タグ別アーカイブ: 妄想

スッタニパータ562

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

562(セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。まなこある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大なたけき人である。あたかも、獅子ししが林の中でえるようなものである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

獅子吼ししく」については何度かこのブログでも取り上げてきましたが、これほど明瞭に獅子吼について説かれているのは本詩が最初でありましょう。後世の仏典の典拠がここにもあります。

この詩句での重要なポイントは二点あります。その第一点は「眼ある人」第二点は「矢を断った人」です。順をおって確認しておきましょう。

まず眼とは何かということです。両眼でないことは明らかです。これを心眼と解すると途端に迷路に入ってしまいます。訳がわからなくなります。そうではなくして、正法眼蔵のことです。本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味するとされています。道元禅師様の著作のタイトルに使われた禅家の心印でもありますが、ここでの眼は本来の正法眼蔵の意であります。簡単にいうと眼とは一番大事なことです。眼ある人とは、じつに一番肝心なことを知っている人ということ、つまり真理を知っている人ということです。

次の「矢を断った人」は決して忘れてはならないほど大事な話です。ここは目を皿のようにしてしっかりと聞いて下さい。煩悩の本質です。悪魔の正体です。今日このブログを見逃した人は、一生知らないで後悔することになります。さっと読み飛ばしてしまうほど愚かなことはありません。よろしいでしょうか。このことを知っていれば、清らかな境地に一歩も二歩も近づきます。

矢のように瞬時に刺さる煩悩

結論から申しますと、脳の働きの最も大きな部分です。現代的にいえば、そうなります。誰にでも脳はあります。様々な身体の働きを制御している中枢です。その脳の働きの中で、悪魔、敵ともいえる攻撃神経が実際に存在します。それは瞬間瞬間に間断なく襲ってくる神経回路です。これを抽象的に欲望とか妄想とか執著とか傲慢さとか勝手に名付けていますが、これは一言でいえば、矢なのです。自分を煽ったり、傷つけたり、落ち込ませたり、喜怒哀楽の元凶であります。この得体の知れない実際に沸き起こる感情を「煩悩」と呼んだだけなのです。

この矢は普通、断つことは出来ません。寝ている最中にも攻撃してきますから、夜熟睡できないのです。夜に熟睡できないでいるとどうなるか。これは科学的にも証明されていますが、認知症の原因物質が脳から排出しにくくなるのです。よろしいでしょうか。認知症になりたくなければ、この矢を断つ努力が必要です。

ブッダは単に結跏趺坐して瞑想していたわけではありません。何も考えないというのは、半端な努力じゃないのです。頭に降りかかる火の粉を払うがごとく、何も考えない時間を日課とする必要があるのです。よく坐禅を始めた人がいう科白ですが「色んなことが頭に浮かんできまして、中々無念無想とはまいりません」。当り前です。正常な人は先程申し上げた「攻撃神経」に気づくはずです。矢でも鉄砲でもいいんですが、それこそ矢継ぎ早にやってくる「煩悩」の火を消すしかないのです。

消し方は、ただ一つです。呼吸に意識を向けるだけです。一息一息しかないことがお分り頂けましたか。この火を妄想と呼ぶのが一番実態に近いでしょう。全て頭に浮かんでくることは、妄想と決めつけて良いのです。妄想なんですから。攻撃神経という悪魔の放った矢を片っ端から断つ。これが坐禅の実際です。昨日坐禅を始めた人も悟りを得た高僧も、やっていることは全く同じです。これ以外ありません。やるかやらないかだけです。寝ている場合じゃないのです。

(セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。まなこある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大なたけき人である。あたかも、獅子ししが林の中でえるようなものである。

 

スッタニパータ516

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

どうしたら比丘は自制できるか。サビヤさんの三番目の質問に対して、ブッダは感覚器官を修養しなさいと言われています。この感覚というのは、外面的な五官により内面的な五感がもたらされるので、そこに意識を向けて修行しなさい、それが心の修養つまり心構えであり、現実的な対応だということです。もっと簡単にいうと、目や耳に入ってくる情報に好き嫌いの感情が生じます。これは好ましいとか好ましくないとか、あるいは快・不快といった気持ちのことです。この気持ちを冷静に観察するのです。すると「好き」が貪欲となり「嫌い」が怒りにつながっていく様子がはっきりします。また「どうでもいい」と無関心でいると虚無に陥ります。ではどうしたら良いかといえば、ここが修養、修行の要ですが、黙って「全て妄想」であると気づくことです。感覚に実態はないというしっかりした心構えがなければ、そのまま感情に流されていきます。その感情の激流に流され溺れれる前に、激流を渡るのです。どのように渡るか。空を知ることです。色即是空。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、臭覚、味覚、触覚の感覚の全ては空であり、それによって思うことは全て妄想であり、実態のないものであり、とらわれるものではないという真理を実行するのです。今までに学んだ仏法が現実の生活の中で活かされなければ、ただのお話です。他人事です。いつまで経っても自分事になりません。を積極的に意識する。それは虚無ではありません。キーワードは色即是空。それが般若の智慧です。般若心経のなかの中心です。

身を修めて

このを身体で知り覚えるのが坐禅です。いつも背筋を伸ばしている。これは無意識になるまで訓練が必要です。姿勢や態度に気を付けていると、余計なことを思わず考えずにおれます。妄想が少なくなるのです。道元禅師が著した「普勧坐禅儀」を読むとよく分かるのですが、徹底して姿勢に注意することが事細かに述べられています。坐禅中に無心になるにはどのようにすれば良いかではありません。もうそういうレベルは超えましょう。ただただきちんと坐る。正身端坐といいますが、まさに身を正す以外無いのです。何か考えたらそれは余計なこと。妄想しそうになったら背筋を伸ばすのであります。これは道場以外の場所でもすぐに出来ます。首筋に意識を向けることです。なんにも考えないということは、身体の芯が真っすぐにならないと実現できません。そういうのが心構えです。この世とかあの世とか、そういうものも離れて、身を修める。きちんとするということです。

片付ける物の置き場を片付ける(月路)

整理整頓。これが私の今日的課題です。物がやたらと多いことに、引っ越しの際に嫌というほど気付かされました。困ったものです。土木工事に掛かる前に建築工事ということで、道具類を片付ける物置場を作ることにしました。友の倉庫を見た時にきちんと整理されているなあと思いましたし、とにかく勝手口が道具だらけで通行不能に近くなってきました。ここからやらねばと思っています。

どうもわたしは一言も二言も多い。これは昨日の総会でも自身で気づきました。あとから考えれば云わなくてもいいことまで、ついつい説明のために言ってしまう。自分の嫌いな部分です。これも観念なんですが、ここはいい年になったんだから少しは是正しなきゃならんと思っています。ただし若いうちは自分が正しいと思ったことは言うべきだと思います。またどんどん思う存分行動すべしといいたい。胸のうちにしまって、言いたいことを封鎖していると、どこかで暴発します。そういう怖さを感じます。引きこもりが相変わらず多いそうです。引きこもって何もしていないのが一番怖い。せめて遊びに行ってほしい。そんな風に思いました。

全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

スッタニパータ490

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人──kevalin.完全に束縛を離れ解脱した人のことを、ジャイナ教ではkevalinと称する。仏典一般ではそういう呼称を用いることはないのであるが、ここでは例外的にジャイナ教と共通な呼称を用いていることから見ると、この詩を作った人はジャイナ教と共通な精神的雰囲気のうちに生活していたことを示す。或る場合には「なすべきことを完了した人」と解せられている。pariniṭṭhitakiccatāyakevali(Pj.p.427,ad Sn.519).

実に執著することなく

世間に暮らしていながら全てにおいて執著しないということは実に至難であります。否、至難というよりも殆んど不可能なことでしょう。これを実行している。世間のどのような眼に晒されていようとも、何事においても動揺することなく毅然と歩みを続けている。これは誰にもなかなか真似ができません。その真似をする。一日真似すれば一日の真似。二日しても三日しても、それは真似であります。ところが、それを一生やっておったらそれは本物や、と教えられています。

一生やる。そうした心がけ。志。具体的には「日常底(にちじょうてい)」に努力を重ねる以外にありません。普段の日常に不断の努力を行っていく。日常こそ修行であるとする所以であります。「修行というと何か特別なものがあると思っておる。そうではなくして、ふつうの毎日の勤め、毎日のなすべきことを黙ってやる。それ以外にないんだ。面倒だとか意味がないとか余計なことを考えておったら、それはみな妄想(もうぞう)や。妄想することが執著(しゅうじゃく)やね。何か考えたらそれは余計や。余計なものはさっさと捨てるほかない。久修練行(くしゅれんぎょう)。それが日常底でなければ仏祖が歩まれた道とは言わんのや」と。

無一物

久修練行とは久しく修行することです。修行という言葉はこの四字熟語が語源です。修行は英語でプラクティスと訳されています。突き詰めれば「日常が修行」ということです。修行に余計なものは何も持たない。だから無一物といえます。無所有ともいいます。人間本来無一物。何も持たない。何も握りしめているものはない。無執着が無一物であるわけです。これが修行の目的です。無一物になれば、無常が「常」となる、つまり解脱するということです。

翻って我々は、余計なものをいっぱい携えて歩んでいます。だから重たい。徳川家康は「重荷を背負いて遠き道を行くが如し」と結んでいますが、これが家康の人生を振り返ったときの実感であったのです。重荷ならば捨てればよろしい。重荷とは責任でありましょう。世間ではそれが常識です。当時トップの座にありながら組織や部下の責任がほとんどで自分は裁可の責任しかないと強弁した自称武士(もののふ)とは大違いです。重荷なら捨てればいい。プライドだとか意地だとか見栄とか、そんなものが重荷です。家康と、ある元知事とは似ても似つかない。重荷を果たした人と重荷から逃げる人。重荷の扱いがまるで逆です。他人事ではありません。誰もが、ある意味、ある元知事と同じなのです。

「仏道を歩む」とかんたんにいいますが、それは仏仏祖祖の道を歩むという重い責任があります。自己が自らの責任で無一物となることが他己の福田となるのだという責任です。重荷かもしれません。重い責任があるということです。できなければただの物乞い、我執です。無一物、かんたんなことではありませんが「捨ててこそ」。何を捨てるべきかは今更申すまでもありません。

自己を制した人

自制。これを完全に出来る人が「全き人」如来であります。宇宙人。全宇宙の尊き人です。めったにお目にかかれません。ですが、おられたのです。ブッダその人です。自己を制したものが全宇宙を制した人であります。己を制することができれば、それは我慢でもなく、辛抱でもありません。耐え忍ぶことが修行の中身です。あの人がこういった。そんな余計な小さなことで目くじらを立てているようでは自制には程遠い。こだわらない、とらわれない。無執着で無一物が自制の姿であります。

発心・修行・菩提・涅槃は仏道の四大要門とも言われています。けだし、正しい発心によって仏門に入り、戒律にしたがって修行し、仏祖の教えを究め解脱して、一切の苦を滅するというものです。今日だけというものではありません。仏門に入った以上は毎日毎時間が全て修行であり、修行以外にはありません。

桜植え紅葉を植えて腰掛けて(月路)

昨日は戴いたモミジの苗木を檀家さんといっしょに玄関先に植えました。寒椿、梅花、桜花、紫陽花エトセトラ、秋には紅葉と季節の彩りが豊かになってまいりました。落ち花もまた風情です。玄関横の階段に腰掛けながら、ちょっと一服。いいものです。ほんの御礼の気持ちでお寺から線香を差し上げました。線香投資。くだらんことを言っている場合ではありません。今日からは福井に戻って引っ越しの準備とか何やらいっぱいあります。ただいま午前三時半。さあ今日も坐禅にはじまり坐禅に終わる如常(日常)が始まりました。さあ、やるぞ。

実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ442

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダ釈尊が坐禅している周りに旗を翻した悪魔の軍勢が取り囲みます。悪魔の総大将ナムチが王の象徴である象にまたがり勝ち誇るようにして陣触れを発します。最後の総攻撃が開始されました。

「立ち迎えて彼らと戦おう」とありますが、ここでは実際に立ち上がって戦うのではありません。一歩も退かないという意味であり決してその場を動かないという不動の決意であります。

降魔成道とは実際に何をしたのか?

降魔成道といわれるように成道に降魔という言葉がついています。この降魔は文字通り悪魔を降したという意味ですが、文献によれば触地印あるいは降魔印といって右手を地面につけている像がたくさん残っておりまして、その降魔の様子が克明に描かれています。わたしの家の仏壇にも降魔成道の釈尊像を祀ってあります。この触地印(そくちいん)ですが、なぜ地面に触れているのかが、長い間疑問でありました。いわく悪魔よ地獄に戻れ、地にひれ伏せよ、あるいは大地の神を出現させといった解説もされるのですが、いずれも神話的であり、どこか釈然としませんでした。

決してこの場を離れない不動心

その答えが「私をこの場所から退けることなかれ」という言葉でありました。結跏趺坐しながら左手を上に向け、右手を地面に触れているのは正しくこの場を退かない、すなわち誘惑に負けないことを指し示しているのではないでしょうか。やってみるとわかりますが、この釈尊の教えが身体で再現されるのです。坐禅の最中にも、ありとあらゆる妄想が襲ってまいります。その妄想を断ち切るべく、たまには触地印をいたします。神秘的ではありますが、そのとき、すっと妄想から抜け出すことができます。密教の不動明王(お不動様)はこの降魔成道の説話から象徴的に祀られていったとする説もあります。不動尊とも無動尊とも呼ばれる所以かと存じます。さりながら……

言葉の観念だけでは理解できない

仏教を学ぶにつれ、だんだんと仏教概念が頭のなかに張り付いてまいります。さまざまな仏教知識が知らず知らずのうちに思想を展開していきます。何もそれを全否定するわけではありませんが、言葉による観念で空腹を満たしていると、すぐに飽きてきたり、どこかに真理が埋もれているような気がして探し求めるようになります。答えはどこにも見つかりません。それでも師を求め、あるいは道を求めています。ところが簡単な実践を行うだけで、言葉では言い表せないような発見があるものです。やってみること。やり続けること。やり遂げること。坐禅は釈尊の成道の姿であることは申すまでもありません。

二十二年 正月中旬 かの地震 (月路)

今日は1月17日、阪神淡路大地震より22年経ちました。生まれた赤ちゃんが22歳。わたしが40歳のときのことでした。妻はもう起きていました。二階で寝ていたわたしは、あまりの衝撃に家が壊れるのではないかと、火は大丈夫かととっさに階下へよろけながら降りていきました。

地震。家が縦に揺さぶられるようでした。家族は全員無事。200キロ以上も離れた場所で震度5、震度7というのは想像を絶します。高速道路が倒れ、ビルが倒れ、火災が発生。すさまじい映像に息を飲みました。あれから22年。あれから22年が過ぎました。しみじみ、速いものです。

地震になれば誰もがじっとしてはいません。じっとしては居れないでしょう。地面が動くのですから。地響きを上げて怒涛のごとく攻めてくるナムチ軍にブッダは静かに右手を地面に触れました。その時に大地が裂けるような地震が起きたのでしょう。その大地震によって、すべてのナムチ軍が地割れの中に落ちていくなか、ただ一人、ブッダは坐禅したまま動きませんでした。動揺しなかったのです。

軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

 

スッタニパータ209

第一 蛇の章
<12、聖者>

209 平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
平安の境地------santipadam
終極------anta
妄想------takka.あれこれ思慮する思い。
迷える者の部類に赴かない------註に従って解した。(後略)
以上註より引用した。

では平安の境地というものは、どういうものであるかの説明が、生を滅ぼし尽くした終極という表現です。少しわかりにくいかもしれませんが、二度と生まれて来ないために、今生を最後の人生にするために、徹底して煩悩を滅ぼす、つまり次から次へとわき起こる煩悩を片っ端から無視して、一切とらわれない姿勢を貫くことであります。

煩悩を滅ぼし尽くす方法は、明確です。煩悩の起こる基礎である妄想と執著をしっかり観察することです。煩悩の種や煩悩の芽を育てないことであります。何が種や芽になるのかをわきまえ知っていることが必要です。

敵を知り己を知らば百戦して危うからずと申します。煩悩との戦いは自己の内にある煩悩を知ることが先であり全てであります。人の煩悩はいざ知らず、我が煩悩は何であるかをきっちりと知ることであります。

煩悩の種は妄想です。そこから執著という芽が出てまいります。ですから徹底して妄想を刻々と振りはらい捨てること、そして芽生えてしまった執著を取り除くこと、決してその芽を育てないことであります。

煩悩の別名が迷いと呼ばれています。迷いが悩みとなり苦しみの海に溺れるようになります。溺れてからでは遅いのですから、癌の早期発見みたいなもので、妄想の段階でそれと気づく心の習慣が大事ではないでしょうか。

聖者の修行とは、実に妄想を妄想と気づくことから始まります。どのようなことをしている時でも妄想の軍隊は矢継ぎ早に攻撃してまいります。その大軍を迎え撃つ静かな姿勢が坐禅とか瞑想と呼ばれております。

平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

スッタニパータ101

第一 蛇の章

<6、破  滅>

101 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
昨日は「うそをついてだます」ことについて述べました。明日は第六の破滅についてです。その前に、もう一度嘘について考察してみます。世の中は契約社会であり、契約は約束のことで、約束とは未来に生じる結果をあらかじめ予測し、互いの信義に基づいて、誠実にこれを守る取り決めといえます。
ところが、未来のことは誰にもわからないという事実に対する挑戦でもあるわけです。インド社会ならずとも、このような取り決めには、おのずと不履行を招く可能性があります。そこでこの不履行に対して違約条項や担保責任といったことも同時に約束しています。もし約束を破った場合には、このようにすると。しかしこれも未来における完全な担保となるわけではありません。
19歳の少年が養親である60歳代の夫婦を殺害した容疑で逮捕されました。これは最近の事件です。ご存知の方は多いと思いますが、わたしたちはこれをニュースで知って何故にと訝りますが、殺害したという事実を受け止められずに何故殺したのかという事情の方を詮索したがる傾向にあります。人それぞれに生まれてから今日までの体験・経験は全て違うという事実に対する挑戦でもあるわけです。事実に対する挑戦は、いたるところで平然と行われています。

うそをつくことは、愚かさからです。ひとをころすことは、怒りからです。おろかさといかりは猛毒中の猛毒です。仏教ではむさぼりとともに三毒と呼ばれています。これを普通の感覚で受け止めていては、大変な事実誤認につながります。なぜなら世間人間の問題はすべてこの三毒によるものであるからです。どうぞ確かめてみてください。核実験もミサイル発射も拉致問題も虐待も約束不履行も、ありとあらゆる問題がこの三毒によるものなのであるか否かを。

「破滅への門は何ですか?」と真摯に問いかけて下さい。ブッダは事実だけに光を当ててこれに応えられます。これが真実と呼ばれるものです。あとは全て妄想です。同情さえも感傷さえも感動であっても全て妄想です。意味がないことを考えたり思ったりすることは全て妄想であり、妄想を常に意識してこれを離れる。逆に、事実に注目して無常(ものごとは常に移り変わる)を常に意識して、今自らがなすべきことをなす。淡々と目の前のことをこなしていけば、なにも不安がないことをしっかりと伝えていきたいと存じます。