タグ別アーカイブ: 地獄

スッタニパータ404

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)〈みずから光を放つ〉という名の神々のもとに赴く。」

〈小なる章〉第二おわる

この章のまとめの句
宝となまぐさと、恥と、こよなき幸せと、スーチローマと理法にかなった行いと、バラモンにふさわしいことと、船の経と、いかなる戒めを、と、精励と、ラーフラと、ヴァンギーサと正しい遍歴と、さらにダンミカと──
これらの十四の経が「小なる章」と言われる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
正しい商売――武器の売買、生きものの売買、酒の売買、毒の売買の五つを除いた正しい商売をいう。一つの異本によると、武器の売買を挙げず、その代りに人間の売買を挙げている。(中略)

みずから光を放つ――六欲天全部の総称。これは、後代の教学にもとづく解釈である。最初期には「みずから光を放つ」(sayampabha)という神々を漠然と考えていただけである。ところが、後の、或る程度発展した教学体系では六欲天を考え出したので、それらと同一視したのである。

以上註記より抜粋して引用した。

六欲天という仏教概念は今や広く浸透しております。いわゆる天界の分類で、かの織田信長が「六欲天の魔王」を自認したことでつとに有名であります。仏教にはこの六つがよく使われます。六道輪廻、六波羅蜜、六神通などです。六欲天には、兜率天とか四天王の住む四大王衆天とか仏教書によく出てきます。ほとんど後世の作り話といって良いでしょう。

ただし天界というもの即ち天上界いわゆる天国は、神々のおられる場所として最初期にも頻繁に使われています。これもまたバラモン社会における常識の中での説明と考えられます。後世には極楽とも呼ばれます。これは西方極楽浄土、阿弥陀如来のおられる地を指します。いわば人間の憧れの場所ですね。地獄と対極に位置します。

「自ら光を放つ神々」のもとに赴くという伝説は世界各地に共通であります。死後の世界は二者択一、地獄に落ちるか、天上に昇るかのどちらかです。まことに申し訳ないのですが、これは自分が一番よく知っています。今日まで見てきた在家者に対するブッダの言葉の数々を統合すれば容易に判定できます。わざわざ閻魔大王に裁決を下してもらうことはないのであります。

それはともかく、在家者に対してブッダ釈尊は父母への孝養を第一に説かれています。ご自身は父母のもとを去り出家されたのに、家に在る者は、正しい糧を得て、父母を養えと明言されています。これは矛盾ではなく合理的な選択であると思います。出家を覚悟できない者は、在家に留まり社会秩序を保つことが大事であるからです。年老いた父母を養うことが全ての生活の基本であり、世界中に共通する基本中の基本であります。

道元禅師さまは、「悟りを求めるな」とまで言い切っておられます。かつてNHKで放映された道元禅師の「正法眼蔵」をかんたんに振り返っておきましょう。解説は「ひろさちや」さんですが、先生は日本の宗教哲学者として「空海・親鸞・道元」の三人を挙げられております。さて今日は宗派を離れて「道元」の正法眼蔵に迫ってみましょう。

正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)〈みずから光を放つ〉という名の神々のもとに赴く。」

スッタニパータ277

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

277 かれは無明に誘(いざな)われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

無明(むみょう)とは、迷いであり、真理に暗いことを指し、智慧の光に照らされていない状態であります。無明の闇は自分が暗いと気づいていないところに大きな問題があります。つまり自分は全て知っているという思い込みであります。これを観念と申します。観念の色眼鏡をかけているのですからまともに見えるはずがないのです。ところが困ったことにまるで全てを悟ったかのようにふるまい、傲慢で、余計な言葉で混乱しているのであります。

これは一部の人に留まりません。ほとんどの人々、修行者であっても自己の見解に固執して他人をも混乱させておきながら平気な顔をしています。吾がこととして猛省が必要です。でなければこの無明の闇が広がり、煩悩の海におぼれてしまいます。そしてこの海のそこには地獄が待ち構えております。

無明であることを確認しましょう。ただしこの無明に誘導されてはいけません。無明であると気づき、明かりを灯せば、真理(実相)が見えてまいります。この明かりが智慧(真の理解)であります。このスッタニパータ(原始仏典)に学ぶのも、智慧の光によって無明の足元を照らし、しっかりと仏道を歩まんがためであります。

かれは無明に誘(いざな)われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

スッタニパータ248

第二 小なる章

<2、なまぐさ>

248 これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆まにして地獄に落ちる、──これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩が嘘であるならば仏教は単なる道徳であって簡単に無視されてしまうことでしょう。悪いことをする人は意外と多いのですが極悪人というものは意外と少ないというのが実感であります。その極悪人「常に害を為すことに努めている」人間が死んでからどうなるかを佛陀は非常に具体的に示されています。

真っ暗な中を真っ逆さまに地獄に落ちる。これが何を意味しているかと考えても無意味であります。そのままに受け取っていただいて宜しいかと存じます。わたしは手術で全身麻酔をかけられた時の感覚をよく覚えております。スーッと目の前が見えなくなりどこかに落ちていく感じで、気がついた時には病室のベッドの上でした。夢の中でそういった感覚を体験した人も多いでしょう。一瞬でさえ決していい気持ちではありません。ジェットコースターなどの遊園地の乗り物とは訳が違います。恐怖の極みでありましょう。

生きながら逆さまにされて高いところから落とされて亡くなった方は、その死の瞬間が過ぎれば行くべき所に行きます。ただし敵対して殺害した者は死んでからずっとその恐怖を味わい続けるのであります。これが地獄の無限の恐怖とされています。昔から地獄絵図として描かれてきたようなオドロオドロしい客観的なものではなく、吾が事としての恐怖を死んでから主観的に体感するのであります。死んでから苦しむことはありえないと信じている人と、死後を素直に信じる人との違いは何かを考えてみてください。どちらにしても死後は訪れます。死後には何も残らないと信じようとしている人が、死の直前に真実を知りたくなっても、その時には残念ながら遅いかもしれません。

今日のこの詩を忘れないでください。そんじょそこらのオッサンの言葉ではありません。古来から固く信じられている因果応報の摂理を佛陀は踏襲しています。輪廻や転生を否定されているわけではないのです。むしろ積極的にそれをなぞりつつも、なまぐさの何たるかを具体的に明確に示されています。それは生きるための「安心」(あんじん)につながる基本的な考え方生き方の大いなる指針なのであります。この指針が示されているからこそ人々は安心して生きていくことができます。それは自分にとって都合の良い生き方などではなく、自分にとってより善く生きる方向、つまり正しい道を教えられているわけです。

これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆まにして地獄に落ちる、──これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。

スッタニパータ247

第二 小なる章

<2、なまぐさ>

247 この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、──これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
残酷で――ludda(=kururakammanta).具体的には「魚を殺す人、獣を捕縛する人、鳥をとらえる人」をいう。

以上註より引用した。

本詩のような人物が実際に存在するとは信じたくありませんが、残念ながら現在にも実在するのが事実です。何故彼らがそうなったのか知る由もありませんが、被害者の気持ちを想像した時に胸をかきむしられる思いでいっぱいになります。自己中心の考えが他者の生存を踏みにじることはこの世における地獄の姿であり、地獄へ落としたものは自らが本物の地獄に落ちることを信じていない者の驕りであります。

地獄はこの世あの世を問わず実在します。お伽話などではなく、喩え話でも、あるいは教育的配慮で作られた物語でもありません。どのようなものであるかは想像するほかありません。見てきた人もいません。だから実際に無いとは言い切れないでしょう。とにかく地獄に落ちることは古来から宗教をこえて伝えられてきました。なぜならこれが公平な理法、天地の摂理というものだからです。悪いことをしたものは堕ち、善いことをしたものは昇る。これが大原則ですから、因果応報に例外はありません。悪い者たちを憐れむ以外ないのです。バカなことをしたものだ、と。

バングラデシュの良家の子息がテロを起しました。何不自由なく育った彼らの笑顔を見ているとまだほんの子供です。彼らが過激な、たちの悪い思想(宗教とはとても呼べない)に多大なる影響を受け、そして大きな犯行を実行してしまいました。聖戦という名の大量殺戮で彼らが神に召されることはありません。彼らは知ることになります。誤った選択を。地獄に堕ちて彼らは叫びます。「何故だ」と。

教育に宗教を持ち込むことは法律的に許されておりませんが、わたしは宗教教育が大事であると心底思います。高等教育を受けたものはあっさりと陥落してしまうからであります。精神性を無視した道徳はもはや道徳でも倫理でもありません。過激な思想哲学にイチコロなのであります。思い起こせばかの「オウム真理教」がそうでした。オウムとは現在過去未来のことです。その真理の教えと称した邪教に見事に洗脳されたではありませんか。ジハードを叫ぶ若者が自爆するのです。日本にもテロや過激思想が芽生えても何の不思議もないのであります。忘れかけていた言葉「マインドコントール」、心の制御といえば聞こえはいいのですが、何のことはないただの「集団催眠」でありました。

スッタニパータ141

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
悪いところ――duggati.漢訳では「悪趣」「悪道」と訳す。普通は「地獄」「餓鬼」「畜生」の三つをいい、後には、そのほかに「修羅」を数えることもある。以上註より抜粋して引用

現世(今生)では社会から非難され、来世には悪道に生まれる。このことは、真理としてどうしようもないと嘆いておられるのです。真理を真如とか仏法とか申しますが、簡単に言えば当然至極のことです。輪廻を肯定せざるを得ないのは、この世が因果応報の理法に貫かれた世界であり、報いを得ないことがあっては理法が理法でなくなるわけです。理法を摂理と言い換えても同じです。悪道の説明は後世に様々に解説されていますが、一言で言えば「地獄」です。この世にも地獄はたくさんあります。平気で地獄をみたなどと言いますが、かんたんにいいます。生まれ変わっても地獄です、大抵は。だからこそ生きているうちに極力善きことをするべきなのです。ひょっとしたら良きところへ赴くことができるかもしれません。それほど一般的な人間は業が深いのです。それこそ救いようがないほどです。他人事ではありません。我が事でありますし、貴方のことかもしれません。

そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。