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スッタニパータ536

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは〈行いの具わった人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

▶行いの具わった人(実践者)とは、何を具えているのか。一般に円満具足といいます。また出家者は具足戒(大戒)を受けた比丘・比丘尼であります。何を充分に具えるのかが、今日のテーマです。まずもって実行です。教えが何のためにあるのかと言えば、それは教えを実践し、教えどおりに実行する以外ありません。それは頭ではわかっていても、何をどのように実践したらよいかわからない人に、釈尊は丁寧に具体的に示されています。ここまで学んでこられた方は、もうご存知でしょうが、念のために申し上げておきますと、具体的には坐禅だけなのです。こんなことを申し上げると、禅宗だからとか、我田引水のように思われるかもしれませんが、ブッダ釈尊は心を説かれたのです。それでご自身は何をされていたかといえば、もっぱら坐禅されていたわけです。心を鍛えるには坐禅だけなのです。具体的な実践は。この坐禅に、戒律の戒も、禅定の禅も、智慧の智も全部入っております。毎日同じように足を組み、手を組んで、ひたすら坐る。毎日この繰り返しなのですが、毎日違います。何をしていても一日中が坐禅であります。坐禅の中身は自分の心の中身であります。大小便のときも、食事を頂くときも、作務に汗を流すときも、買い物にいくときも、車に乗っていても、歩いていても、走っていても、腰掛けているときも、寝ているときも、行住坐臥。ことごとく坐禅のときと同じであります。人と話をしていても坐禅です。わかりやすい表現を使えば自然体ですね。無理がないのです。あっけらかんとしている。腹が立たない。泰然自若。虚心坦懐。何でもいいのですが、とにかく坐るということは、修行そのものであり、これが悟りであります。別にどうってことないのです。実践実行の証拠に過ぎません。有能ということは能が有ると書きます。能というのはあたうという本来の意味があります。われわれ人間にはもともと具わっているものがあります。それが仏性ということです。覚るべくして生まれておるのであります。すなわち覚醒ですね。眠っている仏性(仏種)を呼び覚ますのは、坐禅をするという行動であります。朝早く起きて、皆が寝ている間に、新聞を読んでいる間に、二度寝をしている間に、どこでもいいのです。自宅で、ベッドの上で、部屋の片隅でもいいです。できればお仏壇の前に坐って、線香を一本まっすぐに立てる。これで準備OKです。5分間でもよろしい。ただ坐ってみる。ごちゃごちゃ理屈をこねる前に実行です。誰も見とりゃせんのです。そんな朝早くから。寝る前でもいいです。とにかく一日に5分間だけ。仏になる。五分坐れば五分の立派な仏です。これで仏縁ができます。仏がほっとかん。こんな五月蝿い時代に、こんなにも清々すがすがしく坐っておるというだけで、有能ということです。能無しにならんでいただきたい。実行できる能力を確かに持っておられるわけですから。

常に理法を知れ

宣言しておきます。わたしが認知症になったら、それは坐禅をせなんだという証拠です。別に認知症患者のことを馬鹿にしておる訳ではありません。病気というのは死ぬまでに必ず罹ります。人間だれしも完全では無いということです。気の病というておるのではありません。実際に身体のあちこちが不全になるということです。これは仕方がないことです。また結構なことでもあります。みんな死んでいくのに自分だけいつまでたっても死ななんだら格好がつきません。それぐらいに思っておいて丁度ええのかもしれません。ええですか。理法というのは誰が何をほざこうが、すっくと在るのです。別に誰にへつらうこともしません。常にここに有ります。有時うじというのですが、この世は時で出来ておるのです。まあ、こんなことを申し上げると尚更わけがわからなくなりますから止めておきますが、一寸先は闇です。決してわからない。一寸前ならわかっておるようで、わかっちゃいない。単なる過去の認識に過ぎません。こんな過去に、取るに足らない過去にいつまでグチグチと拘っておるのかという馬鹿さ加減であります。エエカゲンにしなければなりません。今を生きる。この瞬間瞬間に命がある。それ以外には無い。明日は明日でがんばればいいのです。昨日のことは追憶にすぎません。そんなことにかかづらっていたのでは、埒が明きません。今しかない。これが坐禅の真骨頂です。常に理法を知るというのは、この世をなめてかかることではありません。ぎりぎりの瀬戸際であります。真面目しんめんぼくが一番です。わたくしの友は、軽く、坐禅でもしてみませんかと一回だけ、ぎりぎりの推奨をしたのですが、見事に続けて居られます。これには正直頭が下がります。前生因縁としか言いようがありません。生きた観音様であります。何が彼をそうさせたのか皆目見当がつきません。何しろ続けて居られます。

棚作り出来た尻から棚に上げ(月路)

奥さんが、よくご主人に棚を作ってとせがむ時があります。ご主人は、たいてい作り事が好きですから、喜んで普請にかかります。ホームセンターに行き、材料を仕入れて悪戦苦闘。出来栄えを心から喜んでいるのはご主人様です。奥様は涼しい顔です。「割りと速く出来たわね」ねぎらいの言葉と受け止めて、嬉しそうな顔をしているご主人を尻目に、早速出来上がった棚に片付けられない処分できないものが並んでいきます。困ったものです。本来は今までのままでも十分機能している収納箇所がまた一つ増えただけです。と、申し上げながら、わたしも棚を作っております。棚上げにした課題を山と積むために。

この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは〈行いの具わった人〉である。

スッタニパータ532

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人、──そのような人が、まさにその故に〈育ちの良い人〉と呼ばれるのである。」

そこで、遍歴行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに尊師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

一般に、生れ育ちの良い人というのは出自というか血統や家柄で言うことが多いのは今も昔も変わりません。当時はカーストなどの身分制度が厳格でしたから当然にその線で回答がなされると思われたことでしょう。ところが、ブッダは全く別の観点で理法を説かれました。今回の4つの質問に対する4つの回答のうち、今日のこの詩句はまとめでもあります。繰り返しになりますが、生れ育ち(家)を離れた人が、まさにその故に、生れ育ちの良い人、つまり高貴な人、選ばれし人であると説かれたのであります。

解脱するには

生れ育ちというのは、執著の根源である諸々の束縛ということです。これを象徴してと言っているわけです。外面的な家というのは、環境ということです。認識の対象といってもいいでしょう。内面的というのは感受と認識であります。これは今までさんざん学んできましたから繰り返しません。この束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人。すなわち解脱した人。出家するというのは、外も内も家という束縛から脱出することであります。執著というとらわれから脱するには、束縛を解くほかにありません。解き脱することから、解脱げだつと呼ばれております。解脱するには執著しないこと。それは束縛を断ち切り、束縛から脱することであると説かれているのであります。束縛からのがれることなくして、執著を離れることはまことに困難であります。まさにここを適確に突いておられます。

一番や花の名所は多けれど(月路)

あっという間に花が散りましたが、ここ西吉野のお寺の桜が一番です。昨日は高田までバーベキュー用のお肉を書いに出かけました。檀家さんの差し入れです。ありがたいことです。道道すっかり散り終わった桜。葉桜となった町々を抜けて、お寺に帰ってきました。吉野は見事でしたが、桜の木の多さからいえば世界一かもしれませんが、ここの枝垂れ桜は満開。我が家が一番。みんなそうでしょう。どこへ出かけていっても、帰ってくるところが一番落ち着きます。まるでお帰りなさいと言わんばかり。ただいま。だれに告げるというより、だれも聞いていませんが、只今。「ただ今」しかありません。お後がよろしいようで。

内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人、──そのような人が、まさにその故に〈育ちの良い人〉と呼ばれるのである。」

 

スッタニパータ495

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

愛執は愛著と同じで、とらわれて心が離れないことです。正法眼藏現成公案に「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」の一節が思い浮かびます。花は惜しまれて散っていく。草は嫌われても生えてくる。実に諸々の人々は愛する嫌うという観念にとらわれ執著しております。この執著は全て妄想からきておる。この妄想を離れることが、激流たる煩悩の河を渡る方法であります。我がものという、自分のものであると思っている自分に執著しない。自分が私がという主語主体を忘れる。何かに賢明に取り組んでいる時はそれこそ我を忘れてやっているものです。そういう無心無私に生きていく。余計なことを考えない。突き詰めれば、こだわらない、とらわれない、ことです。

拘らないことに拘る

ここは一つこだわらないことに少々こだわってみます。今日のテーマは「愛執」でありますから、愛というものにこだわってみます。愛という言葉自体に罪はないのですが、好いた惚れたとなると責任はぐっと重くなります。ところがこの段階では、この責任というものをまだ感じていない段階ですね。少年少女のような恋をイメージするとわかりやすいかもしれません。もう少し進むと寝ても覚めてもアバタもエクボ状態に陥ります。人間関係でいえば家族・友人・親戚・恋人なんでもいいんですが、特定の人を思い浮かべてください。すると愛というものの現実が見えてまいります。ほとんど純粋な愛というものはありません。自分が愛しているという事実です。この自分がというところが曲者です。このくせものは、勝手に純粋な愛だと押し付けておるわけです。これでややこしくなる。すべては己からなんですね。対象が問題ではありません。花も草にも罪はない。その罪のない花や草を手前勝手に好んだり嫌ったりしておるのが実態です。そんなことは云わなくても誰でも知っています。知っていながら気づかない。だから苦しんでいるという話です。愛することに執著しないこと。ここはしっかり押さえておきましょう。

大震災六年過ぎし供養する(月路)

未だ東北大震災の傷跡が深く残る中、震災関連死は昨年9月末で3,523名、内66歳以上が3,123名と88%を超えます。震災関連死と一口に申しましても様々な状況がありますが、とりわけ悲惨なのが子供に先立たれた方の苦しみです。今日はいわゆる3.11。当日ですから七回忌をお寺で執り行います。ここ遠く離れた場所から物故者の霊に供養いたします。先祖供養という言葉がありますが、そろそろ先亡(せんもう)供養と言い換えた方がいい時代にきています。このことはまた後日詳細に述べたいと存じます。

実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ490

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人──kevalin.完全に束縛を離れ解脱した人のことを、ジャイナ教ではkevalinと称する。仏典一般ではそういう呼称を用いることはないのであるが、ここでは例外的にジャイナ教と共通な呼称を用いていることから見ると、この詩を作った人はジャイナ教と共通な精神的雰囲気のうちに生活していたことを示す。或る場合には「なすべきことを完了した人」と解せられている。pariniṭṭhitakiccatāyakevali(Pj.p.427,ad Sn.519).

実に執著することなく

世間に暮らしていながら全てにおいて執著しないということは実に至難であります。否、至難というよりも殆んど不可能なことでしょう。これを実行している。世間のどのような眼に晒されていようとも、何事においても動揺することなく毅然と歩みを続けている。これは誰にもなかなか真似ができません。その真似をする。一日真似すれば一日の真似。二日しても三日しても、それは真似であります。ところが、それを一生やっておったらそれは本物や、と教えられています。

一生やる。そうした心がけ。志。具体的には「日常底(にちじょうてい)」に努力を重ねる以外にありません。普段の日常に不断の努力を行っていく。日常こそ修行であるとする所以であります。「修行というと何か特別なものがあると思っておる。そうではなくして、ふつうの毎日の勤め、毎日のなすべきことを黙ってやる。それ以外にないんだ。面倒だとか意味がないとか余計なことを考えておったら、それはみな妄想(もうぞう)や。妄想することが執著(しゅうじゃく)やね。何か考えたらそれは余計や。余計なものはさっさと捨てるほかない。久修練行(くしゅれんぎょう)。それが日常底でなければ仏祖が歩まれた道とは言わんのや」と。

無一物

久修練行とは久しく修行することです。修行という言葉はこの四字熟語が語源です。修行は英語でプラクティスと訳されています。突き詰めれば「日常が修行」ということです。修行に余計なものは何も持たない。だから無一物といえます。無所有ともいいます。人間本来無一物。何も持たない。何も握りしめているものはない。無執着が無一物であるわけです。これが修行の目的です。無一物になれば、無常が「常」となる、つまり解脱するということです。

翻って我々は、余計なものをいっぱい携えて歩んでいます。だから重たい。徳川家康は「重荷を背負いて遠き道を行くが如し」と結んでいますが、これが家康の人生を振り返ったときの実感であったのです。重荷ならば捨てればよろしい。重荷とは責任でありましょう。世間ではそれが常識です。当時トップの座にありながら組織や部下の責任がほとんどで自分は裁可の責任しかないと強弁した自称武士(もののふ)とは大違いです。重荷なら捨てればいい。プライドだとか意地だとか見栄とか、そんなものが重荷です。家康と、ある元知事とは似ても似つかない。重荷を果たした人と重荷から逃げる人。重荷の扱いがまるで逆です。他人事ではありません。誰もが、ある意味、ある元知事と同じなのです。

「仏道を歩む」とかんたんにいいますが、それは仏仏祖祖の道を歩むという重い責任があります。自己が自らの責任で無一物となることが他己の福田となるのだという責任です。重荷かもしれません。重い責任があるということです。できなければただの物乞い、我執です。無一物、かんたんなことではありませんが「捨ててこそ」。何を捨てるべきかは今更申すまでもありません。

自己を制した人

自制。これを完全に出来る人が「全き人」如来であります。宇宙人。全宇宙の尊き人です。めったにお目にかかれません。ですが、おられたのです。ブッダその人です。自己を制したものが全宇宙を制した人であります。己を制することができれば、それは我慢でもなく、辛抱でもありません。耐え忍ぶことが修行の中身です。あの人がこういった。そんな余計な小さなことで目くじらを立てているようでは自制には程遠い。こだわらない、とらわれない。無執着で無一物が自制の姿であります。

発心・修行・菩提・涅槃は仏道の四大要門とも言われています。けだし、正しい発心によって仏門に入り、戒律にしたがって修行し、仏祖の教えを究め解脱して、一切の苦を滅するというものです。今日だけというものではありません。仏門に入った以上は毎日毎時間が全て修行であり、修行以外にはありません。

桜植え紅葉を植えて腰掛けて(月路)

昨日は戴いたモミジの苗木を檀家さんといっしょに玄関先に植えました。寒椿、梅花、桜花、紫陽花エトセトラ、秋には紅葉と季節の彩りが豊かになってまいりました。落ち花もまた風情です。玄関横の階段に腰掛けながら、ちょっと一服。いいものです。ほんの御礼の気持ちでお寺から線香を差し上げました。線香投資。くだらんことを言っている場合ではありません。今日からは福井に戻って引っ越しの準備とか何やらいっぱいあります。ただいま午前三時半。さあ今日も坐禅にはじまり坐禅に終わる如常(日常)が始まりました。さあ、やるぞ。

実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ473

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
畑及び地所――苦しみの起る因縁、すなわち業と煩悩とをさしていう(後略)。

以上註記より抜粋して引用した。

執著を超えていて、執著をもたず。

執着も中途半端が一番良くありません。執着を持つなら徹底して持つべきであろうと思います。どのような仕事であっても執着なしにこれを遂行することは不可能です。人間は執着によって、すなわちコダワリによって成長するのです。これはもうはっきり申し上げておきます。このブログでは他の仏教ブログと大いに違います。それは骨を抜くのが目的ではないからです。欲望のない人など本来はいないのです。居たらそれは人間ではありません。よろしいでしょうか。格好つける必要はありません。欲望大いに結構です。ただそれが自分だけの欲望であるならばそんなものあっさり捨ててしまえと叫んでいるのです。執著について申し述べるとすれば、それは「お金」に尽きると思います。「お金」で苦労している人は半端ないほど沢山おられます。それがこの世の実態です。執著を考える時に「お金」ほどわかりやすいものはありません。執著を超えるには、自分の中のわがままを捨てる。もっとわかりやすくいえば「人のためにはたらく」ことであります。自分のためを捨てるということです。「無私」これなくして一歩も前へ進みません。「無我」というと抹香臭くていけません。それを言うなら「忘我」でしょう。我を忘れてはたらくことです。執着をいとも簡単に超えながら、しかも簡単に執著を持たない。自分に対する執著をもたないということです。

慢心にとらわれている者たちの中にあって慢心にとわれることなく。

自分が一番偉いなどと決して思わないことです。世の中は理屈ではありません。やったもの勝ちです。実行するかどうかです。ひとつ例え話をいたしましょう。昨日ある檀家さんから葬式費用の相談がありました。年金暮らしで、こども達には負担をかけたくない。どうしたら最低限のお葬式をできるでしょうか?といったご相談でありました。なんでも終活とやらで、葬儀社に事前に相談したら、百万円は最低かかる、家族葬でも軽く50万円はかかると断定されたそうです。

わたしは申し上げました。寺ですれば20万円で全部できますよ。お寺のお布施を含めて、と。棺桶などのお見送りセットは3万円もあれば十分です。ワゴン車があれば病院までご遺体を引取に行って、枕経をあげ、お寺でお通夜とお葬式をして、火葬場まで送るのは、住職と遺族の一人が協力すればかんたんにできます。火葬許可証も住職が代理人となって役所へ足を運べばいいのです。もっと簡単にも出来ますが、戒名含めて葬儀費用一式20万円は破格です。直葬ならいざしらず、それでも葬儀社を頼めば15万円を下ることはないでしょう。

こんなことを書くと、おそらく宗門からは弾き飛ばされるかもしれませんが、その時はその時です。わたしはお寺の価値というものがあるとすれば、お経を上げてお金を頂くのは大いに問題ありと思っていますから、檀家さんの、それも年老いた、年金暮らしで貯蓄も少ない人であっても、こころから良かったと思えるお葬式をあげて差し上げたいと心から思うのです。慢心と言われようが思われようが、これがこの道に入った人間の実感です。高尚なことはどうでもいいとはいいませんが、結局観念です。観念に惑わされることなく、その人の得道に寄与したいと願うのは、僧侶としての最低限の良識ではないでしょうか。その現実がお葬式であり、法事です。そんなものは必要ないと思っておられるのならともかく、お経の一つもあげてあげたいと思っておられる方の受け皿。地元のお寺ならではの出来ることではないでしょうか。

業と因縁

日本という国に生れて、日本の習俗に育ち、日本の伝統文化を大切にする人々にとって、合理的な考えはなじまないのです。不合理に見えても、親親から受け継いだDNAには、先祖さんを大事にすることは今の家族ひいては子孫の幸せを大事にする、大切に思うまごころが脈々と息づいています。田舎に参りまして、地域の人々の交流のなかで培われた伝統や習俗の重みをいやというほど味わいました。そうです。人々は純粋であり素朴なんです。難しいことなどどうでもいいのです。それはお坊さんの勉強であって、人々の「願い」とは遠くかけ離れたものです。業論はさておき、因縁論もさておいて、目の前の人々の安心こそが最優先であります。

苦しみを知り尽くす

自分の苦しみなんかはしれたものです。それより何より、人々の苦しみを知り尽くすことではないでしょうか。年金だけで細々と暮らしている健気な人々の不安と心配と問題と恐怖を少しでも和らげてあげること。坊さんのできることはそれぐらいのことです。てめえの自己満足で住職している場合ではないのです。仕事として、ど真剣に向きあい、ど真剣に考え、ど真剣に出来るだけの努力を行わなければ、罰が当たります。今日のブッダの声には、力強いメッセージが込められているように感じてなりませんでした。

何をいい何を言いたい分かる友(月路)

へたくそな文章ですが、一気に書きました。推敲なんかしてません。思ったまま感じたママを書きなぐりました。この燃えるような指先の感覚。ひさしぶりです。やっぱ友はあらかじめ布線を張っていたのです。この俺様が落ち込むのを。知っていてわざと泳がしました。意地の悪いことです。随分遠回りしましたが、やるっきゃないですね。これは。やっと自信が持てました。お寺でお葬式を。これがこれからの常識になります。いや、ならなきゃ嘘です。

執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

 

スッタニパータ469

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

469  偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく……――第四九四詩に同じ。ここに数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれと合致し、後代の小乗仏教の体系からは離れている。ジャイナ教では古来主な煩悩を怒り(koha=krodha)、慢(māṇa=māna)、いつわり(māyā)、貪り(lobha)を挙げるのが通例である(中略)。そうしてこの一組みは後代の文献にも継承されている(中略)。この四つは汚濁(煩悩 kasāya)と呼ばれている。修行者はこの四つを断じなければならないのである。なお第三二八詩参照。

以上註記より抜粋して引用した。

ではどうしたらこのように澄んだな水のような心に成れるのでしょうか。ここが今日のポイント(ブッダの声の透徹したところ)かと思います。後代に三毒と呼ばれまとめられることになる「貪瞋痴(とんじんち)」すなわち「貪り、怒り、愚かさ」は心の毒のようなものであると考えると、それはいつまで経っても消すことが出来ない煩悩ということになってしまいます。すなわち何かにすがって消してもらいたいと願う信仰に結びつき祈願に向うのです。

そうではなくして「わがものとして執著することなく」と述べられているように、我執に気づくことが基本です。我がものと思うからこそ、また自分というものにとらわれているからこそ全ての煩悩が生じるのであります。全ては空であると思い知ること。これが核です。本来は何も無い。五官によって感覚が生れ、自己中心的にものごとを捉えてしまっているのが現実です。あるがままを見ていないということです。自分勝手に悩んだり苦しんでいる、全ての原因です。この原因となっている考え方をあっさり手放してしまうことです。

そうしないと我執によって「怒り、慢、いつわり、貪り」の四つを断じることは永遠に為しえません。なぜ怒るのか腹が立つのか。なぜ驕り高ぶりが生じるのか。なぜ嘘をついたり騙してしまったりするのか。なぜに欲望が次から次へと生まれるのか。それは汚れて濁った水(汚濁水)だと分かってはいても、自分ではどうしようもできない。人間なんだから。そういう結論で片付けてしまいます。しかもその方がずっと楽ですし慰めになると本気で思っています。腹が立つのは全部人のせい、世の中のせい、だから戦わなければならないと真剣に憤っている。愚の骨頂です。

取り組むべきは空を知ることです。この世の現実は空であります。空を完全に自分のものにしたとき、一気に「偽りも、慢心も、貪欲も、欲望も、怒りも」全てが無くなります。そうした心が生じなくなります。生じませんから消す必要もありません。「心が静まり憂いという垢」も生じない澄み切った水のようになるのです。何を見ても何を言われても、たとえ棒で頭を叩かれようが鞭打たれようとも、穏やかな顔でおられるのです。腹が立たない。動じない。これが解脱の姿であります。蛇が皮を脱いでしまうようなもの。脱皮であり脱出です。自己からの解脱。無我ということです。

キリストも釈迦牟尼仏と成給う(月路)

昨日久しぶりに「ベン・ハー」を観ました。十字架を背負って丘に向って歩くキリストをローマの兵士が鞭打ちます。よろけながらも、地に倒れても、血だらけになって傷つきながらも、そのお顔は穏やかで澄んだ瞳をされていました。映画ではその顔を映し出しませんが、人々は驚くのです。そして悲しみます。ところがキリストは磔刑のまさに命終えんとするとき、静かに述べます。「父なる神よ、人々を許し給え。彼らは罪を知らないのです」と。

かれもまた人として生れた神であります。そしてわたしは「キリスト様もブッダである」とさえ思えました。数々の逸話はともかくも、わたくしというものが無い。超越とは超のつく能力なんかではありません。正に乗り超えたのです。人々の苦しみの原因がほんとうにわかっていたのです。それは空(くう)を知ったことに他ならないと思います。罪と表現しようが煩悩と呼ぼうが、それは文字の差程度のものです。言葉では表現できない「あるがまま」が空そのものであります。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ466

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

466  執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きている。そのような無私の人々にこそ供物をささげなさい。あなたが功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

今日は「功徳」ということを掘り下げてみたいと思います。功徳は利益という意味です。世間での利益も仏教での御利益も同じ利益です。利益(りえき)というと儲かった結果のようで、利益(りやく)というと何やら有難く感じますが、漢字としては全く同じです。じつはその内容も中身そのものも全く同じであります。

ビジネスで考えて「売上-仕入れ=利益」という簡単な式に当てはめれば、「善行ーおかげ=利益」となります。商売であれ一般的な仕事であれ、それが世の中で正しいことであれば、熱心に精をだして働けば必ず結果が出ます。その結果である売上から協力業者からの仕入れや人件費などの経費を差し引いたものが純利益でありましょう。精進して修行に励めば、戴いたものを差し引いても利益があるわけです。何も変わりありません。道理に適った法則、つまり理法であります。

功徳も功を為して徳を得ることですから、その結果は利益です。これは当然であり必然です。何の不思議もありません。世の中の仕事はすべからくこの道理にかなっているかどうかが問われます。精進なくして得られる利益、功徳というものは全くございません。当り前です。すなわち欲望が先ではないのです。まず自分が「何を為すか」が最初であり全てであります。努力に努力を重ねて今日があります。そこに他の人々の協力や支援があります。その結果のジャッジが利益であると申し上げたいと存じます。

儲けようと思ってやるようでは商売はうまくいきません。「利益=売上ー経費」と考えるか「売上ー経費=利益」と考えるかどうかです。数学では全く同じですが、利益を先に考えてやるようでは、おそらく一時的でありましょう。長続きはしないと思います。目的を利益にするか、結果を利益と呼ぶかの違いです。

今日のブッダの声も最初に「執著することなくして」と始まります。功徳(利益)を求めて、ではありません。執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きていく。見返り報酬を期待してかかるようでは、大したことは出来ません。世間の仕事も言い換えればほとんどが修業であります。多くの熟達した職業人は例外なく「一生修業」といいます。修業も修行も変わりありません。毎日毎日休むことなく本気で働いている人々は、みんな功徳を積んでいるのであり、みんな利益を上げているのであります。ことさら特別扱いすることではありません。

何がため修行をなすや六地蔵(月路)

昨日はお寺の総代さんの家の法事でした。観音経は比較的に長いお経ですが、最初はゆっくりと重々しく始まります。そして徐々にスピードが増していき、最後の方の偈文ではハイスピードで突っ走ります。お唱えする声にも熱が帯びてきて終いにはものすごく熱くなります。声のトーンは同じですが、終わってジーンとくるものがあります。法話では「利益」の話をさせていただきました。車中で株の話を聞いていましたので、また総代さんの会社の壮大さを拝見しましたので、とっさに用意していた話を代えて、利益も御利益も同じだという話を致しました。最後に生前にこそ戒名をご夫婦そろって頂きましょう。仏門に入ることですと結びました。

何の為に。何を為すか。功徳のためか。利益のためか。それとも、人々や社会のためか。自分のためか。家族のためか。何をするのか。何をやればいいのか。何がしたいのか。何を成し遂げたいのか。そういう根っこの部分を掘り下げてしっかりと腰を据えて坐りましょう。腹の坐った人。梵天ならぬ凡天丸もかく在りたい。

凡天丸

執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ436

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
嫌悪――原文にはaratiとあるが、パーリ原典協会のパーリ語辞典の解釈に従う。註にはadhikusalesu dhammesu arati=abhiratiと解す。

第四の軍隊としての「妄執」(taṇhā)の原語はもともと渇を意味するが、ここでは第三の軍隊を「飢渇」(khuppipāsā)と呼んでいるから、taṇhāと「渇」(pipāsā)とは別の概念である。taṇhāは人間存在の奥にある意識下の、衝動的なものであるが、pipāsāは生理的な概念である。

以上註記より抜粋して引用した。

つぎの詩句では、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、見せかけ・強情、さらには利得・名声・尊敬・名誉、また自己を褒め讃え他人を軽蔑すること、と続きます。これらはナムチの軍勢であると喝破されるのであります。いかがでしょうか。なにも言えません。人間に巣食う本質にみごとに迫っています。これはブッダが発見されたものではありません。だれにでもある人間性ですし、ブッダ自身のなかに存在していたものです。それを明確にされた。よく勘違いしてしまう態度に、自分はそうではない、人々がそうだという奢りがだれにでもあるものです。その部分が一番大事で、哲学的に本質を見定めることが目的ではありません。現実に、これらの軍勢を打ち破らなければ、解脱など遠い夢のような話で自分には全く関係ないことになってしまいます。

まず今日は、第一から第四の軍勢を肝に銘じておきたいものです。欲望が第一です。全ては欲望に帰一します。全部自己の欲望から派生したものばかりです。だれでも自分が一番大事です。それを一言でいってしまえば、「欲望」なのです。この欲望をしっかり見つめることから始めたいものです。ついで嫌悪。自分が可愛いゆえの嫌悪、人の欠点が見えてしまう、嫌だと思うことです。これについては他人の悪口をいうのが証拠でしょう。胸が痛みます。さらに飢渇。飢えと渇き。腹が減った、喉がかわいた。なんでもないことのようですが、食べ物、飲み物によって自分の身体が出来ています。口にするものが人間を維持しているのですが、これに貪欲であるとどうなるか。結果は歴然としております。少欲知足。足るを知らなければ、大変なことが待っています。ときには断食をすることも必要かもしれません。そして妄執。妄想と執著。この大軍勢は難敵です。この妄執が生え抜きの精鋭部隊ですから、ここまでであっさりと陥落してしまいます。

餅が割れ 鏡開きぞ 何しとる (月路)

正月もはや半ば。時は急流。もろい筏にのって竿をさしておりますと、転覆どころか筏ごとバラバラになってしまいそうです。年末にやり残したことを、まあいいやとそのままにしておいたつけが、いつやってくるかとハラハラしながら目移りばかり。困ったものです。何かに集中していると、これは後でいいや、放おっておこうと思い、事実そのままにしておく。悪い性格が最近もろに出ています。反省と謝罪。どこかの国のようですが、これも欲望ですね。第一の軍勢だけで充分です。わたしを倒すのは。今日はここまで、また明日。

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

スッタニパータ364

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

364 かれが、生存を構成する要素のうちに堅固な実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘(ひ)かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
生存を構成する要素――註にしたがって解した(中略)。これが迷いの生存への再生をひき起すのである。
 
執著されるもの――右の生存を構成する諸要素をいう(後略)。

以上註記より抜粋して引用した。

大変わかりにくい文章かと思いますが、後代の仏教では「無我」と説明しています。「生存を構成する要素」とは般若心経にも出てくる五蘊皆空の「五蘊」のことです。すなわち色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊です。なおさら訳がわからなくなりますよね。わかりやすくいえば私たち人間の感覚や認識などの頭脳のはたらき、機能のことです。これらの要素に堅固な実体を見いだせない。つまり全部「」(くう)である。さっぱり訳がわからないと思いますが、現実のありとあらゆるものは、じつは頭でそう捉えているだけで、実体は空っぽで確かなものは何もないようなものだ、というぐらいに考えていただければよいかと思います。パソコンやスマホから現実に音や映像が流れてきても、電気がなければ何もないのと同じといえば宜しいでしょうか。

そういう不確かなものを後生大事にしていては、本質を見失ってしまいます。なぜならばそれらが執著の対象となるものばかりだからです。色形、感覚、考察、意思、認識などに過ぎないのだから、それにこだわり、とらわれてはならない。欲望を制御しなさい。言動を慎みなさいと科学的に論理的に説かれています。

ここでのポイントはずばり「他人に誘かれない」というくだりです。誘惑や誘導にごまかされてはいけないとの警告です。これは陥りやすい罠です。気をつけましょう。甘い声やうまい話に乗らないことはもちろん、気づかない内に、いつのまにか勧誘されてしまっていたりするものです。本質を見極めることは至難のわざです。一度心をリセットして、再起動してみましょう。パソコンと同じで、われに帰ることもあります。

かれが、生存を構成する要素のうちに堅固な実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘(ひ)かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータ363

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

363 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

「チャイム鳴り 玄関に出でたり ハロウィン児」 今日がハロウィンの日らしいのですが、昔はこんな風習はなかったので、一日早い昨晩の近所の子どもたちの来訪には、正直おどろきました。まるでキョンシー(古い?)じゃないかと笑ってしまいました。親子二組猫一匹のお客様、土曜日の夜とあってか遅くまで賑やかにしてくれました。

昼は昼で苦情とも励ましともつかぬ年配の女性からの手紙。気になって、こちらから電話。黙って話を聴き続けましたが、何も返答できませんでした。

今朝、本詩を声に出してお唱えさせていただきました。響きますね。やはり看経(かんきん)ではなしに読誦(どくじゅ)が宜しいかと存じます。この毎日一句を書き写す、読誦することも私にとっては修行の一つです。自分の声なんですが、ブッダの声に聞こえます。不思議なものです。それはともかく、何が響くかといえば、もちろん「好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて・・・・・・」の冒頭のフレーズです。ほんとに素晴らしい中村先生の訳だと思います。日本人の感性というのでしょうか、風土にピッタリする気がいたします。

本詩は三段階で構成されています。まず愛憎を捨てること。そうすると執著や拘りが少なくなってくる。次第に束縛から離脱していく。目的は解脱。身心脱落。身も心も脱ぎ落とす。道元禅師さまは「もぬける」と仰っておられますが、身心から脱げ落ちるのではありません。それでは奈落の底に落ちるようなもの。もっと積極的に、身についたシガラミを脱ぎ、心にこびりついた執着や拘りを落とす、脱ぎ落とす。解脱を大解脱地と称されているのも何となく見えてくるように思います。

やはり坐禅が効きます。今朝も寒いのですが、毛布を体に巻きつけて坐っております。よく座禅と書かれておりますが、これは場所を示す名詞表現です。古来より禅宗では坐るという動詞を使って坐禅と書きます。どちらでも構いませんが、お坊さんは坐禅と書かないと笑われることがあります。坐禅は行動ですから。・・・念のため。

好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。