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スッタニパータ477

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

477  自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
自己を観じて――cf.SN.I,p.116G.「自己を自己なしと見て(drsṭvātmānaṃ nirātmānaṃ)、かれはそのとき解脱する」(中略)。

それを認めることなく――nānupassati.自己を実体としてそこにあると認めることなく、の意であろう。(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく

これは解脱するための最も肝心なところです。たいへん難しい言い回しのようですが、簡潔にまとめられております。自己というものが実体として存在するという前提では、この文章は意味が通じません。ところが自己と思っているのは自我であり感官によって得られた自分自身の姿形や自己認識に過ぎない。すなわち世界のどこにも自己という実体は存在しないとする無我説によれば、かんたんに意味が通じます。そこで後代の仏教一般には無我という概念をひねり出したのです。いわば魂とか精神といった真我というものを否定したのです。ところが、輪廻という概念を持ち出すとどうにも都合が悪くなります。ようするに矛盾するわけですね。そこでこの矛盾を埋めるのに都合のいい論法はないかと、またまた思考を重ねて考え出されたものが非我という概念です。我は無しとするのではなく、我は我なれど我に非ずとしたのです。ああややこしや仏教論。平たく申し上げればそういうことなのですが、これは全き人の悟られた(言葉に出来ない)ことを論理的に解き明かそうとするものですから、行き詰まったり、訳がわからなくなったり、適当に解釈して無理やり納得してきたのです。何度も申し上げているとおり、解脱を言葉で理解しようとしてもそれは無理です。ここはこれ以上、余計なことを考えないで、すなおに「自己によって自己を観じて、それを認めることなく」と受け止めればそれでいいと思います。考えすぎないことです。

こころが等しくしずまり

心が等しく静まる。これもわかりにくい表現です。われわれは通常有ることでは平静でありましても、何かのことでは波風が立っているものです。具体的に申し上げれば、体の健康面では悩むことがなくても金銭的に悩んでいることもあります。また家族のことで心配があったり、漠然とした不安とか、過去の体験による障害であるとか、様々な憂いというものを抱えています。それらの全てがとらわれやこだわりをもとに波打っているものです。それらが全て静かになっている状態をこころの安定とか平安と呼ぶのです。静かな水面をイメージすると良いでしょう。

身体が真直ぐで

身体が真っ直ぐというのは、姿勢を正しているということです。常に身体を捻じ曲げないでいる。一挙手一投足にも常に気をつけている。足を投げ出さない。手を抜かない。そうした所作が身についているということです。真直ぐを形にあらわした姿が坐禅であります。身体の芯が地球の中心に向っている。そうした安定的な様子であります。

みずから安立し

安定して自立していることです。昨日も今日も明日もゆらぎがない。そうした不動の姿勢です。誰から何を言われようが、たとえ蹴飛ばされようともどっしりと安立している様子です。誰かのためとか、自分のためとか、皆のためとか、為を意識していないこともまた安立といえるでしょう。誰かに依存しているところが少しでもあれば、それはもう安立とは呼べません。安らかに立っておれないのですから。

動揺することなく

外的な刺激で動揺しない。これが安立の安全な立場です。揺れ動くところに立たないことも大事です。安定した場所に安定した姿勢で安定した気持ちでいることは誰でもできますが、不安定な場所でも、どのような状況でも動揺しないことは、誰にでもできることではありません。動揺しないことではなく、動揺することがない安定さを保つことが出来るかどうかです。

疑惑のない〈全き人〉

完全なる人(如来)には疑惑がありません。人を疑うことも惑わすこともないのです。もちろん人から疑われるような人ではないのですが、心無い攻撃を受けたことはありました。殺されかけたこともあります。ブッダは殺害されませんでしたが、ブッダの弟子には殺害された人もおられます。それでもブッダには疑惑がありませんでした。こんなことは稀有なことです。ふつう考えられないのです。後ろから棍棒で殴られたシャーリープトラ(舎利佛)尊者は、殴られても平然と前に進んで歩かれたそうです。殴った方が恐れて詫びを入れると、尊者はそうでしたかと全く動揺がありません。疑惑のない人とはそういう人のことです。全き人と凡人の大きな違いがここにあります。

雨が降り風の吹くなか桜植え(月路)

戴いた桜の苗木、といっても樹高3メートルもある桜の木を観音様の後ろに植えました。古いアスナロの木を昨年伐りましたので、その横に今後のセンターツリーとするべく本堂の前に植樹しました。もう一本モミジの木も贈呈くださるとかで、これは玄関前にどうかなと思っています。そういえば紅梅が咲き始め、冬景色に彩りを添えてくれています。一昨日からのお天気と昨日午後からの雨でお寺のまわりの雪もすっかり融けました。春は確実にやってきております。昨日は牡丹鍋も頂いてお腹いっぱいになりました。この桜が咲く頃には、外で花見ができるぞと子供のように一人はしゃぎながらスコップを片付けました。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

スッタニパータ471

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
最上の知見によって――註には「全知者の智によって」と解する(中略)。

最後の身体をたもっている――もはや生まれかわってさらに新たな身体を受けることがない、との意。ニルヴァーナに達した人のことをいう。ニルヴァーナに入ると、もはや身体をたもつことがない、と考えていたのである。

以上註記より抜粋して引用した。

ニルバーナ(涅槃)に入るまで

  1. こころをひとしく静かにして(正定、正しい禅定)
  2. 激流をわたり(解脱する)
  3. 最上の知見によって理法を知り(智慧による正見)
  4. 煩悩の汚れを滅しつくして(煩悩滅尽)
  5. 最後の身体をたもっている(涅槃寂静)

一日中坐禅していることは通常できませんが、身を正して坐る禅定というのは、時間的にはそれこそ五分かせいぜい二十分程度であっても集中している時間です。それこそ一息一息瞬間瞬間を何も考えないでいる。大変なことです。毎日毎日どんどん変わっていく。だから大変といいます。言葉の遊びではなく確実に成長していきます。昨日と今日ではほとんど成長が感じられません。植物の成長と同じです。しかし智慧が育まれていることは確かなのであります。

解脱するというのは、蛇が脱皮するようなものです。成長のたびに。覚りといってもいいのですが、言葉が先行してしまうきらいがありますので、ブッダが喩えられたようなイメージがぴったりかと思います。激流に飲み込まれることなく、河を渡り切ることです。具体的に申し上げれば、毎日いろいろな出来事に出会います。そのたびに渡るのです。大きな河を一跨ぎで渡ることなど出来ようはずがありません。中洲というものがあります。洲(しま)は自己であり理法です。自灯明法灯明ともいいます。そういう拠り所をもって激流を渡っていくのです。

渡りきったときにはじめて智慧が完成します。智慧を育むには禅定以外ないのです。ですから八正道の最後に正定が説かれており、また最初の正見へと続いているのであります。毎日の初めと毎日の終りに五分ずつでも良いのです。無理する必要は全くありませんが、毎日少しでも続けることが最も大事であります。

智慧は最上の知見(正見)です。あるがままを観るということです。目に映る姿は、耳に聞こえる音は、あるがままではありません。感覚に過ぎません。感覚にまどわされることなく、その実際を観察することです。空なりと観ずる。このことは説明すればするほど深みに足をすくわれてしまいますので、禅定によって体得(体解:たいげ)するより他にないと申し上げておきます。智慧の中身を説明できるものではないのです。すべての人々に共通する智慧などあり得ません。皆、ひとりひとりの中にしか無いのですから。摩訶般若波羅蜜。

バレンタイン翌日晴れて涅槃会に(月路)

今日はお釈迦様のご命日。涅槃に入られた日です。三仏忌の一つです。昔作った動画を貼り付けておきます。わたしが遷化したら(死んだら)この歌を歌ってやってください。お願いをしておきます。

こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ467

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人――tathāgata.漢訳仏典では普通「如来」と訳される。
 
以上註記より引用した。

1,まず内なる欲望を捨てる。

2,つぎに外なる欲に負けない。

3,そして生死を明らかに知る。

4,解脱して心の平安に至る。

清涼な状態にある人。まるで湖水のごとくあられる如来(タターギャタ)。完全なる人。ブッダのことです。そのような人こそが献菓されるに相応しい、供に応ずる(応供)方である。供物を受け取るに値する尊き人であるといいます。ですから私たちは仏様に供物をささげるのであります。

今日からはまた新しい締めの言葉が繰り返されます。「〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」です。こういう繰り返しを漢字圏では韻を踏むといいます。漢詩などでお馴染みの手法ですが、仏典ではいささか意味が異なります。それは、強調であると同時に共通項ともいえます。この詩でいえば、供物をささげるに値するかどうかが問われているわけですから、順序よくその修行を完成させなさいということを一番教えてあげたい。そういうブッダの優しさがにじみ出ていると思います。

なぜなら世間での商売であれ仕事であれ家事であれ芸術や科学であれ、到達したように見えて、その実、完成に至ることは決してありません。それこそ一生が勉強といえば勉強。修行と言えば修行で終わるわけです。完成ということがないのです。ところが、ブッダの教えときたら完成があるのです。解脱そして涅槃であります。ブッダと同じ状態に成れる。信じられないことのようですが、これは挑戦に値することです。

今から発見したり発明する必要はありません。ブッダのつけた道を愚直に歩むかどうかです。自分にはとても無理と思えば無理です。可能かどうかはやればわかります。難しく考えれば出来ません。やるかどうか。教えられたとおり実行する以外に道はありません。教えに酔うことなく、教えのとおりやっていく。坐禅を毎日していればわかります。していなければいつまでたってもわからない。ただそれだけの話しです。

ただ坐る他にあるなら出してみよ(月路)

一年の計は元旦にあり。では一日の計は?もう坐禅しかないでしょう。一日の計は坐禅にあり。昨日は朝から桜井市の斎場にお葬式で出かけ、帰ってから夕方まで雪除け。遅くまでほとんど明日の法要の準備でした。少々筋肉が痙攣気味ですが、それでも朝の坐禅が一日響いています。ただ坐っているだけですが、一息一息だけなのですが、40分間の静けさは一日中鳴り響いています。うまく言えませんがそんな感じです。

濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる(道元禅師)

諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ442

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダ釈尊が坐禅している周りに旗を翻した悪魔の軍勢が取り囲みます。悪魔の総大将ナムチが王の象徴である象にまたがり勝ち誇るようにして陣触れを発します。最後の総攻撃が開始されました。

「立ち迎えて彼らと戦おう」とありますが、ここでは実際に立ち上がって戦うのではありません。一歩も退かないという意味であり決してその場を動かないという不動の決意であります。

降魔成道とは実際に何をしたのか?

降魔成道といわれるように成道に降魔という言葉がついています。この降魔は文字通り悪魔を降したという意味ですが、文献によれば触地印あるいは降魔印といって右手を地面につけている像がたくさん残っておりまして、その降魔の様子が克明に描かれています。わたしの家の仏壇にも降魔成道の釈尊像を祀ってあります。この触地印(そくちいん)ですが、なぜ地面に触れているのかが、長い間疑問でありました。いわく悪魔よ地獄に戻れ、地にひれ伏せよ、あるいは大地の神を出現させといった解説もされるのですが、いずれも神話的であり、どこか釈然としませんでした。

決してこの場を離れない不動心

その答えが「私をこの場所から退けることなかれ」という言葉でありました。結跏趺坐しながら左手を上に向け、右手を地面に触れているのは正しくこの場を退かない、すなわち誘惑に負けないことを指し示しているのではないでしょうか。やってみるとわかりますが、この釈尊の教えが身体で再現されるのです。坐禅の最中にも、ありとあらゆる妄想が襲ってまいります。その妄想を断ち切るべく、たまには触地印をいたします。神秘的ではありますが、そのとき、すっと妄想から抜け出すことができます。密教の不動明王(お不動様)はこの降魔成道の説話から象徴的に祀られていったとする説もあります。不動尊とも無動尊とも呼ばれる所以かと存じます。さりながら……

言葉の観念だけでは理解できない

仏教を学ぶにつれ、だんだんと仏教概念が頭のなかに張り付いてまいります。さまざまな仏教知識が知らず知らずのうちに思想を展開していきます。何もそれを全否定するわけではありませんが、言葉による観念で空腹を満たしていると、すぐに飽きてきたり、どこかに真理が埋もれているような気がして探し求めるようになります。答えはどこにも見つかりません。それでも師を求め、あるいは道を求めています。ところが簡単な実践を行うだけで、言葉では言い表せないような発見があるものです。やってみること。やり続けること。やり遂げること。坐禅は釈尊の成道の姿であることは申すまでもありません。

二十二年 正月中旬 かの地震 (月路)

今日は1月17日、阪神淡路大地震より22年経ちました。生まれた赤ちゃんが22歳。わたしが40歳のときのことでした。妻はもう起きていました。二階で寝ていたわたしは、あまりの衝撃に家が壊れるのではないかと、火は大丈夫かととっさに階下へよろけながら降りていきました。

地震。家が縦に揺さぶられるようでした。家族は全員無事。200キロ以上も離れた場所で震度5、震度7というのは想像を絶します。高速道路が倒れ、ビルが倒れ、火災が発生。すさまじい映像に息を飲みました。あれから22年。あれから22年が過ぎました。しみじみ、速いものです。

地震になれば誰もがじっとしてはいません。じっとしては居れないでしょう。地面が動くのですから。地響きを上げて怒涛のごとく攻めてくるナムチ軍にブッダは静かに右手を地面に触れました。その時に大地が裂けるような地震が起きたのでしょう。その大地震によって、すべてのナムチ軍が地割れの中に落ちていくなか、ただ一人、ブッダは坐禅したまま動きませんでした。動揺しなかったのです。

軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

 

スッタニパータ438

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ここでは「自己をほめたたえて他人を軽蔑することである」(attānaṃ samukkaṃse pare ca avajānati)が悪徳として挙げられているが、それを受けて後代の仏教では「不自讃毀他戒」が成立する。

以上註記より引用した。

わたしが所属する曹洞宗では大乗菩薩戒という戒を受戒いたします。十六条戒ともいいますが、その中の十重禁戒の第七にこの「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)自らをほめ他をそしってはならない、という戒めがあるのですが、今更ながら仏祖正伝を感じております。正しく伝わっているのは多くの先人のお陰であり、師資相承と申しまして、師から師へと確かに受け継がれてきたのです。こうして中村元先生をはじめ多くの研究者のおかげで、ブッダ釈尊の教えを確認することができるのですが、この詩句もまた、その一つであります。

誰も直接自分を褒めるような自慢はしないのですが、間接的に自慢している場合が多い。それは他人をけなし、あざけり、倒して、軽蔑し、結果的に相手を壊すことによって、自己を讃えているともいえます。いわゆる綺麗事をいってあたかも自分が立派であるかのように錯覚しておるのです。それに気づきなさいということです。反省。

今日のカウンターパンチは、「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉」であります。この誤って得られたという形容は、利得だけにかかる言葉ではありません。けだし名声と尊敬と名誉すべてが誤って得られたものだとしたわけです。後代の仏教では「名利」(みょうり)といいますが、これは誤って得られた、実態のないものであるといわれております。ですから名利を捨てなさい、名利から離れなさい、これに尽きるといわれます。どんなに修行を積んでも俺は大したものだ、これぐらいになったら、これぐらいの名誉や地位は当然だ、これぐらいの給料も当たり前だ、などと名と利を誇るようでは、修行をしなくなります。努力しなくなるということです。これが慢心の最たるものです。

縁日や 虚空蔵菩薩の 声がする (月路)

虚空蔵菩薩は智慧を授けてくださる仏さまで、毎月13日が縁日です。隣のお寺の禅源寺には金庫のなかに納めてあるそうです。一度拝観したいものと思っておりますが、お名前の通り虚空、何もない空間を蔵しておられる菩薩です。結局仏教はこの虚空を説いているのです。ごちゃごちゃと色んな物を詰めているようでは、悟りには至らない。心のなかを空っぽにしたときに見えてくるのが智慧です。智慧を得るのはまず空っぽにすること。空っぽにする方法が坐禅ときたものです。世間でも虚心坦懐というではありませんか。わだかまりや誤解、錯覚、誤って得られたものが沢山あります。片っ端から捨てていきましょう。

誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

スッタニパータ434

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

434(身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
心はますます澄んで――心が澄むというのは信仰の特質であると、仏教では一般に定義する。第四三二詩に信念(信仰)に言及したので、それを受けている。

以上註記より引用した。

わが念い――sati.一般に念と訳される。比較的最近では気づきと訳していることが多くなってきていますが、日本語としては不適切で、よく気をつけている、あるいは記銘と記憶、総じて「わが念(おも)い」としたものでしょう。今の心と書いて念。ここでは、あっさり「信念」という意味であるとした方が解りやすいと思います。

智慧――paññā.一般的な意味での智恵と変わりませんが、漢訳の伝統にしたがって智慧としたものでしょう。三学の一つであるこの智慧は今の言葉で表せば「英知・叡智」といってよいと思います。深遠な道理を知りえるすぐれた知恵のことです。音訳して般若。般若心経の般若です。

統一した心――samādhi.禅定のことです。サマーディは仏教独自の言葉ではありませんでした。ヨーガ修行の最もポピュラーな修行法で坐禅というほうが現在ではわかりやすいのではないでしょうか。これも三学の一つに数えられています。統一した心と訳されているのは、全ての心(理性と感性と霊性)を統一する、バラバラに妄想している心を一つに集中することで統一をはかるといった意味が込められている名訳です。

安立する――tiṭṭhati.安定して確立している。以上の信(戒)・定・慧の三学を安立(あんりゅう)する具体的な修行法が坐禅です。頭で思考するのではなく、心を安立するには身体を真っ直ぐにする、最も安定な姿である結跏趺坐を行うことです。姿勢に気をつけ、姿勢を正し、何も考えない。普勧坐禅儀では、「心・意・識の運転を止め、念・想・観の測量を止めて」とあります。非思量が坐禅の要術であると喝破されております。

本詩でのポイントは、体液が出なくなり肉が落ちると、心がますます澄んでくる、という記述です。わたしが僧堂での修行時代、ピークで80キロあった体重が師寮寺で10キロ修行寺で20キロ落ちて50キロ、十代のころの体重になったとき、身も心も軽くなった実感がありました。肋骨がくっきり、腹はぺしゃんこ、足も手も細くなり、皺だらけ、老人のように痩せこけ、風呂場の鏡に映る我が姿に愕然としたものです。心がますます澄んでいたとは申しませんが、軽くなった実感は確かにありました。もちろんこのままだと死んでしまうのではという恐怖もありました。およそブッダの苦行とはかけ離れていましたが、何となく朧気ながらその輪郭だけは分かるような気が致します。

餅の山 水に漬けても 食べ切れぬ (月路)

今朝は一段と寒くなりました。気温はさほどでもないのですが、寒気が致しました。風邪かな、これはいかんということで、みかん汁を温めて飲みます。これは効きます。冬みかんの効果はもっと宣伝されていいと思います。それはともかく、今日は年賀状を取りにいくのと、孫にお年玉を上げたい理由で帰郷いたします。明日の記事を投稿してから。

(身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

スッタニパータ425

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

425 ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つとめはげむこと――padhāna.主として精神的な努力精励をいう。ここにえがかれていることは、諸伝説と対照して考えると、成道以前のブッダが悪魔と戦ったことをいう。

425 ネーランジャラー河――ネーランジャラー(Nerañjarā)河はサンスクリットではナイランジャナ(Nairañjarā)河といい、漢訳仏典では「尼連禅河」などと音写されている。この河は現在パルグ(Phalgu)と呼ばれている。この河がブッダガヤーの近くを流れているが、ゴータマはそのほとりのウルヴェーラー(Uruvelā)で苦行を修したと伝えられている。これは現在のUrel村にその名を残している。
 
以上註記より引用した。

本年の最後を締めくくるに相応しい新しい節に入りました。精勤経と呼ばれるこのお経は前節の出家経に続くものです。出家したゴータマ菩薩(成道以前の釈尊)が端坐六年と呼ばれる坐禅に精励されていたころに、内面に悪魔が現われます。尼連禅河(にれんぜんが)のほとりにて安穏を得る目的で修行されていたのです。昨日にもありましたように、安穏を得るためには出離を実行する以外ありませんが、今日の解説にもありますように、精神的な努力精励が主でありました。努め励み専心することを後に「精進」と呼ぶようになるのですが、言葉のイメージが先行すると抹香臭くなるかもしれません。

精神的に進むことが本来の「精進」の意味です。精神的に成長するために努力するわけです。ところで現実にどうやって努力するかといえば、専ら坐禅しかないのです。当時、出家者の修行というのはヨーガ修行が中心でした。坐禅のスタイルはヨーガのそれと何ら変わりません。外観からすれば全く同様です。現代で言えば瞑想(Meditation)とかマインドフルネスと呼ばれている内容も古来からの言葉であらわせば坐禅であります。これは外観が坐っていて内面は禅定を楽しんでいるものです。禅定とは三学の一つに位置づけられていますが、それは時代が下ったあとでの便宜上の学問的分類に過ぎません。とまれ坐禅はその三学の全てをあらわすのに最も都合の良い言葉なわけです。中村元先生の訳では「瞑想していた」となっていますが原語はjhāyantamですから禅定もしくは坐禅していたというのが従来からの翻訳でありましょう。瞑想という語はmeditationと英訳されたものを和訳して瞑想としたものです。どちらでも元々は同じですが、現在は馬鹿みたいに区別しているようです。

最近では坐禅を英訳するとZAZENと出てまいります。カラオケと同じでそのままの音訳が一番正確でありましょう。Zen meditationでは、本来の意味が通じません。なぜなら禅という一字には何の意味もないからです。 jhāna, ジャーナを禅那と音訳したものと、意味を示す定(じょう)を合せて禅定としものです。禅宗も元は坐禅ばかりしている宗派を坐禅宗とし、後に坐を省略して禅宗と呼んだに過ぎません。こんなことは余計な知識が修行を妨げているために、一々取り上げて説明していますが、勘違いしてほしくないために老婆心でちょっと解説してみただけであります。どうか忘れてください。

蟠り 忘れたしとて 大晦日 (月路)

今日切に申し上げたいことの一点は、精励であります。ブッダがビンビサーラ王の帰依を受けたのは、王様に面と向って、「諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめ励むために進みましょう」と呼びかけたことです。こんなことを堂々と言えるのはブッダ以外におりません。乞食のような格好で修行している者が、華麗な出で立ちの王に、共に精進しましょうと話すのですから、王はいっぺんに惹かれたのです。仏法不思議、王法と対座す。誰が見ていようがいまいが、修行(坐禅)し続けているブッダの姿に、王は思わず合掌していたに違いありません。

全ての人々に今年最後に、この歌を贈ります。YELL。

ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

スッタニパータ417

第三 大いなる章

〈1.出家〉

417 使者のことばを聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は壮麗な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

クシャトリアというのはカースト制度における王族階級のことです。ゴータマ・ブッダもビンビサーラ王もともにクシャトリアでありました。日本で言えばさしずめ貴族と武士を合わせたような階級でありましょう。ここでは王のことを指してクシャトリアと呼んでいます。

さてもビンビサーラ王の決断は速く、使者の報告を受けるや直ちにゴータマに会いに行きました。君子たるもの会議に諮るべき事柄以外は、即断即決を宗とすべきであります。一国の主人がもたもたしているだけで、全てが停滞してしまいます。これを分かっていない者がトップにいるだけで大いなる損失を招きます。と、これはあくまでも私見ですが。

暖冬に なるとの説を 聞き流し (月路)

さて、昨日まで京都や福井で仕事をしておりました。僧侶の仕事は、法要・法事と法務あるいは檀務、作務などに分かれますが、大事な仕事は何と言っても修行であります。否、僧侶の仕事は全て修行とも言えます。

人の話を聞くのも修行であります。が、実にこれが一番根気のいる修行であります。人の話というものは、自分が聴いておるわけです。自分の観念で、あるいは見解で持って人の話を聞き、また話すわけですが、この時の顔の表情に時折自分でもびっくりするような反射神経が通います。

要するにそれは、怒りや愚痴や非難なのですが、こちらはどうやって対処したらよいか、本当に困ってしまうことがあります。その人は、「私の前では貴方の陰口を叩き、貴方の前では私の陰口を叩いている」と言うのです。悪口や陰口は、厳しく戒められているのにもかかわらず、自分は一切悪くないのであります。そのことばかりの話です。いい加減にしなさい。と、言ってあげればいいように思いますが、そう言えば決まって、あの人のかたを持つのかと反論されます。

困ったものです。あの人がああ言った。この人がこう言った。そういう目くじらを立ててばかりのひとに、どんな優しい言葉も届きません。聞こえません。聞く耳を持たんというわけであります。反面教師にすれば、と水を向けても、相変わらず相手が完全に悪く、自分は全くの正義、善人なのでありました。

そういう三日間を過ごしましたが、お寺に戻ってもそれは同様です。口に出すか出さないかは別として、人間は愚かだなあと、改めて強く感じました。かく言う私とて同じです。三毒で麻痺しているのかもしれません。そういう日常をスリッパ一つまっすぐにすることで、あるいは掃除片付けを徹底することが、わたしにとって今一番必要な心構えであると、あらためて、しみじみと思っています。

宮崎禅師様の言葉が今更ながら胸に突き刺さります。

坐禅ということは、真っ直ぐということや。体を真っ直ぐにしたら、心も真っ直ぐになる。自分が真っ直ぐになったならば、環境を真っ直ぐにしなくてはならない。そういう勇気が坐禅だ」 (「坐禅をすれば善き人となる」 石川昌孝著より引用)

使者のことばを聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は壮麗な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。

スッタニパータ386

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

386 修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
時ならぬのに――正午すぎをいう。午後に托鉢に出歩いてはならぬ、というのである。托鉢以外の所要で出歩くことは、南アジア諸国でも許されている。
 
定められたときに――午前中をいう。
 
ここで「諸々の目ざめた人々は……」(buddhā,複数)というが、その原語は「ブッダ」である。それは、過去・現在・未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、「夜間に外を出歩いてよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を考えていたのである。
仏教が最初に説かれたときには、後世の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。思慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この箇所の前後の関係から見ると、ブッダ(buddha)とビク(bhikkhu)とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。また求道者としての bodhisattva をブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。いわゆる〈仏教学〉なるものを捨ててかからなければ、『スッタニパータ』を理解することはできない。
 
以上註記より引用した。

今日のブッダの言葉に対する中村元先生の解説は、とても重要な暴露であり、仏教の本質に迫る箴言であります。まさにゴータマ・ブッダ(釈尊)本来の菩提薩埵(Bodhisattva)すなわち菩薩とは、如来となる前の段階ではなく求道者・修行者としてのブッダを指すのです。諸仏とは比丘のことであり、修行者であります。自灯明法灯明。自己を拠り所とし法を拠り所とする。帰依三宝とは、諸仏、諸法、僧伽の三つの宝を拠り所とするものですが、まさに求道者を尊敬し、これに習った生き方を求める真摯な姿勢であれということです。

ブッダを神格化するなということです。神のように尊崇するのは間違っている。中村先生は「後代の思想的所産なのである」と断定されています。穏健であられた先生が、研究者としての毅然とした態度で、既存の仏教学を捨ててかかれとまで言われました。そうでなければ、すなわち既存の仏教学に縛られていたままでは、最古層のスッタニパータを理解できないとまで言明されたのであります。

ブッダ釈尊は、自らを絶対視させませんでした。修行者一人ひとりが仏であります。生まれたばかりの仏もいれば、死んでいった仏もいます。宮崎禅師さまはかつて「若き仏たちへ」と題して、「坐禅をすれば善き人となる」と申されました。禅師様の結論でした。ブッダ釈尊とまったく同様に、仏となる成仏ではなく、修行に取り組んでいるものは既に誰もが仏であるという認識であります。そして修行仲間、同志の呼びかけとして「比丘」を使ったものです。今の日本の言葉では「友よ」といったところでしょう。菩薩とは人格を指す言葉ではなく「修行している状態」であります。

ですから、既存の仏教学を捨てなければ、知っている限りの懐古趣味に過ぎないわけです。現実の生活の中での仏教でなければ、それは伝統建造物や仏像鑑賞などの趣味ならばともかくも、未だに古代インドの風習を模倣した演技では、ドラマチック過ぎて、儀式・行事屋さんのようなものと言えば過言でしょうか。生活は一変しています。何も昔ながらの生活にこだわる必要はありません。現代には現代の生活があるでしょう。もちろん今後共見直さなければなりませんが、昔からのもので良いものは残していくべきだとは思いますが、托鉢や午前中だけの食事などにこだわる必要はないと思います。

そういう固定観念に囚われた生活面にこだわるよりも、坐禅を中心とした生活を続ける。坐禅に親しむことがブッダ釈尊の真意にかなっていると思います。真の仏教を実践された祖師方のことを私たちは「古仏」と慕います。なぜならば私たちもいずれは「古仏」となる「若き仏」なのであります。修証義の最後に「即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩(ぶっとん)を報ずるにてあらん。」とあります。本日はわたしの得度した記念日です。発心(ほっしん)、発菩提心(ほつぼだいしん)といいます。大恩に報いる道を歩き始めた「小さな旅」の始まりでした。

修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。

スッタニパータ385

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

385(師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持(たも)て。目的をめざす思慮ある人は、出家人にふさわしいそのふるまいを習い行え。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
目的をめざす――atthadassi(=hitānupassi)

思慮ある人――mutimā(=buddhimā)

以上註記より抜粋して引用した。

お待ちかねのブッダの回答が始まります。ブッダの答えは、ダンミカさんの「どのように行うのが善いのですか?」という質問に真正面から答えておられます。それは煩悩を除き去る修行法です。これは出家の修行僧の修行法として話されたものです。

僧(比丘)の修行法と在家者では修行の中身が異なります。これは当初からはっきりしています。ダンミカさんは在家者でありながら出家者と同様の修行を行うことができそうですが、確実に相違することがあります。それは托鉢(乞食)以外の所得を得ることができるということです。つまり生産活動なり財産による果実を得る方法があることでした。当時の比丘は、兼業や財産の所有ということは許されていません。それは現在の日本では考えられませんが、南方仏教を持ち出すまでもなく本来の出家とはそうしたものです。

修行法というと、滝に打たれたり、火で身体を焼いたり、不眠不休などを想像される方もおられるかもしれませんが、最初期の仏教ではそうした荒行などは一切示されておりません。毎日の普通の生活(行住坐臥)を淡々と行うだけです。じつは大小便や沐浴あるいは睡眠、食事などを正念と正知をもって行うことが主です。儀式的なものはほとんど無かったといって良いかと思います。説法を聞くとき以外は、ほとんど樹下で坐す、禅定ばかりの毎日であったのです。つまり托鉢や食事のとき以外は四六時中坐禅ばかりしていたのです。

在家者には伝統的な斎戒(ウポーサタ)などの儀式的なものがありますが、本来の比丘には儀式的なものはほとんど見られません。もちろん後世になって読経というものが伝承されていきますが、ブッダ在世時にはもちろん読経もありません。一通り教えられたら、それを日々実践する毎日であったのです。このスッタニパータひとつ取ってみても、膨大な数の教えが織り込まれているように錯覚しがちですが、ここまで見てまいりましたように、ごくごく限られた内容です。難しい教理などは後世の「まとめ」から編み出された解説です。それは結果的にわかりやすくなったかもしれませんが、教科書に対する参考書みたいなもので、学問的また趣味的に深めていくのには役立ちます。ところがそうしたものはほとんど理論です。論より証拠といいます。知識を深めるのが目的ではありません。理解をたすけるようで逆にその知識が邪魔になることもあります。

結局、八正道を守り、坐禅するのが仏教の全道であります。

それはヨーガ(ヨガ)と同じスタイルで、瞑想でもマインドフルネスでもいいのですが、その人きりの「手放し」、何か考えたら、もうそれは余計なことです。煩悩を除き去るには、徹底してやるだけです。何も考えない、とらわれない、握りしめない、追いかけない、偏らない、こだわらない。こうした言葉さえ全部忘れる。それが坐禅の姿です。坐禅というのが面白くないならヨガでも瞑想でもいいです。言葉はネーミングみたいなものです。何しろ「坐ってみませんか」

yoga

(師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持(たも)て。目的をめざす思慮ある人は、出家人にふさわしいそのふるまいを習い行え。