タグ別アーカイブ: 勝利

スッタニパータ212

第一 蛇の章
<12、聖者>

212 智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ここでは、心の統一と瞑想(禅定)について考察してみます。禅定は戒律や智慧とともに仏教の三学と呼ばれています。もとより後世の仏教一般における分類であり、戒と定(じょう)と智慧は分けて捉えるべきものではありません。

戒は自己の戒めであり、定は別名「果」と訳されるように四向四果とか四沙門果の果でありまして、悟りの階梯を指す言葉ですが、これもまた仏滅後何百年も経ってから後世の仏教学者の研究によるものです。

あまり学問的なことに拘らずあっさりと申し上げますと、実際の修行段階であります。その中身は外観からは瞑想とか坐禅といったスタイルです。何もしていないように見えるのが特徴です。ただ寝そべっているのではありません。きちんと坐って修行しているのであります。これはブッダ以前のインド社会でヴェーダ以来もしくはそれ以前からの最もポピュラーな修行スタイルなのです。ヨーガも源流は同じです。坐るだけが修行ではありませんが、一番安定した身体に負担の少ない精神統一に最も適した姿勢であります。

形式は結跏趺坐という足を組んで手をその上に乗せて法界定印という両親指をつける手の組み方をします。仏像(坐像)でおなじみでありましょう。

こうして坐ってからすることは呼吸ぐらいのものです。これもことさら作り事をしないで息を長いなら長いまま短いなら短いまま、いわゆる特別な呼吸法を用いずに、ただ坐って一息一息を刻々とありのまま気をつけるだけで何も考えません。最初のうちは色々と頭に浮かんできますが、それに執著しないであっさりと手放します。

よく精神統一を精神集中と勘違いすることがありますが、心の統一とか精神統一というのは、簡単に言えば普通の人でもバラバラになってしまっている心の意識の運転を完全に止めることです。いわば思考停止するわけです。考えない努力と言ってもいいでしょう。まあそれさえも考えない。考えないということも考えない。何かに集中することもしない。

たとえば念仏でも唱題でも読経であっても集中していると間違います。余計なことを思っても当然間違います。集中することなく集中すると言ったら変ですが、頭を空っぽにするような感じで、とにかく無心になって坐禅なら坐禅、読経なら読経になりきる。無念無想と申しますが、大宇宙のど真ん中にポツンと坐っている、そういう姿勢と心が一つになっている状態が心の統一ということです。

心と身体が別々になっているというのは、今ここに居ながら坐っておきながら、過去や未来に心が向いてしまっている状態です。大便をするときは大便になる。小便のときは小便そのもの、他の余計なことを頭に置かない。

この方法が正しいとか、あれが間違っているとか余計なことばかり考えて今ここに居ない。心ここにあらずの状態から、今、心ここにあり、ありのまま、あるがままを修行いたしましょう。

智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

 

スッタニパータ206

第一 蛇の章
<11、勝利>

このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは〈見る視力が無い〉という以外の何だろう。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本節「勝利」の締めの詩句であります。では何が勝利なのでありましょうか?自分に勝つといった世間一般の克己心のことではありません。宮崎禅師は「欲は克服する術を覚えんならん」とよく申されました。身体に対する執着は欲の最たるものであります。我が身を中心にしたスタンスが思い上がり高慢ちきな考え方になってしまう元です。この考え方が欲であり、この欲を克服する方法が、自身をあるがままに見る習慣であります。

これは意識して修行する以外ありません。欲が前面に出てしまうと問題が次から次へと生じます。解決どころかどんどん深みにはまっていきます。ありのままに見るクセを付ければ、自身に対する異常とも言える欲を克服できます。あるがままに見る視力を持つ最善最速のコツは、自己観察です。ぜひ習慣にしていただきたいと思います。

勝利は、自己に勝つことでも他人に勝つことでもありません。そのような相対的な勝利を追い求めていては何も得られません。絶対的な勝利、誰もが納得する勝利が、解脱であります。不死であり、平安であり、不滅と呼ばれる境地に達することなのです。

このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは〈見る視力が無い〉という以外の何だろう。

 

スッタニパータ205

第一 蛇の章

<11、勝利>

205 人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
------まもられている------parihirati(=pupphagandhadihi abhisamkhariva parihirati.)
以上註より

例えば顕微鏡で皮膚の表面を見たときに様々な細菌や皮脂などの汚れを見てしまいます。そのようなものだと思えば別ですが、実際に人間の身体の内も外も汚いものです。

昔のある禅僧は、弟子から人間とはなんぞやと問われ「糞袋」と喝破しました。けだし明言であります。食べないで済む動物はいませんから人間の中身は糞だらけ、糞を貯めておく袋に違いありません。ありのままとはこんなものです。御大層なことを抜かしているようでも、どうでもいいことを大仰に論じ合って無駄な時間を過ごしているだけです。

虚無的に投げやりになって倦怠感を覚えることではありません。むしろ本気になってトコトン考え抜いていただきたいと思います。

本当に人間が美しい存在であるかを物理的に科学的に考察してみて下さい。西洋哲学を使って論理的に考究してください。ブッダの表現、言葉が偏ったものの見方かを静かにご検討下さい。その上でもう一度この詩句を読んでいただきたいと存じます。

人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。

 

スッタニパータ204

第一 蛇の章

<11、勝利>

204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

平安ーーsanti

ニルヴァーナは漢訳では「涅槃」と呼ばれています。ニルヴァーナの定義は不死・平安・不滅の境地に達していることだと明言されています。では不死・平安・不滅とは具体的にどういうことでありましょうか?

不死とは死なないということではありません。二度と生まれ変わらない、すなわち今生が最後の生という永遠の存在となることです。不環果とも言います。

平安とは読んで字の如しであり、心の平和が安定している状態ともいえます。清浄であり全くの清寂であり寂滅とも呼ばれます。

不滅とは不死すなわち不生不滅と言い習わされておりますが、永遠の命、永遠の存在と申し上げてよいでしょう。

ニルヴァーナを言葉で捉えようとすると仏教の理想としてしまうきらいがあります。この世において愛欲を離れた修行者はニルヴァーナの境地に達したと申されております。ブッダ御自身だけのことで、これを不可能に近い理想的な境地として誇られたのでありましょうか?

この世においてというのは、生きている内にということであります。生きている内に「愛欲」を離れること。目指すはこの一点に尽きます。自己を含めた一切に対する執著を断つことは決して不可能なことではありません。

この一瞬にニルヴァーナの境地を味わうことはできます。静かに坐り、今この一瞬一瞬に何も考えないことです。一息一息しかないのです。そうした修行をしている瞬間はまさにニルヴァーナの境地であり、夢でも理想でも目的でもなく、あるがままであり、瞬間瞬間のぎりぎりの過去も未来も関係なく独立した、今この瞬間だけであります。

今ここ一瞬一瞬が命であります。生も死も一瞬であり、一時の位すなわち一時的なものであります。何ものにもとらわれない命の瞬間を全身全霊で生きることを修行と申します。

この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

 

スッタニパータ203

第一 蛇の章

<11、勝利>

203 〈かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
「今日はひとの身、明日はわが身」と観ずるのである。
以上註より

この屍体を観ずる修行方法はブッダ在世中から用いられてきたものであることが解ります。「明日は我が身」とは世間でもよくいいますが、誰かが亡くなるのを見て、吾が事ととすることは大事な修行なのであります。

覚りを得るに至る修行方法を三七菩提分法といいますがその最初に習うのが

四念住(四念処)つまり四種の観想であります。

  • 身念住(体をあるがままに観察すること)
  • 受念住(受をあるがままに観察すること)※受とは感覚のことです。
  • 心念住(心をあるがままに観察すること)
  • 法念住(法をあるがままに観察すること)※法とは真理のことです。

今日の詩句は、この四種の観想を、身近な言葉で端的に示したものといえます。このように後世の仏教はブッダの言葉を論理的に分類分析したものなのです。なおさら分かり難くなるかもしれませんが、論理的な思考が好きな人にとっては好都合かもしれません。

とにもかくにも身体に対する(内面と外観の)欲を離れるに尽きるわけです。身体に対する欲が苦しみの原因であること、それを知ることが真理をあるがままに観察することであります。

〈かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう〉と、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

スッタニパータ202

第一 蛇の章

<11、勝利>

202 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
完全に了解する――parijanati.それの名詞形はparinnaであるが、この語はジャイナ教においては、同時に「断ずる」「すっかり捨ててしまう」という意味がある。最初期の仏典においても、同様の意味合いをもっていた、と考えられる。

「この世において」という修飾語は「生きている内に」ということを示しています。早い内にしっかりと肚に納める必要があるということです。「智慧ある修行者」であることが条件です。智慧については今までに何度も出てきましたから、言葉慣れしてしまったかもしれませんが、もう一度確認しておきましょう。

智慧とは、真理を真理として見ることが出来る心の眼であります。実相といいますが、ものごとのありのままの姿をありのままに見るという正しい見解のことです。「正見」と言い換えてもいいでしょう。なにしろ曲がったものの観方をしない、真正面に素直に見たときに、本質が見えてくるものです。

言葉を連ねても、ちょっと変わった言い方をしようが、世の中の物事はさほど複雑にできていません。むしろ意外とシンプルです。善いことをして悪いことをしない、好き嫌いしない、良い悪いと決めつけない、優しい気持ちで過ごす、クヨクヨしない、贅沢しない、質素に生きる、などなど。当たり前のことをやる。してはいけないことをしない。生まれた以上死ぬまでいっしょうけんめいに働く。明るいというのは馬鹿笑いではなく明らかにしていることです。

昨日、友のお父上様の尊い言葉を知りました。女性アイドルの悲しいニュースもありました。娘さんの親にしてみればやり切れない気持ちで一杯でありましょう。殺してやりたいほどの気持ちになってもやむを得ません。けれども、けれども誰がいつ亡くなっても不思議ではありません。悲しい事実であっても受け止めざるを得ないのです。失われた生命を元に戻すことができない現実を目の当たりにして、ただただ無常を思う以外ありません。

この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

 

スッタニパータ201

第一 蛇の章

<11、勝利>

201 犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄(ついば)む。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

屍体は腐敗し動物や微生物によって血肉は分解されていきます。その様は草食動物が肉食動物に襲われハイエナたちが貪るように食らいつくシーンを映像などでみたことがあるでしょう。

これは弱肉強食、自然の循環だといえばそれまでかも知れませんが、問題はそんなところにあるのでありません。この無残な現実をありのままに見るとどうであるかということを示しているのであります。

ヒトも生まれた以上いつか必ず死にます。死の原因が何であれ遺体は死の瞬間から腐敗しはじめ、現在であれば24時間経過後に火葬に付すことが義務付けられています。火葬すれば頭蓋骨をはじめ幾つかの遺骨となって残るだけです。これは避けることのできない現実であります。今日はもうこれ以上付け加えることはありません。今も昔も何も変わっていないということだけであります。

犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。

スッタニパータ200

第一 蛇の章

<11、勝利>

200 また身体が死んで臥するときには、膨(ふく)れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
墓場に棄てられ――当時は林の中の墓場(smasana)に屍体を捨て去るという葬法が一般的であったことが解る。
以上註より

家族や親戚あるいは知人・友人のご遺体に直面された方ならご存知であろうから、この詩句の意味するところはよく解るし、あまり考えたくないところでありましょう。ですがこの事実を直視する必要があります。見て見ぬふりではなしに事実を受け入れていきましょう。なぜなら死というものの現実を受け入れることは自分が生きていることを確かめる絶好の機会であるからです。めったにない肉親の死を目前にしてただ「無常」ということ「常無し」ということ「変わらぬものは無い」ということをしっかりと目に焼き付けておくことが重要です。言葉で云々と理解するよりも最も直接的に教えてくれるからです。

私は小学校の五年生の時に祖母を亡くしました。ずっと遺体のそばで線香を替え、水を替え、ロウソクを替える役目でありました。祖母から微かに漂ってくる死臭に辟易しながら、徐々に青黒くなっていく様をつぶさに見ながら、ああ自分もいつかはこうして死んでいくのだと心細く、悲しい気持ちでいっぱいになりました。

「南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧」とくりかえしお唱えしながら、訳のわからないままに、お唱えする以外なかったのです。「生を明らめ、死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」と「修証義」の一節を諳んじながら、ただただ線香と水とロウソクを替えるばかりでした。祖母の死は私にとって遺体を見る初めての体験でありました。

これは理屈ではありません。現実です。これほど説得力のある「体験学習」はないのであります。日本で仏教が死と密接な関係を保っているのもこの一点にあります。祖母は自らの死によって最期まで家族に教えてくれて下さったと心より感謝いたしております。それは一緒に仏壇の掃除や真鍮磨きを叩きこまれた日頃があってのことでありました。

また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

 

 

 

スッタニパータ198

第一 蛇の章

<11、勝利>

198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

胆汁は肝臓から分泌され胆嚢に蓄えられて十二指腸におくられるものですが、時として胃や食道に逆流することがあります。酸っぱいような苦いようなものです。

はてさて、この詩句も前句に続いて説明を要しませんが、この表現方法では決してこれらを肯定的に捉えているとはいえませんね。むしろ極端に否定的な表現であると捉える向きが多いのではないでしょうか。

それはともかく、あるがままを捉えて表現するとこうなるのかもしれません。わたしたちは、ややもすれば鼻なら鼻、口なら口だけの機能に注目して云々しがちしであります。そうすると機能的な分析にまでどんどん類推が進み、人体の仕組み、未知の領域にどんどん興味を惹かれていくのであります。

それが悪いことではありませんが、この詩句の意図はまもなく明確になります。楽しみに次を待ちましょう。なにしろ「勝利」がテーマです。誰が何に勝利するのか。その方に興味は尽きませんが、まずは「人体から出てくるもの」であります。

鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

 

スッタニパータ197

第一 蛇の章

<11、勝利>

197 またその九つの孔(あな)からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
九つの孔――「両眼の孔、両耳の孔、両鼻孔、口、排泄の道、生殖の道をいう」と註する。註より抜粋

このあとも延々と続きます。私、今日はこの記事が掲載される頃には検査入院のベッドの上であります。恥ずかしながら管を挿して不浄物を排泄して頂いている頃でありましょう。小便は出なければ死んでしまうのであります。下半身に神経が通っていないとこれは自然に出ませんので、管を入れるのです。恥ずかしいなどと言っておれない「まな板の鯉」のような状態でありますから、このことを意識する他ありません。

ただ気づいたことは、毎日一詩ならばこの部分はさっさとまとめて一詩にすればいいのになあと思った途端、ああそうか、ここはじっくりと進める肝心なところではないかと思いました。そうです、「観察」であります。観察することによって我々人間は様々なことを感じ、思い、考えるのであります。ありのままに見るということはなかなか出来るものではありません。いわば本質を見極めることは「観察に始まり観察に終わる」ことでもあります。

またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、