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スッタニパータ432

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

432 わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
信念――saddhā.狂熱的な信仰ではなく、道理を信ずることである。

生命――第四二七詩で命に言及しているのに対していう。

以上註記より引用した。

何度も申し上げますが、この節ではブッダ釈尊の成道前の苦行について述べられておるのです。命さえも惜しんでいない。そうした荒行をものともしないのは、狂信的な信仰によるものでは決してありません。徹底して道理を信じている、いわば信念に基づくものであります。ここが大変重要で、ややもすれば得体の知れない超能力であるとか、神通力といった不可思議な力を得るがための苦行ではないのです。

信念をもって、努力を重ね、智慧を得て、専心すること。現代においてもそのまま通用する成功哲学の根本でありましょう。何事を成し遂げるにも、まず最初に道理をわきまえて目標を設定し、たゆまぬ努力を積み重ね、試行錯誤を繰り返しながらだんだん智恵が育まれ、右顧左眄せずに一途に求めるならば、ものごとは成就いたします。反対に考えればよくわかります。適当な思いつきで、たいした努力もせず、自己批判ばかりで右顧左眄し、結果をあせり、すぐに諦めるようでは、成功はおぼつきません。

信念・努力・智慧・専心。ここには微塵も抹香臭きことはありません。透徹した道理に貫かれています。一本筋が通っているわけです。わたしがスッタニパータを読んで強く惹かれるのは、この普遍の真理がわかりやすく述べられているからです。ブッダを熱狂的に信奉しているからではありません。後世に祭り上げられた仏教用語に惑わされることなく、普通の言葉で、普通の理解によって、真理を概観しておくことはとても重要であると心底思っております。

釈尊が成道と呼ばれる成功をつかんだのは、まぎれもなくこの道理にそって苦行したからであります。もっとも釈尊は人々には中道という道を勧めています。だれでも通ることができる道です。釈尊ほどの苦行をしなさいとは誰も言っていない。いいでしょうか。電球を発明しなさいとは言っていないのです。エジソンの真似をできなくても、電球を使えばいい。当り前ですが、念のために申し上げておきます。釈尊のこころが普通の人に理解できるほど、真理というものは簡単なことではありません。電球一つとってみても、それこそ2%のインスピレーション(ひらめき)と98%のパースピレーション(努力)の賜物であることはいうまでもありません。

七草を 一草にして 粥すすり (月路)

エジソンにナムチが無理をするな、そんな無理をしていたら死んでしまうよと囁き、その甘言にエジソンが負けていたら電球や蓄音機は発明できなかったというだけの話です。エジソンのみならず多くの偉人は、「信念・努力・智慧・専心」をもってしてその成功を手にしたのです。結果的にすべて人類のためになっています。それを横目にみながら、適当に批評している圧倒的に多くの人々に、言葉は悪いですが、爪の垢でも煎じて飲めと言わんばかり。パキスタンのラホール国立美術館に所蔵されている釈迦苦行像。何も云わなくても、全てを説かれています。わたしにとって胸に刺さる痛烈な刃(やいば)でありました。

苦行像

わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?

スッタニパータ424

第三 大いなる章

〈1.出家〉

424 諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て、また出離こそ安穏(あんのん)であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て……――第一〇九八詩参照。

1098 師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。
 
以上註記より引用した。

出家の姿、外観は普通の人々と何も変わりません。立派な衣を着ているとか、僧侶としての高い地位に在るとか、修行年数であるとか、どこのお寺の住職であるとか。そういう外観は全く何も関係ありません。これは内面の問題であります。当り前ですが、これをわかっていない、わかろうともしない人々が適当に批評しているだけであります。出離というのは、とらわれから抜け出し、こだわりから離れることです。形だけ出家したとしても、この出離という安穏を知らなければ、もったいない極みであります。

一言で申せば、普通の人々は一日中妄執で過ごすのです。あの人はああ言った。この人がこう言った。そんなどうでも良いことにうなされながら、ああでもない、こうでもないと妄想をめぐらし、どうしよう、こうしようと執著して一日を過ごしています。疲れないはずがありません。そういう物事を一々取り上げていたら、どんどん欲求不満が溜まりに溜まって、捨てるに捨てられないゴミのようなものが頭にいっぱい溜まってまいります。心のゴミ屋敷を自分でつくっています。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも何もない。ガランとした心のなかにする。いわば心の断捨離を進めることが、つとめはげむこと、つまり精進、努力なわけです。こんな具体的なことはありません。

精神論という言い方があります。心の内面を皮肉った、とても嫌な言い方があります。そういう人に限って、自分は完全でありリアルスティックであると本気で考えています。現実が現実でないとは申しません。また現実は現実だとも断言できません。何が平安で平穏なのかを突き詰めれば、出離以外にないのであります。何をしていても囚われない拘らない。誰から何を言われてもたじろがない。そういう不動の精神、安穏の境地。これを楽しむこと。これが出家の覚悟でなくして何でありましょうか。

こうなりたい。こう思われたい。わたしは間違っていない。これが最も大きな欲望なのです。自己への囚われ、自分自身が自分自身によって束縛されていること。さまざまな欲望には患い、憂いがあること。自分を苦しめているのは自分自身であること。これが憂い(患い)であることにいち早く気付いたものが出家するのであります。般若心経は全てを否定しています。ブッダの教えとされる四聖諦や八正道、十二因縁さえも「無」とします。これは無いという軽い意味ではありません。こだわらない、とらわれないということです。出離を無と表現したのです。理論武装に仏教をもってするなどは、以ての外であります。

わたしが「スーパー坐禅」を提唱するのは、こうした仏教者が陥りやすい、あるいはどっぷり浸かった完璧主義に、堂々と反旗を翻すものであります。あらゆる観念を捨てる。あらゆる権威から離れる。騒音の中で坐禅ができなければ、家族の声が飛び交う中で坐禅しなければ意味が無いのです。誰が何と言おうと、まるで仏像のように坐っている。寝ながらでも坐禅はできます。否、坐れない人が、あるいは寝たきりの方でも坐禅できなければ、意味がありません。やれ禅宗だ、仏教だという狭い了見で坐禅を捉えるのは、スタイルや格好、場所にこだわりすぎているからです。もう黙っていられません。

坐禅など 忘れてしまえと 暮晦日 (月路)

道元禅師は「普勧坐禅儀」と書かれた。これは誰にでも坐禅を勧めるというものです。年齢、性別、学歴、出自、宗教宗派、思想に関係なく、坐禅しましょうと仰ったではないか。坐禅と出離は同じ意味です。出離を楽しむことと坐禅を楽しむことは全く同義です。何も考えないというのは、考えないということを考えるというものです。非思量は非思考のことです。思考ではない思考。それをどう実現するかを「工夫」といいます。一つにこだわれば、それがこだわりです。人それぞれの坐禅があっていいのです。銘々各自の坐禅なのですから。

諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

スッタニパータ228

第二 小なる章

<1,宝>

228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固(けんご)な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
不死――原語 amata は「甘露」の意味をも含めているのであろう。 amrta 
が「不死の飲物」であるという意味は、すでに『リグ・ヴェーダ』以来存する。(中略)ここではニルバーナ(nibbana)のことをいう。

達すべき境地に達し――pattipatta.
(中略)

代償なくして――mudha.「一文もお金を払わないで」(中略)の意。

平安の楽しみ――nibbuti.
以上註より引用した。

「ブッダの教えに基づいて」というところが肝であります。これを離れて何も得ることはできません。たとえ道徳的などのような修行を行おうとも、「慈しみ」で貫かれたブッダの教えを離れて自己満足的な精神修行を重ねたとしたも、達すべき処であるニルバーナ(涅槃)の境地には至らないのであります。なぜそう言えるかといえば、ブッダが個人的に覚りの境地に達して「はい終わり」であれば、2500年もこの道は続いていないという事実です。

もちろん仏教以外にも続いている教えはたくさんあります。これは自分で確かめる以外ありません。自分がブッダの教えを聴いて、教えのとおりやってみて、確かにこの教えは凄い、本物だと得心できるか否かであります。どんなに言葉を重ねても「真理」を理論的に把握することは不可能なのです。神は存在するか否か、宇宙の広がりは有限か無限かなどといった形而上の不可能なことを哲学的に考察するのは(無駄とは申しませんが)殆んど現実に意味がありません。

それより何より今自分の胸に刺さった毒矢を抜くことが先決なのであります。「毒矢の喩え」は有名なブッダの教えでありますが、その教えとて他人事であれば何の価値もありません。他人の痛みは決して完全に自分の痛みとして感じることはできないのです。人にも刺さっているが自分にも刺さっている毒矢を、自分の力で必死に抜く以外ありません。それほどこの道は険しく、しかしながらこの道ほど古くて新しい道はどこにもありません。

堅固な心をもってよく努力しましょう。欲望を無くして不死に没入しましょう。ところがこれは大変困難なことであります。なぜなら人間は例外なく弱い心の持ち主であり、努力どころか怠慢が常に襲ってきます。欲望を持たない人がいるなど考えられませんし、不死(涅槃)のための修行に没頭できる人はごく一部でありましょう。ですから涅槃に達する、すなわち仏道を成就することなど夢のまた夢であることが現実なのです。

「代償なくして得て」とあります。この世の道理で代償無くして得られるものなどがあるでしょうか。ぜひ確認していただきたいのですが、代償すなわち対価をもって買わなければ得られるものは何もないのです。金銭だけとは限りませんが、この世で代償無くして得られるものといえば「無償」ですが、純粋な「無償」は万に一つもありません。俗に言うではありませんか、「金の切れ目は縁の切れ目」と。無償で得たものは必ずどこかで返済することになるのです。無視するかどうかはともかく、どこかでその代償を払う必要があるのが「因縁」というものです。そうです『直接の原因と間接の原因』のことです。

ところが唯一「平安の楽しみ」だけは、「代償」が要らないのであります。人間、結局は苦悩からの脱出以外ありません。苦悩から脱出できたらそれこそ「幸せ」でしょう。単純なことです。複雑に考えればどこまでも複雑に考えることはできます。それが落とし穴に嵌まるということであります。闇から脱出できないどころかドンドン悪循環の罠に嵌っていくことになります。その闇にブッダが光明を灯しておられます。その光を頼りに、苦悩の暗黒から脱出してみませんか。

「宝」と表現された「平安の楽しみ」とは、「安楽」「安穏」とも呼ばれます。外観上は、ただ黙って坐っているだけです。眼を閉じれば「瞑想」眼を開けていれば「坐禅」どちらでも構いません。理屈抜きに坐ってみましょう。ブッダは「起きよ、横になってどうするのか、今そこに坐ることで、平安が得られるというのに」と述べられています。

ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。