タグ別アーカイブ: 太陽の末裔

スッタニパータ540

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者よ。聖者の道の奥をきわめた人よ。心にすさみなき、太陽の末裔まつえいよ。あなたはやさしい方です。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

「聖者」は、原語ではmuni(ムニ)とあります。釈迦牟尼佛の牟尼です。辞書には『聖者,仙人,修行者,隠棲者の意。通俗語源解釈によって「沈黙を守る人」と解されていた。仏教においては特に釈尊の称として用いる。』とあります。

聖者の道の奥を極めたとありますが、第五三七詩にある得べきものを得た人と同様に、修行者の目的を果たしたということです。修行者が何を目指すべきなのかを知り、その目指すところに達したということです。ここは、さっと読み進めてしまいそうですが、大変重要なことをサラリと述べておられます。第五一五詩を今一度読んでみましょう。温和な人とは「平静であり物事に動じない」ことであります。聖者の道の奥、このことを漢訳仏教では「玄」と訳しました。深淵な道理とは、文字に表せば簡単なことばですが、温和であることほど奥が深く、達しにくいものはありません。たとえ自身が殺されそうになったとしても平静であり動じないことが貫けるでしょうか。

原語ではsoratosi(温和な人・優しい人)になるのが仏教修行者の目的です。道の奥を極めるというのは、徹底して優しい人になることです。仏教は慈悲の教えと言っても過言ではありません。その目的を果たすために修行をするのです。どのように修行をすればいいかは既に説かれています。あとは実行だけです。

太陽の末裔については第四二三詩を参照して下さい。全てを照らし暖かく育てる大いなる父、大いなる母の嫡流であると釈尊は自認されました。まことに有難きことです。まことに尊敬に値する人であります。その証拠に私たちの中にも、この法の血が流れております。ご先祖様のお陰であります。この法(教え)にめぐり合えたのですから。

雨の中集金に行く坊主かな(月路)

坊さんが集金とは変に思われるかもしれませんが、護持会と申しまして、檀家さんの会の年会費を遠方の方のみお寺で集金に伺っているものです。今日は朝から雨が降り出し午後は本降りになりました。行く先々で深く感謝されます。集金に行って感謝されるというのはあまり無いのかもしれません。有り難いことです。

あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者よ。聖者の道の奥をきわめた人よ。心にすさみなき、太陽の末裔まつえいよ。あなたはやさしい方です。

スッタニパータ423

第三 大いなる章

〈1.出家〉

423 姓に関しては〈太陽の裔(すえ)〉といい、種族に関しては〈シャカ族〉(釈迦族)といいます。王さまよ。わたくしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
みずから「太陽の裔」と称していたのであるから、ここには太陽崇拝の痕跡が認められる。中世のインドの王家には、太陽の末裔と称する王家と、月の末裔と称する王家とがあった。
 
以上註記より引用した。

太陽の末裔というのはインド神話からきたもので、ゴータマという姓が神話のリシという聖賢の子孫だという極めて難解な話になりますから、ここではそういう学問的な話は脇において、釈迦族の王家の出身だと名乗ったということでいいでしょう。なお、日本には八百万の神々の神話がありますように、インドにも古来より数多の神々が伝承されています。太陽の末裔釈迦族、日本では天照大神の子孫が皇室と呼ばれているようなものです。

問題はその後です。その王家から出家したというのです。何不自由なく育ったが出家した。王位の継承者であったが出家した。王家では大変困るであろうが出家した。欲望を叶えるためではありませんと、きっぱり断言しています。これにはビンビサーラ王の方でカウンターパンチを食らったようなものでしょう。人には欲望がある。それは願望であったり希望であったり、はたまた熱望かもしれません。目的とか目標とか言葉は違っても、煎じ詰めれば全てが欲望といえば欲望であります。そうした世間一般の欲望から全て離れたのです。地位や名誉、財産を得ること、あるいは王位継承者としての権利義務の一切を捨てたわけです。

家族をも捨てた。世間から見れば最低です。普通は許されるものではありません。出家というのは命惜しさに出家するのならやむを得ないとされていますが、何かに失敗して責任をとって出家することもあったでしょうが、自分から何の問題もないのに出家するというのは、ただごとではありません。普通は考えられないことでありましょう。この時代には仏教がまだ成立していないわけですから、前例がほとんどなかったのではないでしょうか。後代にはブッダ釈尊の志を継承して、インドや中国の王族でも、日本の天皇家や貴族でも出家されていますが、当時バラモン階級以外の者が出家することは大きなタブーであったのです。

家いでて 帰ることなき 年の暮(月路)

ここはビンビサーラ王ならずとも次の言葉を待たざるを得ません。なにゆえ欲望を叶えるという人生の一大事をあっさり放棄したのか。王位を蹴ってでも求めたものは何なのか。それほど大事なことがあるのか。興味津々であります。欲望をかなえるためでないなら、いったい何があるというのだ。修行して何になる。そもそも出家とは何なのか。疑問がふくらみます。ああわからない。はやく言ってくれ。王はそう感じたに違いありません。なぜなら、出家する者の気持ちは出家しようと決めた者でなければ決して理解できないからであります。理屈では幾らでも納得もするでしょうが、評論家であれば見事に言葉で説明できるかもしれませんが、実際に出家した者から聞く言葉は、ともあれ実に単純なものでありました。

姓に関しては〈太陽の裔〉といい、種族に関しては〈シャカ族〉(釈迦族)といいます。王さまよ。わたくしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。

スッタニパータ178

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

178 今日われわれは美しい[太陽]を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え、煩悩の汚(けが)れのなくなった<覚った人>にわれらは見(まみ)えたからである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
美しく晴れた朝に逢い――suppabhatam(=Skrt.suprabhatam).今日でもインド人は、朝、人に会うと、「お早うございます」'good morning!'という場合に、'suprabhatam'と呼びかける。ただしこの呼びかけは西洋の'good morning!'に対応するものとして新たにつくられたのだといわれる。
煩悩の汚れのなくなった――anasava.
ここでは古来行われている太陽崇拝を受けている。それが仏教に受容され、日本の日蓮宗に至るまで生きているのである。以上註より

ブッダはまた「太陽の末裔(すえ)」とされる仏典の記述があります。また此岸から激流を渡りきった対岸である彼岸にたどり着いた「善逝」とも呼ばれます(如来十号の一)。煩悩の汚れが無くなった人を「覚者」と定義しています。いずれにしても人間としての完成者というより、人間らしさを全て脱ぎ捨てた存在といった方が正しいような気がします。人間としての完成者は神と呼ばれ、人間を超越した者は仏と呼ばれるのかもしれません。

一般に煩悩が無くなることはありません。煩悩によって汚れることがなくなるのであります。たとえば人を愛おしく思うことや動物を可愛いと思うこと、花を見て綺麗だと思うことは煩悩でありますが、それだけで心が汚れることはありません。一瞬だからです。それをいつまでもグチグチとクヨクヨと思うことが煩悩による汚れと申せましょう。一瞬一瞬に思い切ると言い換えても同じであります。

今日われわれは美しい[太陽]を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え、煩悩の汚れのなくなった<覚った人>にわれらは見えたからである。