第三 大いなる章
〈1.出家〉
424 諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て、また出離こそ安穏(あんのん)であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て……――第一〇九八詩参照。 1098 師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。 以上註記より引用した。
出家の姿、外観は普通の人々と何も変わりません。立派な衣を着ているとか、僧侶としての高い地位に在るとか、修行年数であるとか、どこのお寺の住職であるとか。そういう外観は全く何も関係ありません。これは内面の問題であります。当り前ですが、これをわかっていない、わかろうともしない人々が適当に批評しているだけであります。出離というのは、とらわれから抜け出し、こだわりから離れることです。形だけ出家したとしても、この出離という安穏を知らなければ、もったいない極みであります。
一言で申せば、普通の人々は一日中妄執で過ごすのです。あの人はああ言った。この人がこう言った。そんなどうでも良いことにうなされながら、ああでもない、こうでもないと妄想をめぐらし、どうしよう、こうしようと執著して一日を過ごしています。疲れないはずがありません。そういう物事を一々取り上げていたら、どんどん欲求不満が溜まりに溜まって、捨てるに捨てられないゴミのようなものが頭にいっぱい溜まってまいります。心のゴミ屋敷を自分でつくっています。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも何もない。ガランとした心のなかにする。いわば心の断捨離を進めることが、つとめはげむこと、つまり精進、努力なわけです。こんな具体的なことはありません。
精神論という言い方があります。心の内面を皮肉った、とても嫌な言い方があります。そういう人に限って、自分は完全でありリアルスティックであると本気で考えています。現実が現実でないとは申しません。また現実は現実だとも断言できません。何が平安で平穏なのかを突き詰めれば、出離以外にないのであります。何をしていても囚われない拘らない。誰から何を言われてもたじろがない。そういう不動の精神、安穏の境地。これを楽しむこと。これが出家の覚悟でなくして何でありましょうか。
こうなりたい。こう思われたい。わたしは間違っていない。これが最も大きな欲望なのです。自己への囚われ、自分自身が自分自身によって束縛されていること。さまざまな欲望には患い、憂いがあること。自分を苦しめているのは自分自身であること。これが憂い(患い)であることにいち早く気付いたものが出家するのであります。般若心経は全てを否定しています。ブッダの教えとされる四聖諦や八正道、十二因縁さえも「無」とします。これは無いという軽い意味ではありません。こだわらない、とらわれないということです。出離を無と表現したのです。理論武装に仏教をもってするなどは、以ての外であります。
わたしが「スーパー坐禅」を提唱するのは、こうした仏教者が陥りやすい、あるいはどっぷり浸かった完璧主義に、堂々と反旗を翻すものであります。あらゆる観念を捨てる。あらゆる権威から離れる。騒音の中で坐禅ができなければ、家族の声が飛び交う中で坐禅しなければ意味が無いのです。誰が何と言おうと、まるで仏像のように坐っている。寝ながらでも坐禅はできます。否、坐れない人が、あるいは寝たきりの方でも坐禅できなければ、意味がありません。やれ禅宗だ、仏教だという狭い了見で坐禅を捉えるのは、スタイルや格好、場所にこだわりすぎているからです。もう黙っていられません。
坐禅など 忘れてしまえと 暮晦日 (月路)
道元禅師は「普勧坐禅儀」と書かれた。これは誰にでも坐禅を勧めるというものです。年齢、性別、学歴、出自、宗教宗派、思想に関係なく、坐禅しましょうと仰ったではないか。坐禅と出離は同じ意味です。出離を楽しむことと坐禅を楽しむことは全く同義です。何も考えないというのは、考えないということを考えるというものです。非思量は非思考のことです。思考ではない思考。それをどう実現するかを「工夫」といいます。一つにこだわれば、それがこだわりです。人それぞれの坐禅があっていいのです。銘々各自の坐禅なのですから。
諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」