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スッタニパータ232

第二 小なる章

<1,宝>

232 またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
究極の境地を見た人――ditthapada.「究極の境地」をただ「足跡」「境地」(pada)と呼んでいるだけで、特殊な限定をつけない。

以上註より引用した。

ブッダの教えを素直に実践して四果を得た人々のことを聖者と呼びます。究極の境地を見た人々、つまり聖者はブッダ以外にも多数存在したことを示しています。

悪い行為というのは、身体だけでなく言葉によっても心の中であっても、悪行であります。法律に反する犯罪だけが悪い行為ではありません。そのことは誰でも分かっていますが、悪事は必ず露見します。隠すことは不可能なのであります。悪を作りながら悪ではないと思い悪の報い(露見など)がないと思っていても、悪事を隠し通すことは決してできないのであります。因果の道理は歴然としており、少しの歪みもありません。

その真理を聖者たちは実際に見たというのであります。究極の境地とは、真理を実際に体験した者だけが見えるものでしょう。悪を為すものは堕ち、善を修めるものは昇るという根本的な摂理が原因結果の法則すなわち「因果の道理」であり真理の一つであります。本詩はまさに善悪の報(報い)は業報(ごっぽう)の理と呼ばれ三時(すぐに、あるいは近い将来や未来に受ける報い)に現れてくることを説かれたものであります。

この宝は集い(サンガ)の内に在るというのは、サンガの一員として修行すればこの真理を必ず知り得ることになります。修行の最初にこの真理を習うからであります。信じようと信じまいとこの真理は不変の理であり、この因果応報ほど非情なものはありません。まことに容赦なくある日突然襲ってまいります。これが報いであると知っているものは聖者以外にいません。聖者でないものが軽々しく「これは何かの報い」だと思うのは勘違いも甚だしいのであります。場合によっては現在の法律でも名誉毀損として罰せられるかもしれません。聖者のみがそれを見れる(知れる)ということだけを記憶しておいてください。

またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

スッタニパータ231

第二 小なる章

<1,宝>

231 〔ⅰ〕自身を実在とみなす見解と〔ⅱ〕疑いと〔ⅲ〕外面的な戒律・誓いという三つのことがらが少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。かれは四つの悪い場所から離れ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
三つのことがら――ここに挙げられた三つは十結(samyojanani)のうちの最初の三つである。それらは聖者(預流向以上)では消え失せる。

四つの悪い場所――原語 catu apaya は「四悪趣」と漢訳される。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅をいう。普通は「地獄・餓鬼・畜生」を三悪道という。ただし註釈から見ると、ここでは四悪道を認めていたのではなくて、三悪道という境地と、そのほかに阿修羅という特殊な生存者の身体を認めていたのである。

六つの重罪――cha abhithanani.母を殺し、父を殺し、阿羅漢を殺し、仏の身体から血を出し、僧団の和合を破り、異教徒の教えに従うこと(annasattharuddesa-kamma)をいう。第六のものは、原語から見ると、「他の師の教示を実行すること」である。だからゴータマ・ブッダ以外の師につくことを戒めているのである。

以上註より抜粋して引用した。

とは、仏教において、衆生輪廻に縛り付ける「束縛」としての煩悩のこととされています。これには、五下分結と五上分結の分類があり、これを合わせて十結と呼びます。

五下分結・三結

衆生を欲界(下分)へと縛り付ける結を、五下分結ごげぶんけつと呼ぶ。

  1. 有身見うしんけん – 五蘊自己とみなす見解
  2.  – 疑い
  3. 戒禁取かいごんしゅ – 誤った戒律・禁制への執着
  4. 貪欲とんよく– 五欲に対する欲望・執着
  5. 瞋恚しんに – 怒り

この5つを絶つことで、不還果へと到達できる。

この5つの内、1-3の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において絶たれるとされています。

五上分結

衆生を色界無色界(上分)へと縛り付ける結を、五上分結ごじょうぶんけつと呼ぶ。

  1. 色貪しきとん色界に対する欲望・執着
  2. 無色貪むしきとん – 無色界に対する欲望・執着
  3. まん – 慢心
  4. 掉挙じょうこ– (色界・無色界における)心の浮動
  5. 無明むみょう – 根本の無知

この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できるとされています。(以上ウィキペディアより引用しました)

これは「経・律・論」の中の論(アビダンマ)―論蔵(阿毘達磨)の分類法でありますから、いわば仏教論(仏教学)として後世に説かれたものであります。ここにも仏典が変遷を辿った足跡を窺い知ることができます。

本詩が示している内容は、まずもって人間が自己を知覚している物質的感覚や精神的な認識を実在しているものとする見解にこだわらないことであります。つまり無我(非我とも)の教えを信じて、疑うことをせず、他の見解(教え)にとらわれないことです。そういう信念が出来上がったならば、よもや地獄などの悪道に落ちることはなく、重罪を犯すことはなくなります。何も心配いりません、安心してくださいと言っているのです。

率直な感想としまして、原語を日本語に翻訳(吟味した直訳)したものは、現代人には大変読みづらいものになる見本のようなお経であると思います。ここはさらっと読み流していいと思います。あまり一字一句に拘ることのことの方が、偏見を増長してしまうのではないかと危惧しております。今日は話を変えて、昨日NHKで放送されたマインドフルネス(ビバッサナー瞑想)観瞑想の紹介を引用させて頂きます。

マインドフルネスとは「今の瞬間」の現実に気づきを向け(気をつけ)、その現実をあるがままに知覚し、それに対する思考や感情にとらわれないでいる心の持ち方です。

最初は、10~15分を目安に始めます。

(1)背筋を伸ばして、両肩を結ぶ線がまっすぐになるように座り、目を閉じる
脚を組んでも、正座でも、椅子に座っても良いです。「背筋が伸びてその他の体の力は抜けている」楽な姿勢を見つけて下さい。

(2)呼吸をあるがままに感じる
呼吸をコントロールしないで、身体がそうしたいようにさせます。
そして呼吸に伴ってお腹や胸がふくらんだり縮んだりする感覚に注意を向け、その感覚の変化を気づきが追いかけていくようにします。
例えば、お腹や胸に感じる感覚が変化する様子を、心の中で、「ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み」などと実況する(ラベリング)と感じやすくなります。

(3)わいてくる雑念や感情にとらわれない
単純な作業なので、「仕事のメールしなくちゃ」「ゴミ捨て忘れちゃった」など雑念が浮かんできます。そうしたら「雑念、雑念」(妄想、妄想)と心の中でつぶやき、考えを切り上げ、「戻ります」と唱えて、呼吸に注意を戻します。
「あいつには負けたくない」など考えてしまっている場合には、感情が動き始めています。「怒り、怒り」などと心の中でつぶやき、「戻ります」と唱えて、呼吸に注意を戻します。

(4)身体全体で呼吸するようにする
次に、注意のフォーカスを広げて、「今の瞬間」の現実を幅広く捉えるようにしていきます。
最初は、身体全体で呼吸をするように、吸った息が手足の先まで流れ込んでいくように、吐く息が身体の隅々から流れ出ていくように感じながら、「ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み」と実況を続けていきます。

(5)身体の外にまで注意のフォーカスを広げていく
さらに、自分の周りの空間の隅々に気を配り、そこで気づくことのできる現実の全てを見守るようにしていきます。
自分を取り巻く部屋の空気の動き、温度、広さなどを感じ、さらに外側の空間にも(部屋の外の音などに対しても)気を配っていきます。それと同時に「ふくらみ、ふくらみ、縮み、縮み」と実況は続けますが、そちらに向ける注意は弱くなり、何か雑念が出てきたことに気づいても、その辺りに漂わせておくようにして(「戻ります」とはせずに)、消えていくのを見届けます。

(6)瞑想を終了する
まぶたの裏に注意を向け、そっと目を開けていきます。
伸びをしたり、身体をさすったりして、普段の自分に戻ります。

うつ病などの治療を受けている方は、自分の判断で始めず医師に相談してください。

以上が放送内容のあらましです。詳しくはNHKアーカイブで確かめてみてください。

このようにマインドフルネスをはじめ「サマタ瞑想」「アーナパーナ瞑想」など仏教の瞑想法が現代の脳科学などの知見で今後ますます解明されていくことでありましょう。効果絶大などともてはやされておりますが、「信なくば立たず」と言われるように、何事も心から信じることなくして継続はあり得ません。このことをお伝えして今日の言葉といたします。

〔ⅰ〕自身を実在とみなす見解と〔ⅱ〕疑いと〔ⅲ〕外面的な戒律・誓いという三つのことがらが少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。かれは四つの悪い場所から離れ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

 

 

スッタニパータ229

第二 小なる章

<1,宝>

229 城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えらるべきである、とわれは言う。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
城門の外に立つ柱――原語 inda-khila. 学者の指摘したところによると、この習俗は原始インド・ヨーロッパ民族にまで遡ることができるという。

諸々の聖なる真理――原語 ariyasaccani は恐らく「四種の真理」(四諦)に言及しているのであろう。

立派な人―― sappurisa.

以上注より抜粋して引用した。

四諦とは「苦集滅道」の真理です。理法と呼んでもいいでしょう。

これはブッダが、5人の修行仲間に最初に説法を行った(初転法輪)最も重要な悟りの内容です。ブッダの涅槃(死去)の直前にもアヌルッダ長老たちに何度も確認をされた最重要事項でありました。その内容は簡潔ですが、実践となると大変に厳しい修行の全容です。起承転結で表現されており、理論的で実践的な「真理」であります。

(苦)自己から観た森羅万象あらゆる出来事や感覚は全て苦であること。

(集)その苦(生老病死などの四苦八苦)には全て原因があり結果があること。

(滅)その原因をある方法で滅ぼせば苦は消えていくこと。

(道)この方法を実践すること。

この方法とは、じつに八正道(八支聖道)であります。

1、正見正しいものの見方(あるがままを観察して得た知見すなわち如実知見、智慧)

2、正思惟正しい思考(善悪の弁別と論理の内的検証)

3、正語正しい言葉(嘘をつかないこと、丁寧な言葉遣い)

4、正業正しい行い(生き物を殺傷しないこと、無駄な行動をしない)

5、正命正しい生活(規律ある生活をおくること、戒律を守ること)

6、正精進正しい努力(修行に怠りないこと、不放逸であること)

7、正念正しい記憶(教えを胸に刻むこと、念入り・集中)

8、正定正しい禅定(坐禅・瞑想、徹底的思考、呼吸など)

わが心に真理の柱を立てましょう、地中深くに根を掘り下げて。

城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えらるべきである、とわれは言う。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

スッタニパータ228

第二 小なる章

<1,宝>

228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固(けんご)な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
不死――原語 amata は「甘露」の意味をも含めているのであろう。 amrta 
が「不死の飲物」であるという意味は、すでに『リグ・ヴェーダ』以来存する。(中略)ここではニルバーナ(nibbana)のことをいう。

達すべき境地に達し――pattipatta.
(中略)

代償なくして――mudha.「一文もお金を払わないで」(中略)の意。

平安の楽しみ――nibbuti.
以上註より引用した。

「ブッダの教えに基づいて」というところが肝であります。これを離れて何も得ることはできません。たとえ道徳的などのような修行を行おうとも、「慈しみ」で貫かれたブッダの教えを離れて自己満足的な精神修行を重ねたとしたも、達すべき処であるニルバーナ(涅槃)の境地には至らないのであります。なぜそう言えるかといえば、ブッダが個人的に覚りの境地に達して「はい終わり」であれば、2500年もこの道は続いていないという事実です。

もちろん仏教以外にも続いている教えはたくさんあります。これは自分で確かめる以外ありません。自分がブッダの教えを聴いて、教えのとおりやってみて、確かにこの教えは凄い、本物だと得心できるか否かであります。どんなに言葉を重ねても「真理」を理論的に把握することは不可能なのです。神は存在するか否か、宇宙の広がりは有限か無限かなどといった形而上の不可能なことを哲学的に考察するのは(無駄とは申しませんが)殆んど現実に意味がありません。

それより何より今自分の胸に刺さった毒矢を抜くことが先決なのであります。「毒矢の喩え」は有名なブッダの教えでありますが、その教えとて他人事であれば何の価値もありません。他人の痛みは決して完全に自分の痛みとして感じることはできないのです。人にも刺さっているが自分にも刺さっている毒矢を、自分の力で必死に抜く以外ありません。それほどこの道は険しく、しかしながらこの道ほど古くて新しい道はどこにもありません。

堅固な心をもってよく努力しましょう。欲望を無くして不死に没入しましょう。ところがこれは大変困難なことであります。なぜなら人間は例外なく弱い心の持ち主であり、努力どころか怠慢が常に襲ってきます。欲望を持たない人がいるなど考えられませんし、不死(涅槃)のための修行に没頭できる人はごく一部でありましょう。ですから涅槃に達する、すなわち仏道を成就することなど夢のまた夢であることが現実なのです。

「代償なくして得て」とあります。この世の道理で代償無くして得られるものなどがあるでしょうか。ぜひ確認していただきたいのですが、代償すなわち対価をもって買わなければ得られるものは何もないのです。金銭だけとは限りませんが、この世で代償無くして得られるものといえば「無償」ですが、純粋な「無償」は万に一つもありません。俗に言うではありませんか、「金の切れ目は縁の切れ目」と。無償で得たものは必ずどこかで返済することになるのです。無視するかどうかはともかく、どこかでその代償を払う必要があるのが「因縁」というものです。そうです『直接の原因と間接の原因』のことです。

ところが唯一「平安の楽しみ」だけは、「代償」が要らないのであります。人間、結局は苦悩からの脱出以外ありません。苦悩から脱出できたらそれこそ「幸せ」でしょう。単純なことです。複雑に考えればどこまでも複雑に考えることはできます。それが落とし穴に嵌まるということであります。闇から脱出できないどころかドンドン悪循環の罠に嵌っていくことになります。その闇にブッダが光明を灯しておられます。その光を頼りに、苦悩の暗黒から脱出してみませんか。

「宝」と表現された「平安の楽しみ」とは、「安楽」「安穏」とも呼ばれます。外観上は、ただ黙って坐っているだけです。眼を閉じれば「瞑想」眼を開けていれば「坐禅」どちらでも構いません。理屈抜きに坐ってみましょう。ブッダは「起きよ、横になってどうするのか、今そこに坐ることで、平安が得られるというのに」と述べられています。

ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

 

スッタニパータ227

第二 小なる章

<1,宝>

227 善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せな人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
八輩の人〔四双の人〕――仏教の聖者の位を、預流、一来、不還、阿羅漢という四つの聖位に分つ。これを四双(cattari yugani)という。四双一々を、その一々に向って進みつつある位(向 magga)と至りついた境地(果 phala)とに分つから、全部で八つの位があることになり、合わせて八輩(attha puggala)という。

幸せな人――原語はSugataで、仏のことをいう。漢訳仏典では「善逝」と訳す。

ブッダの弟子たちは、修行の進み方に応じて四つの段階に分れ、その一つ一つの段階がさらに二つに分れるから、四くみ(四双)で八種類の人(八輩)となるのである。こういう段階説は、同じ『スッタニパータ』のうちでも古い部分(第四章 Atthaka-vagga' 第五章 Parayana-vagga)には見られない。教義が或る程度整った段階で現れたのである。

 以上註より引用した。

覚りの階梯(修行段階)・・・四向四果

預流向(よるこう)
預流果(よるか)
一来向(いちらいこう)
一来果(いちらいか)
不還向(ふげんこう)
不還果(ふげんか)
阿羅漢向(あらかんこう)
阿羅漢果(あらかんか)・・・「応供」(おうぐ)ともいう。

ブッダの弟子たちは、ブッダが説かれた教えを後世に伝えるために「サンガ」漢訳で僧伽を形成していきます。これが本詩での「つどい」に相当します。教えの内容を正確に伝えるために韻文形式で韻を踏んだ詩偈の形にして伝えたものです。今でもお坊さんはお経を諳んじてお唱えすることがあります。一つ間違えば自分でも気づきますが他の人も直ぐ分かります。唱和することは何千年も同じ言葉を伝えるのに好都合であります。今のように電磁記録であっても一瞬で消えて無くなるかもしれませんし、紙媒体では百年持てば最高でしょう。人から人へサンガの中にあって守り伝えてこれたことは奇跡的でありますが、お坊さんはよく知っています。伝える技術というか仕組みを。

善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せな人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

スッタニパータ226

第二 小なる章

<1,宝>
226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、ひとびとは「〔さとりに向かって〕間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この〈心の安定〉と等しい者はほかに存在しない。このすぐれた宝は理法〈教え〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
心の安定――原語 samadhi は「三昧」と音訳される。心を統一して思うこと。漢訳仏典では「禅定」ということばで訳されるが、禅は dhyana の音写で「心に思うこと」、「定」は精神を統一安定する意味。

間をおかぬ心の安定――原語は samadhi anantarika である。この禅定を得た直後に、間をおかずに、なんらの障礙なくして聖果を得るので、このようにいう。

 以上註より引用した。

「覚りに向かって間を置かぬ心の安定」をどう解釈するかは、後代に「証果」といって覚りの果を得る四向四果(覚りの階梯で四つの段階において覚りの目標と結果を表す)が示されておりますが、目標に向かえば間髪おかずに結果が出る禅定とでも申しておきましょう。すなわち覚りと修行とは別物ではありません。道元禅師様は「修証一如」ともうされ修行をして証(さとり)に至るのではなくして、修行そのものが証悟であると喝破されました。

これは画期的な解説のように感じられるかもしれませんが、そもそも覚りを得たい(目標)とか、そのためには修行が必要(過程)であるといった観念論では決してブッダの真意に近づくことはないでしょう。もうすでに修行をしている、ただ黙って今ここに坐っておる。そこには煩悩も障害も何もないのであります。一息一息に意識を向けながら何も考えない。ただそれだけが心の安定であり、やっているかやっていないかだけの違いです。

この勝れた心の安定は「理法の内に在る」ということですが、平たく申し上げれば「人間は行動してナンボ」です。坐禅なら坐禅、瞑想なら瞑想、念仏でも唱題でも読経でも作務でも、自分がこれだと思うたらそれを徹底してやる、すなわち行動であります。それは一所懸命本気になってやる、無心になってやる、目の前のことをテキパキと、あれこれ考えこんだりせずに徹底してやること以外にないのです。やればちゃんと結果が出る。慣れたことはもう身体が覚えていますから、結果は自ずと出るという当たり前の道理でもあります。

この道理と方法を「理法」と解説しておきます。勝れた宝を生み出す道理と方法さえ知っていれば良いものではありません。それでは単なる知識に過ぎません。たとえ知識を得ても、医者に病気の原因と治療法を聞かされても、食生活などの生活習慣を改めなければ、また必要な措置を施さなければ病気が進行するように、いくら理法を知り得たとしてもさとったことにならないことは言うまでもありません。

何にも理屈を知らなくても、ただ実行していればそれが覚りであると断言するわけではありませんが、くどくどと理屈ばかりをこね回しているよりも、さっさと行動したらよいのであります。お釈迦様から「こうしてやりなさい」と教えられて、そのまま素直に修行してたちまち阿羅漢果(最高の修行段階)に達したというお弟子様方はたくさんいらっしゃいます。観念が邪魔しなければ心が安定するという理法であります。誰の弟子でもありません。ブッダの弟子とはそういう方々を指すのであります。

最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、ひとびとは「〔さとりに向かって〕間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この〈心の安定〉と等しい者はほかに存在しない。このすぐれた宝は理法〈教え〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

スッタニパータ225

第二 小なる章

<1,宝>

225 心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
サキヤムニ――原語 Sakyamuniを「釈迦牟尼」と音訳する。シャカ族の聖者の意。

理法――dhamma.

以上註より引用した。

この詩句は仏法の基本を説いておられます。それはブッダ(釈迦牟尼仏)が行ったことは「心の統一」(禅定)によって、煩悩が消滅した状態、欲望を離れた状態、不死(不生)の状態、勝れたものである状態に到達されたということであります。聖者の境地は客観的に判断できるものではありません。外観は普通の人間です。仏教は外から見て崇拝し盲目的に信仰する教えではないのでして、自分がブッダに成ったとか、覚りの境地に至ったといくら述べても誰もそれを信じ受け入れることはできないでしょう。ではブッダがブッダと呼ばれる所以はといえば、ずばり自ら真理を実行したからであります。

どのような崇高な理念を説こうが、理念通り実践しないのであればそれは虚妄であり空念仏といえます。ブッダの説かれた真理は、どこから追求しても崩れることがありません。いわば完璧なのです。なぜならば人間は完璧でないという圧倒的多数の現実にあって、その完璧を成し遂げた稀有な存在だからです。そしてブッダは自分だけができた、君たちには恐らく無理だろうとは言わないのであります。かんたんに申せば誰でもやろうと思えばやれることが「真理」だと説かれたのです。真理とは真の理法のことです。この世であれ天界であれ、煩悩の火を自分で消すよう努力すること、自分から欲を離れるよう努力することによって必ず到達するものであることが本当の理法だと到達されたのです。

ブッダの説かれた理法を「仏法」と呼びます。ブッダと真理はまさに一つです。観念上のブッダ、観念で妄想した真理ではなく、人間の内なるブッダ(これを佛性といいます)と個々人が全身で感得する理法によって、まさしくブッダの教えを黙って実行する中に、必ずやブッダの側近くにいる自己を味わうものであります。

心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。

スッタニパータ224

第二 小なる章

<1,宝>
224 この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
「この真理によって幸せであれ」という句が繰り返されるが、古代インドにおいては、真理、真実であることばは、必ずそのとおり実現されると考えていた。このことばが真実であるならば、必ずそのとおり実現されるはずだ、というのである。

以上註より引用した。

「この真理によって幸せであれ」のフレーズは本詩を含めて12回繰り返しされます。全き人(如来:ブッダのこと)の語られた言葉は真理であり真実であるから、これを信じて実行し、そのことによって幸せになるのではなく、そのことによって幸せでありなさいと、今現在の幸福すなわち心の平安を得なさいと説いておられます。

われわれは常に真理を探し求めて、どこかに必ずあるはずだ、いつか必ず得られるとの希望をもっております。現世利益(げんせいりやく)とか極楽往生といった将来や死後の幸福や冥福を願うのが常であります。しかしながら今現在を疎かにしがちで、目の前にある幸せに眼を向けることをあまりしません。

この世と、かの世あの世(天界)のどのような富(宝)であれ、ブッダに等しい財宝は存在しない、この勝れた宝は目覚めた人(覚者:ブッダ)の内に存在する真理であると述べられております。これほど力強い言葉はありません。ブッダの説かれた真理こそが宝であり、いつでも今直ぐにでも味わえる幸福そのものであります。現に真理に遭遇していることがまず第一の平安であり、最大の幸福であります。

真理が自己にとって関係のないものであれば、探し求めたり知り得る必要さえないでしょう。それぞれの人々に必要な、全ての人々に不可欠の真理が手に届くところに置いてあります。手に取り確かめてみる価値ありと信じることで、自己の幸福を今ここで直ちに実現できます。真理の力を、自己限り、ぎりぎりの選択、待ったなしの平安を今、必死で行いましょう。幸せを祈ってくれている、護ってくれている尊い命のためにも。今ここに、全心かけて、全機現。(仏教語としての「全機」の全とは全てのもの、機とははたらきのことです。つまり全機とは全てのはたらきであり、真理であります。またその時その時が全てであり、今ここ、あるがままの心が現実であり、真実なのです。)

この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。