯が痛くなるのは当然です。何度少し楽したいと思ったことでしょうか。できることはこれぐらいと謙遜されていましたが、どうか御身ご自愛ください。ダディーマミー。かか父ちゃん

貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われるとのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ464

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第四六四、四六五詩は第四九七、四九八詩に同じ。
 
以上註記より引用した。

梭(ひ)については第二一五詩を参照して下さい。機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)のことです。

欲望を捨てる。あっさりと説かれていますが、これは口でいうほど簡単なことではありません。だいたいそういう人に、お目にかかったことがありません。自身を振り返ってみても欲望だらけです。欲望はしばしば煩悩と呼ばれますが、何のことはありません。普通の人の普通の感情です。感情のほとんどが欲望です。ああしたい、こうしたい、嫌だ、好きだ、暑い、寒い、冷たい、熱い、何もしたくない、眠い、疲れた、あらゆる欲望とはこうした気持ちのことです。あらためて申し上げるまでもありませんが、気持ちを捨てるということは、感情を殺すことではなく、さっと離れることです。

欲望の対象にとらわれない。見たまま聞こえたまま感じたままの感覚にこだわらない。こんなことが果たして可能でしょうか。可能です。家という一番気持ちが表れている欲望の具体的な対象から離れて住むこと。たとえば、豪邸や高級マンションをイメージしてください。こうした住まいに住みたいと思ったから、そこに住んでおられる。またそれを買ったり借りておられる。気持ちが表れているのが現在の生活です。これも当然のことですが、あっさりとその思い、気持ちを捨てれば、家から離れることは実に可能です。可能ではありますが、これがなかなか至難です。

そういう気持ちを捨て、家から離れて歩み、よく自らを慎んでいる人々にこそ、供物をささげなさい、と。それは梭のように真っ直ぐな歩みを続けている人々、つまり修行者にこそ供物をささげる、供養しなさいという意味です。例によって、もし貴方が功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と続きます。

これは明確にブッダがバラモンを試しておられるところだと思います。解脱を求めて出家し慎ましく生活している修行者に供養をささげなさい。それが祭祀を行う在家の勤めですと言わんばかりです。事実そう繰り返し説いておられる。祭祀を祈りと言い換えてもよいと思います。これからも供物をささげ祈りを続けるのであれば、その供物は立派に修行されている人々に捧げなさい。出家者に在家者が供養する、それは善きことなのです。そういう生き方ももちろんありますよ、と。

風強し幡が纏わる雪が飛ぶ(月路)

夜中にお腹がすいて目が覚めました。観音様ののぼり幡が千切れんばかりに風にあおられています。あれは風が動いているのか、幡が動いているのか。ある人は自分の心が動いているのだと言われた、という大河ドラマの一シーンが、なぜか腹減ったという夢でした。まったく意味がわからないのが夢ですが、欲望とか、気持ちというのも夢の様なものではないでしょうか。つじつまというか、理路整然とはいきません。結局、気持ち。この不可解な気持ちとまだ当分付き合うことになりそうです。

諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ463

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ヴェーダの奥義に達し――vedantagu.叙事詩にも同様の語がある(Vedapāraga,MBh.Ⅻ,243,8)。

以上註記より引用した。

真理を知って自己を制し、感覚による反応を慎んで、聖典の奥義であるところの「清らかな行い」を修行している人に、適宜、供え物をささげなさい。もし貴方が、功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

功徳を求めて祭祀を行う

これから幾つか同じフレーズが続きます。それはこの「バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば」というリフレインです。お経はこのリフレインというのでしょうか、繰り返し同じ文句をしばしば使って、耳に慣れるよう工夫してあるように思います。なにしろ紙に書いて残すというようなことをしなかった。つまり口承、口伝でありましたから、絶対に間違わない必要があって、また重要なポイントでもあったのです。

われわれ僧侶がお経を唱えた直後に、回向というものを行います。これはお経を唱えた功徳を何に対して回向するか、つまり功徳を振り向けるかということです。たいていは自分のために回向するなどということはありません。誰かの功徳、それはご先祖さんだったり、ご家族であったりするわけです。もちろんご本尊やその他の仏菩薩、祖師、歴代住職、檀家各家先祖代々に回向するのは毎日の日課です。

ようするに何がしかの功徳を求めているわけです。それが勤めだといえばそれまでですが、かんたんにいえば功績を讃えている。これ自体が功徳です。尊敬をし、感謝をしている報恩の行いです。祭祀といった仰々しいものを行わなくても良さそうなものですが、花を立て燭を灯し蜜湯やお茶お菓子などを供えて勤めます。朝課、晩課はもちろん法事法要はすべからく功徳を求めて行うものです。

ところが、ブッダはどうもそういうことを全部肯定しているとは思えません。どこか方向性が違うよと、当時のバラモンであったスンダリカさんに説くのです。そうした雰囲気がこの詩からうかがえます。それが「真実もて自ら制し、慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人」を冒頭に述べられたのです。

そのような人にこそ供物を

はっきりいってしまえば、「清らかな行いを修めた人」にこそ供物を捧げるべきだと断言されているのです。つまりブッダやブッダの教えを実践して修行している人に、食べ物を捧げなさいと大変やわらかく断言しています。托鉢に修行僧がやってきたら、彼らは自分で食べ物を買うことができないから、供養してあげてほしいといった意味も含まれているように思います。

真理を知り自己を制し慎む

ここに修行の全容を端的に述べられています。まず正しく知ることから、そして自己を制御する。清らかな行いとは何かということを暗に問いかけておられます。ますます更に聞きたくなるように言葉を巧みに使っておられます。お見事というより他ありません。

ほとほとと寒の戻りやホトトギス(月路)

一日置きに寒かったり暖かかったりで、風邪を引いてしまいそうです。鼻水が出てくるような寒さをこらえながら法要の準備に余念がありません。これが済んだら、あれをして、ああこれもせんならん。ほとほと後回しの性分に手を焼いています。たしか去年の春にはホトトギスが鳴いていました。北陸は雪だろうなと思いながらチラチラまた降ってきそうですが、時おり日差しがあり、有り難いことだと。

昨日三時間ほどかけて、無料ホームページとやらでお寺のホームページを作りました。写真を並べただけですが一度御覧くださいませ。→禅龍寺

真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ458

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
(師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
効果をもたらす――偉大な果報をもたらす、の意。
神々に供物をささげて祭祀を実行し得るのは実際問題として王族やバラモン、仙人などであり、シュードラは祭祀にあずかることが禁ぜられていたので、このように言うのである。
 
以上註記より引用した。

当時、人々は、神々に供物をささげて祭祀を行っていました。それは何のためですか、どのような功徳があるのですかと、スンダリカさんはブッダに質問しました。それに対しブッダは、「究極に達したヴェーダの達人」である解脱した修行者に供物を捧げれば「果報をもたらす」すなわち功徳があると説かれた(答えた)のであります。

現代においても仏さまに供物(くもつ)を献供するのは、そうした理由が主です。ブッダの十号の一つに「応供」という尊称があります。応供諷経(おうぐふぎん)という毎朝のお勤めでは、仏菩薩をはじめ阿羅漢や天上の神々など修行されて解脱された方々に、尊敬と敬意をもってお経を唱えます。禅宗では主に般若心経などをお唱えいたします。諷経もまた供物であります。また実際に献茶献湯し菓子や果物などを供えます。供え物に値する、供物を受ける資格があるかどうか。応供、供に応ずることの本意を噛みしめるべきであります。

「何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか」という質問に対するブッダの答えが以外な内容であったという驚きを隠せません。崇拝ではなく尊敬なのだということを明確に示されたからです。やみくもに訳が分からずに、ただ伝統を踏襲していただけの崇拝から目覚めた瞬間でもありました。

先祖供養とて同じ理由であります。亡くなった父母や先亡(せんもう)の霊に供養するのは、先人の苦労を偲び、その遺徳に深く敬意を表するからでありましょう。ましてやブッダ釈尊の大徳に最大限の尊崇をもって、その菩提(ぼだい・悟りのこと)を荘厳(しょうごん)することは仏教徒の勤めであります。お経を唱えるということは、教えを自らの耳に聞かせ、口で覚え、姿勢を保つことに他なりません。まことに有り難き教えであります。

有り難や 声が聞こえる 音がする (月路)

昨日、突然の断水でした。近くの工事が原因だったのですが、水が出ないというのは大変不便ですね。当り前ですが蛇口をひねれば普通に水が出るということは凄いことだとあらためて強く意識しました。普段の何気ないことであっても、確かに生きているという実感があります。こうしてものが見え、音がきこえ、話すことができる。手も足も動く。思うことも感じることも考えることだってできる。今日も五感というものがあって、人間を継続しております。

「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
 (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」