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スッタニパータ407

第三 大いなる章

〈1.出家〉

407 出家されたのちには、身による悪行をはなれた。ことばによる悪行をもすてて、生活をすっかり清められた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

昨日述べましたように、在家のままでは修行は困難といえます。身による悪行、言葉による悪行、さまざまな誘惑、しがらみ。生活を清浄なものに切り替えることなど、まことに困難な道です。

では出家に踏み切れるかといえば、これもまた困難な場合が多いものです。自己の事情のみならず、家族をはじめとする人間関係や仕事の上で、容易に出家など口にさえ出来ないことでありましょう。

以前、本質的には出家と在家の二択しかないと申しました。ところが前例がありました。たとえば親鸞上人は自らを「非僧非俗」と位置づけました。半僧半俗ではありません。あくまでも僧に非ず、俗に非ずというスタンスです。お坊さん臭くない、俗っぽくないという軽いノリではありません。徹底して「非僧非俗」に徹しきられたものと拝察いたします。

このブログを続けながら申し上げるのも変ですが、わたし自身、あまり綺麗事が好きではありません。良いとか悪いとかではなくて、どうも綺麗事が多すぎる。好かんのです。もっと自分に正直でありたい。俗に居て俗に染まらぬ道はないものかと本気で考えています。

言い訳のようで見苦しいかもしれませんが、野伏(のぶし)という言葉をご存知でしょうか。野武士と同じ読みですが、意味は文字通り「野に伏せる(臥せる)」家を持たない暮らしであります。また山伏(やまぶし)と同じ修行者の意味もあります。

山に篭って仙人のように生きるのも結構ですが、わたしには無理です。何もならないとまでは申し上げませんが、それは多くの人々を導く道ではありません。聖道というのは、自己の修行の期間ばかりではありません。ブッダ釈尊は六年間誰よりも厳しい修行を行ってのち悟りを開かれました。独り悟りを得たのではなく、悟りを開かれたのであります。成道と申しております。まさしく道を完成されたのです。道路が完成したのですから、私たちはそこを通ればいいのです。

聖道は聖(ひじり)の道です。成道後の釈尊は終生人々と関わり続けたのであります。人々の暮らしぶり、世の現状をつぶさに見ながら、真理を説かれ続けました。法施と申しますが、野に在って流浪の旅ともいえる道、自らが切り開かれた仏道を歩み続けたのであります。一箇所に留まらず、行住坐臥を聖として過ごされました。

身の出家在家にこだわらず、心の出家などと気取らず、淡々とわだかまりなく生きる。野武士のような気楽さで、野伏(のぶし・のぶせ)として生きる。スタイルはどうあれ、一事を貫く。それが念仏であれ唱題であれ坐禅であれ、全ては同じことです。衆生済度。このことさえ忘れなければ、釈迦牟尼仏は、どこにいても己の心の中におわします。

修証義の最後の言葉。「謂(いわ)ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰(たれ)というぞと審細(しんさい)に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。」

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」  西行法師が伊勢神宮で詠んだとされる和歌ですが、日本人なら誰もが納得の宗教観ですね。一介の野伏にもブッダ釈尊が生きておられることを誠に忝なく存ずる次第であります。

出家されたのちには、身による悪行をはなれた。ことばによる悪行をもすてて、生活をすっかり清められた。

スッタニパータ386

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

386 修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
時ならぬのに――正午すぎをいう。午後に托鉢に出歩いてはならぬ、というのである。托鉢以外の所要で出歩くことは、南アジア諸国でも許されている。
 
定められたときに――午前中をいう。
 
ここで「諸々の目ざめた人々は……」(buddhā,複数)というが、その原語は「ブッダ」である。それは、過去・現在・未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、「夜間に外を出歩いてよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を考えていたのである。
仏教が最初に説かれたときには、後世の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。思慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この箇所の前後の関係から見ると、ブッダ(buddha)とビク(bhikkhu)とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。また求道者としての bodhisattva をブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。いわゆる〈仏教学〉なるものを捨ててかからなければ、『スッタニパータ』を理解することはできない。
 
以上註記より引用した。

今日のブッダの言葉に対する中村元先生の解説は、とても重要な暴露であり、仏教の本質に迫る箴言であります。まさにゴータマ・ブッダ(釈尊)本来の菩提薩埵(Bodhisattva)すなわち菩薩とは、如来となる前の段階ではなく求道者・修行者としてのブッダを指すのです。諸仏とは比丘のことであり、修行者であります。自灯明法灯明。自己を拠り所とし法を拠り所とする。帰依三宝とは、諸仏、諸法、僧伽の三つの宝を拠り所とするものですが、まさに求道者を尊敬し、これに習った生き方を求める真摯な姿勢であれということです。

ブッダを神格化するなということです。神のように尊崇するのは間違っている。中村先生は「後代の思想的所産なのである」と断定されています。穏健であられた先生が、研究者としての毅然とした態度で、既存の仏教学を捨ててかかれとまで言われました。そうでなければ、すなわち既存の仏教学に縛られていたままでは、最古層のスッタニパータを理解できないとまで言明されたのであります。

ブッダ釈尊は、自らを絶対視させませんでした。修行者一人ひとりが仏であります。生まれたばかりの仏もいれば、死んでいった仏もいます。宮崎禅師さまはかつて「若き仏たちへ」と題して、「坐禅をすれば善き人となる」と申されました。禅師様の結論でした。ブッダ釈尊とまったく同様に、仏となる成仏ではなく、修行に取り組んでいるものは既に誰もが仏であるという認識であります。そして修行仲間、同志の呼びかけとして「比丘」を使ったものです。今の日本の言葉では「友よ」といったところでしょう。菩薩とは人格を指す言葉ではなく「修行している状態」であります。

ですから、既存の仏教学を捨てなければ、知っている限りの懐古趣味に過ぎないわけです。現実の生活の中での仏教でなければ、それは伝統建造物や仏像鑑賞などの趣味ならばともかくも、未だに古代インドの風習を模倣した演技では、ドラマチック過ぎて、儀式・行事屋さんのようなものと言えば過言でしょうか。生活は一変しています。何も昔ながらの生活にこだわる必要はありません。現代には現代の生活があるでしょう。もちろん今後共見直さなければなりませんが、昔からのもので良いものは残していくべきだとは思いますが、托鉢や午前中だけの食事などにこだわる必要はないと思います。

そういう固定観念に囚われた生活面にこだわるよりも、坐禅を中心とした生活を続ける。坐禅に親しむことがブッダ釈尊の真意にかなっていると思います。真の仏教を実践された祖師方のことを私たちは「古仏」と慕います。なぜならば私たちもいずれは「古仏」となる「若き仏」なのであります。修証義の最後に「即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩(ぶっとん)を報ずるにてあらん。」とあります。本日はわたしの得度した記念日です。発心(ほっしん)、発菩提心(ほつぼだいしん)といいます。大恩に報いる道を歩き始めた「小さな旅」の始まりでした。

修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。