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スッタニパータ536

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは〈行いの具わった人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

▶行いの具わった人(実践者)とは、何を具えているのか。一般に円満具足といいます。また出家者は具足戒(大戒)を受けた比丘・比丘尼であります。何を充分に具えるのかが、今日のテーマです。まずもって実行です。教えが何のためにあるのかと言えば、それは教えを実践し、教えどおりに実行する以外ありません。それは頭ではわかっていても、何をどのように実践したらよいかわからない人に、釈尊は丁寧に具体的に示されています。ここまで学んでこられた方は、もうご存知でしょうが、念のために申し上げておきますと、具体的には坐禅だけなのです。こんなことを申し上げると、禅宗だからとか、我田引水のように思われるかもしれませんが、ブッダ釈尊は心を説かれたのです。それでご自身は何をされていたかといえば、もっぱら坐禅されていたわけです。心を鍛えるには坐禅だけなのです。具体的な実践は。この坐禅に、戒律の戒も、禅定の禅も、智慧の智も全部入っております。毎日同じように足を組み、手を組んで、ひたすら坐る。毎日この繰り返しなのですが、毎日違います。何をしていても一日中が坐禅であります。坐禅の中身は自分の心の中身であります。大小便のときも、食事を頂くときも、作務に汗を流すときも、買い物にいくときも、車に乗っていても、歩いていても、走っていても、腰掛けているときも、寝ているときも、行住坐臥。ことごとく坐禅のときと同じであります。人と話をしていても坐禅です。わかりやすい表現を使えば自然体ですね。無理がないのです。あっけらかんとしている。腹が立たない。泰然自若。虚心坦懐。何でもいいのですが、とにかく坐るということは、修行そのものであり、これが悟りであります。別にどうってことないのです。実践実行の証拠に過ぎません。有能ということは能が有ると書きます。能というのはあたうという本来の意味があります。われわれ人間にはもともと具わっているものがあります。それが仏性ということです。覚るべくして生まれておるのであります。すなわち覚醒ですね。眠っている仏性(仏種)を呼び覚ますのは、坐禅をするという行動であります。朝早く起きて、皆が寝ている間に、新聞を読んでいる間に、二度寝をしている間に、どこでもいいのです。自宅で、ベッドの上で、部屋の片隅でもいいです。できればお仏壇の前に坐って、線香を一本まっすぐに立てる。これで準備OKです。5分間でもよろしい。ただ坐ってみる。ごちゃごちゃ理屈をこねる前に実行です。誰も見とりゃせんのです。そんな朝早くから。寝る前でもいいです。とにかく一日に5分間だけ。仏になる。五分坐れば五分の立派な仏です。これで仏縁ができます。仏がほっとかん。こんな五月蝿い時代に、こんなにも清々すがすがしく坐っておるというだけで、有能ということです。能無しにならんでいただきたい。実行できる能力を確かに持っておられるわけですから。

常に理法を知れ

宣言しておきます。わたしが認知症になったら、それは坐禅をせなんだという証拠です。別に認知症患者のことを馬鹿にしておる訳ではありません。病気というのは死ぬまでに必ず罹ります。人間だれしも完全では無いということです。気の病というておるのではありません。実際に身体のあちこちが不全になるということです。これは仕方がないことです。また結構なことでもあります。みんな死んでいくのに自分だけいつまでたっても死ななんだら格好がつきません。それぐらいに思っておいて丁度ええのかもしれません。ええですか。理法というのは誰が何をほざこうが、すっくと在るのです。別に誰にへつらうこともしません。常にここに有ります。有時うじというのですが、この世は時で出来ておるのです。まあ、こんなことを申し上げると尚更わけがわからなくなりますから止めておきますが、一寸先は闇です。決してわからない。一寸前ならわかっておるようで、わかっちゃいない。単なる過去の認識に過ぎません。こんな過去に、取るに足らない過去にいつまでグチグチと拘っておるのかという馬鹿さ加減であります。エエカゲンにしなければなりません。今を生きる。この瞬間瞬間に命がある。それ以外には無い。明日は明日でがんばればいいのです。昨日のことは追憶にすぎません。そんなことにかかづらっていたのでは、埒が明きません。今しかない。これが坐禅の真骨頂です。常に理法を知るというのは、この世をなめてかかることではありません。ぎりぎりの瀬戸際であります。真面目しんめんぼくが一番です。わたくしの友は、軽く、坐禅でもしてみませんかと一回だけ、ぎりぎりの推奨をしたのですが、見事に続けて居られます。これには正直頭が下がります。前生因縁としか言いようがありません。生きた観音様であります。何が彼をそうさせたのか皆目見当がつきません。何しろ続けて居られます。

棚作り出来た尻から棚に上げ(月路)

奥さんが、よくご主人に棚を作ってとせがむ時があります。ご主人は、たいてい作り事が好きですから、喜んで普請にかかります。ホームセンターに行き、材料を仕入れて悪戦苦闘。出来栄えを心から喜んでいるのはご主人様です。奥様は涼しい顔です。「割りと速く出来たわね」ねぎらいの言葉と受け止めて、嬉しそうな顔をしているご主人を尻目に、早速出来上がった棚に片付けられない処分できないものが並んでいきます。困ったものです。本来は今までのままでも十分機能している収納箇所がまた一つ増えただけです。と、申し上げながら、わたしも棚を作っております。棚上げにした課題を山と積むために。

この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは〈行いの具わった人〉である。