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スッタニパータ548

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

わたくしが聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人とともにアングッタラーパ〔という地方〕を遍歴して、アーパナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。結髪の行者ぎょうじゃケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である〈道の人〉ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいとともに、アングッタラーパを遍歴して、アーパナに達した。そのゴータマさまには、次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いをそなえた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調ととのえる御者ぎょしゃ・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。かれは、みずからさとり、体得して、神々・悪魔・梵天ぼんてんを含むこの世界や〈道の人〉・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。かれは、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人にまみえるのは幸せ、みごとな善いことだ。」

そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶あいさつのことばをかわしたのち、かれは傍らに坐した。そこで傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向って言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」師は沈黙によって承諾しょうだくされた。

そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座からって、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩ほうばい・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。わたしのことばをお聞きなさい。わたしは〈道の人〉ゴータマを修行僧の方々とともに、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かしてわたしに手伝ってください。」

結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、かれに答えて、或る者はかまどあなを掘り、或る者はまきを割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶みずがめを備えつけ、或る者は座席を設けた。また結髪の行者ケーニヤはみずから(白いとばりれた)円い集会場をしつらえた。

ところでそのときセーラ・バラモンはアーパナに住んでいたが、かれは三ヴェーダの奥義おくぎに達し、語彙ごい論・活用論・音韻論おんいんろん・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。そのとき結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。

ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者はかまどの坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席をもうけ、また結髪の行者ケーニヤはみずから円い集会場をしつらえているのを見た。見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? あるいは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀さいしが近く行われるのですか? あるいはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招待されたのですか?」

「セーラよ。わたくしには息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招かれているのでもありません。そうではなくて、わたくしは近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人とともにアーパナに達しました。そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いをそなえた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調ととのえる御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。わたくしはあのかたを修行僧らとともに明日の食事に招きました。」

「ケーニヤさん。あなたはかれを〈目ざめた人〉(ブッダ)と呼ぶのか?」
「セーラさん。わたくしはかれを〈目ざめた人〉と呼びます。」
「ケーニヤさん。あなたはかれを〈目ざめた人〉と呼ぶのか?」
「セーラさん。わたくしはかれを〈目ざめた人〉と呼びます。」

そのときセーラ・バラモンは心に思った。「〈目ざめた人〉という語を聞くことは、世間においてはむずかしいのである。ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つのみちがあるのみで、その他の途はありえない。〔第一に〕もしもかれが在家ざいけの生活を営むならば、かれは転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわちかれには輪という宝・象という宝・馬という宝・たまという宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。またかれには千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。かれは、四海の果てに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。〔第二に〕しかしながら、もしもかれが家から出て出家者となるならば、真の人・さとりを開いた人となり、世間における諸々の煩悩ぼんのうおおいをとり除く」と。

「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」

かれがこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」

そこでセーラ・バラモンは三百人の少年とともに師のおられるところに赴いた。そのときセーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、「きみたちは(いそがすに)小股こまたに歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のようにひとり歩む者であり、近づきがたいからです。そうしてわたしが〈道の人〉ゴータマと話しているときに、きみたちは途中でことばをさしはさんではならない。きみたちはわたしの話が終るのを待て。」

さてセーラ・バラモンは尊き師のおられるところに赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交したのち、かれは傍らに坐した。それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の〈偉人のそう〉があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んどそなわっているのを見た。ただ二つの〈偉人の相〉に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑いまどい、(〈目ざめた人(ブッダ)〉)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所かくしどころ広長舌相こうちょうぜつそうとである。

そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。

そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通じんづう示現じげんした。次に師は舌を出し、舌で両耳孔りょうじこうを上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前のひたいを一面に舌で撫でた。

そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかしわたしは、『かれがブッダであるかいなか』ということをまだ知らない。ただわたしは、年よわい高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の〈尊敬さるべき人、完全なさとりを開いた人〉は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。さあ、わたしは、適当な詩を以て、〈道の人〉ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──

548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金おうごんの色があり、歯はきわめて白い。あなたは精力ある人です。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
セーラ――この教えはそのままの形で中部九二経に出ている。なおこれと類似した経が『増一阿含経』第四六、四七巻(大正蔵、二巻、七九八頁以下)に出ている。最後の散文は「蛇の章」の第四「田を耕すバーラドヴァージャ」及び第六の「サビヤ」の末尾の文と同じ形式である。

アングッタラーパ――Añguttarāpa.註によると Añgā+Uttara+āpa と解する。河水すなわちMahī 河の北方のアンガ地方の意味であるという。
真の人……――以下に挙げる一〇の語は、如来の十号といわれる。

さとり――abhiññā(=abhiññāya)(Pj.p.444).

体得し――sacchikatvā ti paccakkhaṃ katvā(Pj.p.444).

庵――assama.叙事詩では仙人の住家とされている(tāpasādhyusitaṃ ramyaṃ dadarsāsramamaṇḍalam.Nala Ⅻ,64)。

友人……――註は特殊な解釈を施している(mittāmacce ti mitte ca kammakare ca,nātisālohite ti samānalohite ekayoni-sambandhe puttadhitādayo avasesabandhave ca.Pj.)。しかしここでは amacca はインド一般の意味に解した。

三ヴェーダ――『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』をいう。バラモン教の最上の聖典である。

語彙……――註にしたがって解した(nighaṇḍu ti nāmanighaṇḍu-rukkhādinaṃ vevacanappakāsakaṃ satthaṃ,ketubhan ti kiriyākappavikappo kavinam upakaraya satthaṃ,……akkharappabhedo ti sikkhā ca nirutti ca.Pj.p.447)。

アタルヴァ・ヴェーダ――壤災・呪法に関する句を集めた聖典。古くはヴェーダとしての権威を認められなかったが、後に第四のヴェーダとしての位置が与えられるようになった。

史詩――itihāsa.叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』がその代表的なものである。

順世論――註釈は詭弁説の意に解す(lokāyata=vitaṇḍavādasattha.Pj.)。しかし後世のインドでローカーヤタというときには唯物論を意味する。

かの師は――この節の始めのところに同様の文句が出ている。

転輪王――cakkavatti.古代インドで、全世界を統一すると考えられた理想的な帝王。

548 以下は『テーラ・ガーター』第八一八-八四一詩にも出ている(岩波文庫『仏弟子のの告白』一六五頁以下)。

※以上註記より引用しました。

このセーラ経は、釈尊が本当にブッダ(仏陀)であることを当寺の国教であったバラモン教の聖典に基いて確かめるというスタイルを摂っています。それは三十二相といわれるものです。一般に三十二相八十種好さんじゅうにそうはちじっしごうと呼ばれています。仏像の外観はそれに準じて造られています。リンクを開いてその概要を見ておいてください。

また如来の十号は、如来にょらい応供おうぐ正遍知しょうへんち明行足みょうぎょうそく善逝ぜんせい世間解せけんげ無上士むじょうし調御丈夫じょうごじょうぶ天人師てんにんし仏世尊ぶつせそんです。仏像などの開眼供養(点限作法)などでお唱えすることが多いので暗唱するとよいでしょう。それぞれの意味も十号のリンクを開いてみておいてください。

さらに『諸々の〈尊敬さるべき人、完全なさとりを開いた人〉は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』という言い伝えによって、これから仏陀(目覚めた人・完全なさとりを開いた人)を讃嘆していきます。すると示現されるというのです。その姿が現れ示されるということです。

このお経は、後世の仏語やお経の元となった多くの逸話が入っています。転輪王(転輪聖王てんりんじょうおう)と成るか、あるいは仏陀と成るかは、釈尊が生れたときの賢者の予言としても伝えられています。今から考えるとほとんどお伽噺のように思われるかもしれませんが、何故にこのように伝えられたかということを考えてみてください。日本においても天皇や公家をはじめ多くの貴人が出家されています。また生れが貧困な家庭であっても出家する者は多かったのです。当寺1,250名もの弟子と共にブッダは実在されました。この事実は、かつての中国でも日本でも再現されています。ブッダの弟子には上下関係がありません。それぞれ友と呼び合います。サンガ(僧伽)においては、ブッダでさえ弟子には「友よ」と呼びかけておられます。もちろんブッダに対しては「師」と呼びました。

ブッダのすがた

毎回、自分からみた合掌の画像を挟んでおります。「合掌はブッダのすがた」というキャプションを入れています。今ブッダのお姿を拝むことはできません。しかしながら、いつでもブッダにお会いすることができます。ブッダの説かれた教えを実行することがブッダにまみえる唯一の方法です。このお経は、2,500年前に説かれた内容です。1,250人のバラモン(修行僧)の数も事実です。その事実を合掌して静かに坐りますと、その当時に忽ちにして居れます。時空を超えて、つねにブッダと共に在ることが自覚できます。三宝の御加護がここにあります。

部屋冷えて外に出たれば夏日かな(月路)

朝は寒かったのですが、今日は夏日になるそうです。さてと、今日は外作務です。まずは草むしり。それからゴミ出しエトセトラ。フランス大統領はマクロン氏で決まり。韓国の大統領もほぼ決まりでしょう。ほとんど関係のない話ですが、集まった支持者の数をみながら、1,250人というのは、すごい数だと思いました。1,250人の共同生活って?食べるだけでも大変なことです。はたして可能でしょうか。うーん。

「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金おうごんの色があり、歯はきわめて白い。あなたは精力ある人です。

スッタニパータ489

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〈まさに施与を受けるにふさわしい人々〉のことをわたしに説いてください。先生!」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

先生、施しの求めに応ずる在家の施主が、この世で他人に飲食物を与えるに当り、施与を受けるに相応しい人々のことを私に説いて下さい。福徳を求め福徳を目指して供物をささげるために。

日本語的に適当に並べ替えると意味がすっと入ってきます。ようするに「施与を受けるに相応しい人々」のことを質問しているのですが、ブッダの回答の言葉を受けて反復しながら質問しているので少々わかりにくいのかもしれません。

施与を受けるに相応しい人々

次の詩から合計で14詩句でもってブッダが回答します。例によって末尾に繰り返されるリフレインの言葉は「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば」です。質問に適確に回答しています。答えをはぐらかしていません。施与を受けるに相応しい人(応供)とはどのような人なのかを答え、そのような人に適宜供物を捧げなさい。在家のあなたが功徳を求めて 祈るのであれば、と繰り返し説くのでありました。

これはブッダ釈尊(如来)の十号の一つである「応供」について述べられた原典です。人類と生物(衆生)にとって飲み物と食べ物(飲食)は欠くことができませんし共通のものです。十号の筆頭は「如来」ですが次に「応供」が続きます。この順番も大事ですのであらためて列記しておきます。私たち曹洞宗の僧侶は色々な儀式でお唱えするので暗誦しております。

  1. 如来(にょらい、tathāgata)
  2. 応供(おうぐ、arhat)
  3. 正遍知(しょうへんち、samyak-saṃbuddha)
  4. 明行足(みょうぎょうそく、vidyācaraṇa-saṃpanna)
  5. 善逝(ぜんせい、sugata)
  6. 世間解(せけんげ、loka-vid)
  7. 無上士(むじょうし、anuttra)
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ、puruṣa-damya-sārathi)
  9. 天人師(てんにんし、śāstā-deva-manuṣyāṇām)
  10. 仏世尊(ぶつせそん、buddho-bhagavān)

十号は続けてお唱えしますが8番目の調御丈夫のところで調御と丈夫の間にわずかな間を取って唱えるとリズミカルに覚えられます。これは一度聞けばその感覚はずっと残って忘れません。これが引っかかってきたら認知のうえで症状が出てきたものと思うようにしています。一日に一度はお唱えしたいものです。それこそ毎日食事を頂くようなものであります。

最も重要な持ち物

世間では変な話ですが、私たち僧侶のお葬儀において、弟子や遺族親類縁者寺院関係者が遷化された(亡くなった)亡僧の遺品を持って霊龕(棺桶)の前で円になって右回りするのですが、このとき後継者たる弟子の筆頭は裸足で師匠の生前に使われていた「応量器」を持ちます。三衣一鉢の鉢、すなわち食器です。お袈裟ではありません。このことが何を意味するかは説明を要しません。中でも頭鉢(ずはつ)というのは自分の頭蓋骨と同じです。本来は鉄鉢ですが中国や日本では漆塗りです。この頭鉢には口を付けることも許されません。匙で頂きます。

食べなくなったり飲めなくなったら死が近い。現在では点滴がありますから、回復することもあります。普通の老衰はわかりやすいのです。縁起でもないと思われるかもしれませんが、死を思えば生がわかる。生きていくというのは食べることに等しい。生存欲というのは飲みたい、食べたいに尽きます。与えられたもので慎ましく頂く。暴飲暴食はもっての他ですが、今日の声は「有り難きこと」でありました。

啓蟄や心の虫も蠕いて『月路』

昨日は横断溝の掃除をしました。十年以上も行っていなかったのか土砂がみっちり詰まっておりました。土建屋さんに成りきって工事?しておりました。法事でお寺に見えた方が「お寺きれいに成りましたね」と励ましてくださいました。嫌味で申されたのかもしれませんが、素直に嬉しくなって「とんでもございません」と恐縮するところなんざ我ながら呆れたものです。今日はモミジを玄関前に植える予定です。明日からは雨らしいので丁度いいかもしれません。ともかく外作務はお腹が空きます。まさに健康器具にはもってこいなのでありました。

マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〈まさに施与を受けるにふさわしい人々〉のことをわたしに説いてください。先生!」

スッタニパータ346

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

346 われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが全く亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ヴァンギーサさんのブッダに対する懇請が続きます。ここで疑惑は疑団とも読み取れます。こころにわだかまっている疑い、疑問を解決したいと願うのが修行者の真摯な態度であります。彼のもっとも知りたいことは、全く亡くなったかどうか、その一点でありました。一般的な生を全うしたという意味ではありません。全き死というのは解脱し完全な涅槃に入ることを指します。二度と母胎に宿らない、すなわち不生を完了したということです。

これは誰にもわからないはずです。何しろ亡くなったのですから確かめようとてない話です。質問自体が適切さを欠くでしょう。ここが哲学とは違うところでありまして、宗教的な匂いがするかもしれません。ところがブッダ釈尊は見事にその疑問を解き明かしてくれるのです。ブッダに誤魔化しはありません。誰もが納得できる言葉で明瞭に完璧にお答えになるのです。今は信じられないかもしれませんが、それこそ疑ってかかっていいのですが、あなたご自身が質問していると仮定して、試しにブッダの代わりに回答してみてください。さて何と答えられますか?

智慧豊かな人、あまねく見る人、この上ない人よ、と最上の敬意をもって懇請するのですが、如来十号の原型がここに見て取れます。この尊称は決して大袈裟なものではなく儀礼ではないのです。正にこのような形容に値する人物であった。だからこその尊称であり質問であることを確認しておきたいと存じます。

さて今日は、わたしの発願(ほつがん)の日であります。昨年の今日、このブログを始めようと決意しました。そして二週間後の10月27日より第一日目をアップしたのです。まもなく一年経とうとしています。あの頃と今は全く違う生活を送っています。マイクロサンガを毎日更新するということは、毎日欠かさず日記を書くということでもありました。そんなことが出来るとは思っていなかった。続けられたのは友の厳しくも優しい眼があったからです。毎日二人だけが見て下さいました。ここに改めて厚く御礼申し上げます。こうなったら命の続くかぎり続けます。

われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが全く亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

スッタニパータ162

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

162 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
煩悩の汚れ――第八二詩に対する註参照。
明知(vijja)があり、行いが全く清らかである(samsuddhacarana)ということから、後には、仏は「明行足」(vijjacarana-sampanna)であるとされて、それが仏の十号の一つとなった。
以上註より

明知とは、はっきりと知ることです。はっきりと知っていて、清らかな行為を行っている人のことを「明行足」(みょうぎょうそく)と呼びます。ブッダの別名であります。如来十号の一つであり、もっともわかりやすいブッダの別名であります。

また本詩では、煩悩の汚れの消滅ということを説いています。煩悩は誰にでもありそれに心が汚れている状態であるのが普通ですが、その汚れを消滅しているというのです。大変分かりやすい表現かと思います。修業によって煩悩は消えませんが、煩悩による心の汚れはきれいに掃除できるのです。あたかも誇りやチリは積もりますが、雑巾やタオル一つでピッカピカになるようなものであります。

さらに「もはや再び世に生まれるということがない」という再誕しないことが確認されます。ブッダが再び世に出現することはないのです。自分はブッダの生まれ変わりだという人は、ブッダと認めていないことになり、自己矛盾していることが明白であります。いずれそのような邪教は自ら崩壊していきますから、何も心配いらないのですが、今現在囚われている方々が気の毒で仕方がありません。とにかくブッダは二度と母胎に戻ることがないのです。生まれ変わらないのです。これを不生と呼びます。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」

 

スッタニパータ155

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

155 七岳という神霊は答えた、「このように立派なかれ(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制せられている。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

安立(あんりゅう)とは、安心立命の境地のことで仏教語では「あんじんりゅうめい」あるいは「あんじんりゅうみょう」と読みます。いかなるときも他のものに心を動かさないことでしょう。ですから他の生きものは安心して近づくことができます。害する心がないということであります。これは大変重要な心構えですが訓練しないと保てません。相手の動き相手の所作、色形、臭い、声や音などに一々反応しないということです。安立とはまさに文字どおり木のようにそこに立っている姿勢であります。過剰な反応とは正反対にあるこころの安定した、ゆるがない心を安立と呼びます。

意欲を制するとは、敵愾心をもたないことであります。これは言うに易く行うに難しの最たるものといえましょう。人はだれでも自分を守る心が強くそれゆえに本能的に自分以外のものに対して警戒し、自分以外のものから過剰に防衛しがちなのであります。争おうとする意気込みともいえます。これを制する、制御するものこそ真の勇者なのであります。

自らが望ましいとか好ましいとか思っている対象であれ、その反対のものに対してであれ同様に向き合う姿勢と態度が優れていること。これを調御丈夫ともいいます。ブッダの十号(如来十号)の一つに数えられております。

七岳という神霊は答えた、「このように立派なかれ(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制せられている。」

スッタニパータ83

第一 蛇の章

<5、チュンダ>

83 鍛冶工(かじこう)のチュンダがいった、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、わたくしはおたずねします。──世間にはどれだけの修行者がいますか? どうぞお説きください。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
チュンダは釈尊並びに弟子たちを招待し得たのであるから富裕な人であったにちがいない。しかしインドのカースト社会においては、鍛冶工や金属細工人は賤しい職業と見なされ、蔑視されていた。その招待を釈尊は受けいれたのである。ここにわれわれは二つの注目すべき歴史的特徴を認めることができる。(1)当時漸く富裕となりつつあったが、社会的に蔑視されていた人々は、新しい精神的な指導者を求めていた。(2)ゴータマ・ブッダの動きは当時のこの階級的差別打破の要求に応えたものであった。以上註より
ブッダを讃える尊称として10種の称号(十号)があります。すなわち如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師世尊であります。