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スッタニパータ626

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷おもにをおろし、とらわれのない、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第四〇二詩に同じ。
『ウダーナヴォルガ』三三・二七(岩波文庫『ブッダの感興のことば』二九八頁)参照。
とらわれのない人――visaṃyutta.

以上註記より引用した。

自己の苦しみが滅びるということは、この世において何の憂いもないということであります。つまり「解脱」していることを自覚できる状態と申せましょう。人生は楽しいことばかりではありません。辛いことも悲しいこともあるのが普通であり、何の悩みもない人がいるとは到底思えないことでしょう。

ところが「重荷をおろし、とらわれのない人」になれば、すなわちあらゆる責任ある立場を離れれば、自由になれるわけです。束縛を自ら解き、何にもとらわれないで生きることができます。いわば「無責任」な状態になることは、普通できません。家族や職場あるいは義理人情を大事に思えば、自由など夢のまた夢かもしれません。

「生活費はどうするの?どうやって食べていくの?」こうした思いがあることは、世間では至って健全な考え方ですし、社会人としての基本であります。在家というのは、責任ある立場の人ということです。そして本来の出家者というのは、大変非現実的ではありますが、無責任な立場の人ということになります。反社会的な風に思われることでしょうが、ブッダの本来の教えは「解脱」することにあります。ここらへんを曖昧にしますと、仏教というものが途端にわからなくなってしまいます。単なる倫理・道徳を教えているのではありません。いや、道徳を教えるのであれば、わざわざ仏教と申すまでもなく、道徳で良いのであります。

スッタニパータ488

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

施与を受けるにふさわしい人々とともに――この人々とはブッダをはじめとする供養に値する人々、つまり解脱し聖人(阿羅漢)となった人のことです。

目的を達成することになる――福徳(功徳)になるということです。ささげた供物が清いものとなる、つまり供物は無駄にならないで尊い価値あるものとなるといった確認です。

福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人

施しの求めに応ずる在家の施主。前の句において、ブッダは「誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」と在家の施主を定義されています。

ここで重要なことは「施し」というのは、誰が求めてきたものであっても、惜しむことなく慈愛をもって与える行為であるということです。そういう人が施主であり、在家として善良な行為であります。世の中には貧困にあえぎ生活に困っている人がたくさんいます。自らが正当な手段で得た財産を分け与えることは誠に尊いことです。神社や寺院にお供えやお布施をすることだけが施しではありません。

この世で他人に飲食物を与えるならば。この世で善なる行い、善行をなしたものは善きところに生まれ変わる。これは未来永劫に変わらぬ理法です。他人に飲食物を与えることは、すばらしいことであります。福徳を求め福徳を目指すとは、同じことを繰り返しているようですが、「福徳を求める」は他者に対する思いやりの心であり「福徳を目指す」は己に対する志であります。思いやりと志をもって「供物をささげる」つまり供養している人が、その目的であるところの善所に転生すると述べておられるのであります。

マーガ青年とブッダの会話

二人の会話は続きます。この会話を眺めているとお互いの言葉をそのまま受けて、いわばオウム返しのように語っています。これは古代インドであっても現代日本においても人間関係のみならず会話の中身の確認になります。受け取り間違いのないかどうかの確認でもありますが、さらに肝に銘じる記憶の手段としても有効です。

それはさておき、ここでマーガ青年は一つの疑問を抱きます。それは彼がこの段階では「施与を受けるにふさわしい人々」とは、いったい誰であろうと思ったのです。これが次のマーガさんの質問になっていきます。会話は互いに質問と回答によって成り立ちます。話し上手は聞き上手。聞き上手は質問上手。質問上手が話し上手、と言われます。仏典はまさにこのような会話形式で語り伝えられています。

最優秀賞アニメで決まる時世かな『月路』

映画業界の力関係を越えて「この世界の片隅に」が今年度の日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞に輝きました。業界もさすがに名作を無視できなかったのではないでしょうか。ただし監督やスタッフの中に主演声優ののん(本名:能年玲奈)ちゃんの姿は見えませんでした。あれほどの功績を残しながら未だ芸能界から干され続けておりNHK以外の民放テレビでは顔も声も名前も出てきません。旧事務所の無言の圧力というか旧事務所に遠慮?忖度?している様子が伺えます。「あまちゃん」の時からなかなかどうして若いのに大したもんやと思って応援してきただけに残念です。ホンマに。

尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

スッタニパータ464

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第四六四、四六五詩は第四九七、四九八詩に同じ。
 
以上註記より引用した。

梭(ひ)については第二一五詩を参照して下さい。機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)のことです。

欲望を捨てる。あっさりと説かれていますが、これは口でいうほど簡単なことではありません。だいたいそういう人に、お目にかかったことがありません。自身を振り返ってみても欲望だらけです。欲望はしばしば煩悩と呼ばれますが、何のことはありません。普通の人の普通の感情です。感情のほとんどが欲望です。ああしたい、こうしたい、嫌だ、好きだ、暑い、寒い、冷たい、熱い、何もしたくない、眠い、疲れた、あらゆる欲望とはこうした気持ちのことです。あらためて申し上げるまでもありませんが、気持ちを捨てるということは、感情を殺すことではなく、さっと離れることです。

欲望の対象にとらわれない。見たまま聞こえたまま感じたままの感覚にこだわらない。こんなことが果たして可能でしょうか。可能です。家という一番気持ちが表れている欲望の具体的な対象から離れて住むこと。たとえば、豪邸や高級マンションをイメージしてください。こうした住まいに住みたいと思ったから、そこに住んでおられる。またそれを買ったり借りておられる。気持ちが表れているのが現在の生活です。これも当然のことですが、あっさりとその思い、気持ちを捨てれば、家から離れることは実に可能です。可能ではありますが、これがなかなか至難です。

そういう気持ちを捨て、家から離れて歩み、よく自らを慎んでいる人々にこそ、供物をささげなさい、と。それは梭のように真っ直ぐな歩みを続けている人々、つまり修行者にこそ供物をささげる、供養しなさいという意味です。例によって、もし貴方が功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と続きます。

これは明確にブッダがバラモンを試しておられるところだと思います。解脱を求めて出家し慎ましく生活している修行者に供養をささげなさい。それが祭祀を行う在家の勤めですと言わんばかりです。事実そう繰り返し説いておられる。祭祀を祈りと言い換えてもよいと思います。これからも供物をささげ祈りを続けるのであれば、その供物は立派に修行されている人々に捧げなさい。出家者に在家者が供養する、それは善きことなのです。そういう生き方ももちろんありますよ、と。

風強し幡が纏わる雪が飛ぶ(月路)

夜中にお腹がすいて目が覚めました。観音様ののぼり幡が千切れんばかりに風にあおられています。あれは風が動いているのか、幡が動いているのか。ある人は自分の心が動いているのだと言われた、という大河ドラマの一シーンが、なぜか腹減ったという夢でした。まったく意味がわからないのが夢ですが、欲望とか、気持ちというのも夢の様なものではないでしょうか。つじつまというか、理路整然とはいきません。結局、気持ち。この不可解な気持ちとまだ当分付き合うことになりそうです。

諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ376

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

わたくしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者の園〉におられた。そのときダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者とともに師のおられるところに近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。

376 「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
教えを聞く人――sāvaka.パーリ語でsāvaka,サンスクリットで srāvaka は、もとは単に「教えを聞く人」「弟子」という意味であった。ところが、後代の仏教では、伝統的保守的仏教を奉ずる忠実な出家修行僧の意味に解せられ、漢訳仏典では「声聞」(しょうもん)と訳される。これに対して、ジャイナ教では、ArdhamAgadhi 語でsAvagaとなり、在俗信者のことをいう。後代の仏教でも、後代のジャイナ教でも、この後の意義が一方に特殊化され限定されたのであって、もとは両者を含んだもの、「教えを聞く人」というだけの意味のものであったと解される。
その変遷の過程は、次のごとくである。教えを聞く人々のうちには、出家者(anAgAra,pabbajita)すなわちビク(bhikkhu 比丘)と在家者(agArin,gahattha)すなわち在俗信者(upAsaka)と二種類あった。(中略)在俗信者でも〈教えを聞く人〉(sAvaka)であったのである。ところが教団が発展して、教団の権威が確立すると、出家修行者は在俗信者に対して、一段と高いところに立つようになる。他方、在俗信者は一段と低いものと考えられる。そこで、「教えを聞く人」とは、教団で集団生活をしている出家修行者にのみ限られるようになった。しかしそれは、後世になってから意義が変化したのである。そうして、ある時期から在俗信者は「仕える人」(upAsaka)と呼ばれるようになった(『スッタニパータ』の韻文の中ではupAsakaという語は第三七六、三八四詩にのみ出てくる。しかしマウリア王朝時代およびそれ以後の碑文にupAsaka,upAsikaとあれば、ほとんどすべて仏教の在俗信者のことである)。すなわち、出家修行者に対して仕える人なのである。〔この点はジャイナ教の場合でも同様で、在俗信者をupAsaga=upAsakaと呼ぶ。〕ここでは階位に関する僧俗の分裂がはっきりと意識されるに至ったのである。以上の変化に対応して、ジャイナ教でも同様の変化が見られる。古い聖典(例えばUvAsagadasAo)では「仕える人」(uvAsaga)と呼んでいる。

以上註記より抜粋して引用した。

ここで明確にしておかなければならないことは一つです。それは出家であろうが在家であろうが立場は違っても上下の関係にないということです。これは後代の仏教が権威付けのために行った制度に過ぎないという事実です。ここをはきちがえると大変なことになるどころか、教えを冒涜することになろうと思います。縁あって修行者となる人も、縁あって在家に留まる人も共に仏教徒であることに何ら変わりないことを強調しておきたいと存じます。

さて、今日から始まるこの節は本章の最後の部分にあたります。いわば結論的に具体的な仏教徒のあり方を問い、またブッダが詳細にその内容を示されております。この節だけを読んでも一通りの仏教徒の在り方が理解できるようにまとめられていると申し上げてよろしいかと存じます。

それにしても500人もの在俗信者を引き連れてきたこのダンミカなる方は凄い方ですね。現代でいえば、講演会場に500人集めて話を聞きに来たようなものです。修行僧だけではなく、在家信者もたくさんおられた。そういうカリスマ性があったといえばそれまでですが、メディアの広告もインターネットもない時代です。どうやって集めたのかと不思議ですが、やはり口コミでしょうね。善いものは善い。そして知らずに伝わる。それが2500年間も続いている。驚きです。

「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

 

スッタニパータ263

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
施与――贈与と言いかえてもよい。物質的なものであってもよいし、精神的、無形のものであってもかまわないが、他の人々に何ものかを与えることによって、人々を助けることができるのである。”自分のものだ”と言ってにぎりしめるのではなく、他人に何かを与えるところに人生の深い喜びがあるのではないだろうか。

以上註より引用した。

「理法に適った行い」とは、自然体であるばかりではなく、慈悲の心から為す一切の行為を指すものと考えられます。人々を慈しみあわれむ優しい気持ちが「施与」という奉仕(無償の行為)となってあらわれ、家族や親族を愛し守ることにつながり、決して非難を受けることのない行為として不朽であります。俗に「情けは人のためならず」と申しますが、見返りを求めてする行為は他人も自分も気持ちの良いものではありません。そういう打算をこえて、善きことと思ったことを、ただ素直に行う中に何ものにも代えがたい深い喜びがあります。暑い中にひとしきり汗をかいて、誰にほめられるでもなく、黙々と作務に親しむこともまた、こよなき幸せであると。きっとブッダも人々や神々の幸せを考えた時に、そういう感慨をもたれたのでありましょう。

幸せは何も出家しなければ得られないというものではありません。在家であっても神々であっても幸せであることは可能であります。しかしながら幸せである行為を続けていることは、また非常に困難であることも事実であります。それは思わぬ出来事に必ず遭遇するからであります。平常が続かない、言い換えれば「無常」であることに誰もが気づくことになります。それが老病死であり、生きることの本質的な実態であります。そうした時に人々は救いを求めます。「衆生済度」の願い(誓願)をもって救いに立つ生き方を「出家」と申します。自未得度先度他、上求菩提下化衆生の道を選ぶのであります。

施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。